みづきが五百森家へ来てから、ひと月が過ぎた。
朝になればタキと台所に立ち、昼には紗世と洗濯物を干す。庭へ出ればリツが遊んでくれとまとわりつき、日が暮れれば朔哉の包帯を取り替える。客間だった部屋にも今では自分の持ち物が少しずつ増えていた。
今日も、みづきの帯には小さな狐の根付が揺れている。
帝都の祭りで、朔哉が射的の景品として取ってくれたものだ。歩くたび、赤い組紐の先についた鈴が、リン、と小さな音を立てる。
その音を聞くと、どうしても祭りの日を思い出してしまう。
人混みの中で取られた手。
すぐ隣にあった、凛々しい横顔。
リツを挟み、月明かりの下で交わした会話。
――君が隣にいたからかもしれないな。
あの言葉まで蘇り、みづきは慌てて帯元から手を離した。
「何をひとりで赤くなってるの?」
洗濯かごを抱えた紗世が、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「な、何でもありません」
「本当に?」
「……本当です」
みづきが何度も頷くと、紗世は少し疑わしそうにしながらもそれ以上は追及しなかった。
「それならいいけど。そうだ、これを庭へ運ぶのを手伝ってくれる?」
「はい」
「なんだか変な天気なのよね。だから、早めに干し終わっておきたくて」
見上げると、薄雲がかかる空の向こうは、灰色の雲が厚く立ち込めていた。
みづきは紗世と洗濯物を干し終わると、かごを持って廊下を歩く。すると縁側に朔哉が座っていた。
軍服ではなく、濃紺の着流し姿をしている。膝の上には読みかけらしい書類が数枚置かれていたが、視線は文字ではなく、庭の木々へ向けられていた。
「朔哉さん、今日はお仕事ではなかったんですか?」
今日は平日だ。いつもならとっくに軍部へ出勤している時刻だった。そう思って声をかけると、朔哉がこちらを振り返った。
「ああ。そのはずだったんだけど、今朝になって急遽、自宅待機を命じられた」
いつもと変わらない、穏やかな微笑み。
けれど、その瞳の奥には隠しきれない警戒があった。
「自宅待機……?なにかあったんでしょうか」
「理由は聞かされていない。静馬や暁斗にも朝から連絡がつかなくて、第一部隊の様子もわからない」
みづきの胸に、小さな不安が落ちた。
舞台の隊長であるはずの朔哉が、自分の率いる部隊の動きを何も知らされていないなんて。それがこれまでにはないことだと、朔哉の反応でわかった。
朔哉は立ち上がると、庭の向こうへ鋭い視線を走らせた。
庭では、リツが祭りで手に入れた風車を持って走り回っている。
薄曇りの空の下、干したばかりの洗濯物が、強い風を受けてはためいていた。
いつもと変わらないはずの光景。
それなのに、屋敷全体が息を潜め、何かが訪れるのを待っているように感じられた。
その時、蔵の方角からかすかに鳴き声が聞こえた。
なぜかふいに、呼ばれたような気がしたのだ。
「どうかしたのか?」
「あの、私ちょっと小屋を見てこようかと思って」
「ああ、仙狸の小屋だね。一緒に行こうか」
朔哉は縁側へ書類を置いて立ち上がった。
ふたりで芝生の庭を抜けて蔵の裏手へ回る。五百森家の屋敷に現れて、いつでも帰ってこられるようにと作った、仙狸のための小屋だ。
「……あ」
小屋の屋根に、懐かしい影が座っていた。
三毛模様の大きな身体と長い尾。そして、鮮やかに光る翠色の瞳。
「戻ってきてたの?」
思わず、みづきの声が弾む。
仙狸は小屋の屋根に座り、じっとみづきを見下ろしていた。
「久しいな」
「……え?」
みづきは足を止めた。
低く、落ち着いた声。
けれど、そばにいるのは朔哉だけだ。
「え、もしかして喋った……!?」
仙狸は堪える代わりに、長い尾を悠然と揺らした。
「以前から話せたのか?」
「話す必要がなかったからな」
「つまり、今日はその必要があるということだな」
朔哉の声から穏やかさが消えた。
驚きながらもすぐに何かを察したのだろう。仙狸を見つめる瞳が、鋭く細められている。
仙狸は一度正門の方角へと顔を向けてから、仙狸の耳がぴくりと動く。
「来るぞ。鉄と血の匂いだ」
冷たい沈黙が、庭へ落ちた。
「今すぐここを離れろ。武器を持った人間どもが、この屋敷を囲もうとしておる」
朔哉の表情から、ほんのわずかに残っていた柔らかさが消えた。
「数は?」
「多い。正面だけではないな。裏手の森にも人を回している」
「……そういうことか。自宅待機は俺を軍部から切り離し、屋敷へ閉じ込めるためだったらしい」
みづきの背筋を、冷たいものが走った。
この屋敷へ、兵士たちが来る。
つい先ほどまで洗濯物を運び、夕食には何を作るのだろうと考えていた場所へ、武器を持った人間たちが押し寄せてくる。
また、奪われるのだろうか。
故郷の村を失った時のように。ようやく見つけたこの場所まで、失ってしまうのだろうか。
その時、仙狸が不意に身を低くした。
「……すまぬな。遅かったようだ」
低く、静かな声だった。
「予想より早い」
仙狸がそう言い終わるのと、ほぼ同時だった。
空を裂くような大きな羽音が響く。黒い鳥が庭へ舞い降り、無数の羽を散らしながら白髪の老人の姿へ変わった。羅刹だ。
「屋敷が囲まれ始めておる。正門に主力が集まっているが、裏手の包囲もじきに完成する」
「あと、どれくらい時間がある?」
「そう長くはあるまい」
羅刹が答えると、仙狸が小屋の屋根から飛び降りて一度だけみづきを振り返った。
「わしもここを離れる。縁を結んだ娘を見捨てるほど薄情でもない。森へ抜ける道は、しばらくわしが惑わせておこう」
「仙狸さん……」
「またな、縁の娘」
それだけ告げると、仙狸は塀へ飛び乗って森の中へ姿を消した。
朔哉はその背を見送る間もなく、羅刹へ向き直った。
「羅刹。タキさんと紗世、リツを連れて裏手の森へ逃げてくれ。正面の部隊が主力だ。裏手の包囲が完成する前なら、まだ森へ抜けられる」
「わしが皆を集める。縁の娘、お主も来い」
「待ってください。朔哉さんは……?」
「俺はここに残る」
ここに残る――たったひとりで、武器を持った大勢の兵を迎えるということだ。
「嫌です」
考えるより先に、言葉が出た。
朔哉の目が、みづきへ向く。
「私は朔哉さんと一緒にいます」
「駄目だ」
「でも……!」
「みづき」
朔哉が目の前まで歩み寄る。両肩へ置かれた手は、いつもと同じように優しかった。
「相手の目的がわからない。でも、君がここにいることは知られてしまっている。危険に晒すわけにはいかない」
「だったら、私だけ逃げるわけにはいきません!」
「君を守りながらでは、俺は戦えない」
はっきりと言われ、みづきは息を詰めた。足手まといだと突きつけられたようで、胸が痛む。
けれど朔哉は、すぐに困ったように目を細めた。
「違う。君が邪魔だと言っているんじゃない」
肩に置かれた手にわずかに力がこもる。
「君がそばにいたら、俺は君のことしか考えられなくなる」
「……っ」
胸の奥で、何かが大きく震えた。
嬉しいなどと思ってはいけない状況なのに。朔哉が自分をどれほど大切に思ってくれているのか、その重さが痛いほど伝わってくる。
だからこそ、行かなければならない。
それでも、この人をひとりにしたくなかった。
「リツを守ってやってくれ」
「……そんな言い方、卑怯です」
そんなふうに託されたら、ここに残るとは言えない。
「朔哉さんも、あとから来てくれますか」
「ああ」
「本当に?」
「約束する。必ず行くよ」
朔哉の右手が、みづきの髪へ触れる。
いつものように優しく、落ち着かせる手つきだった。
「夕食までには追いつく」
みづきは、その言葉を信じたかった。
けれど朔哉の瞳の奥に、見送る人のような寂しさが過ぎった気がして、胸が締めつけられる。
「……必ずですよ」
「ああ」
もう一度髪を撫でると、朔哉は名残を断ち切るように手を離した。
その温もりが消えたことが、たまらなく怖かった。
朝になればタキと台所に立ち、昼には紗世と洗濯物を干す。庭へ出ればリツが遊んでくれとまとわりつき、日が暮れれば朔哉の包帯を取り替える。客間だった部屋にも今では自分の持ち物が少しずつ増えていた。
今日も、みづきの帯には小さな狐の根付が揺れている。
帝都の祭りで、朔哉が射的の景品として取ってくれたものだ。歩くたび、赤い組紐の先についた鈴が、リン、と小さな音を立てる。
その音を聞くと、どうしても祭りの日を思い出してしまう。
人混みの中で取られた手。
すぐ隣にあった、凛々しい横顔。
リツを挟み、月明かりの下で交わした会話。
――君が隣にいたからかもしれないな。
あの言葉まで蘇り、みづきは慌てて帯元から手を離した。
「何をひとりで赤くなってるの?」
洗濯かごを抱えた紗世が、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「な、何でもありません」
「本当に?」
「……本当です」
みづきが何度も頷くと、紗世は少し疑わしそうにしながらもそれ以上は追及しなかった。
「それならいいけど。そうだ、これを庭へ運ぶのを手伝ってくれる?」
「はい」
「なんだか変な天気なのよね。だから、早めに干し終わっておきたくて」
見上げると、薄雲がかかる空の向こうは、灰色の雲が厚く立ち込めていた。
みづきは紗世と洗濯物を干し終わると、かごを持って廊下を歩く。すると縁側に朔哉が座っていた。
軍服ではなく、濃紺の着流し姿をしている。膝の上には読みかけらしい書類が数枚置かれていたが、視線は文字ではなく、庭の木々へ向けられていた。
「朔哉さん、今日はお仕事ではなかったんですか?」
今日は平日だ。いつもならとっくに軍部へ出勤している時刻だった。そう思って声をかけると、朔哉がこちらを振り返った。
「ああ。そのはずだったんだけど、今朝になって急遽、自宅待機を命じられた」
いつもと変わらない、穏やかな微笑み。
けれど、その瞳の奥には隠しきれない警戒があった。
「自宅待機……?なにかあったんでしょうか」
「理由は聞かされていない。静馬や暁斗にも朝から連絡がつかなくて、第一部隊の様子もわからない」
みづきの胸に、小さな不安が落ちた。
舞台の隊長であるはずの朔哉が、自分の率いる部隊の動きを何も知らされていないなんて。それがこれまでにはないことだと、朔哉の反応でわかった。
朔哉は立ち上がると、庭の向こうへ鋭い視線を走らせた。
庭では、リツが祭りで手に入れた風車を持って走り回っている。
薄曇りの空の下、干したばかりの洗濯物が、強い風を受けてはためいていた。
いつもと変わらないはずの光景。
それなのに、屋敷全体が息を潜め、何かが訪れるのを待っているように感じられた。
その時、蔵の方角からかすかに鳴き声が聞こえた。
なぜかふいに、呼ばれたような気がしたのだ。
「どうかしたのか?」
「あの、私ちょっと小屋を見てこようかと思って」
「ああ、仙狸の小屋だね。一緒に行こうか」
朔哉は縁側へ書類を置いて立ち上がった。
ふたりで芝生の庭を抜けて蔵の裏手へ回る。五百森家の屋敷に現れて、いつでも帰ってこられるようにと作った、仙狸のための小屋だ。
「……あ」
小屋の屋根に、懐かしい影が座っていた。
三毛模様の大きな身体と長い尾。そして、鮮やかに光る翠色の瞳。
「戻ってきてたの?」
思わず、みづきの声が弾む。
仙狸は小屋の屋根に座り、じっとみづきを見下ろしていた。
「久しいな」
「……え?」
みづきは足を止めた。
低く、落ち着いた声。
けれど、そばにいるのは朔哉だけだ。
「え、もしかして喋った……!?」
仙狸は堪える代わりに、長い尾を悠然と揺らした。
「以前から話せたのか?」
「話す必要がなかったからな」
「つまり、今日はその必要があるということだな」
朔哉の声から穏やかさが消えた。
驚きながらもすぐに何かを察したのだろう。仙狸を見つめる瞳が、鋭く細められている。
仙狸は一度正門の方角へと顔を向けてから、仙狸の耳がぴくりと動く。
「来るぞ。鉄と血の匂いだ」
冷たい沈黙が、庭へ落ちた。
「今すぐここを離れろ。武器を持った人間どもが、この屋敷を囲もうとしておる」
朔哉の表情から、ほんのわずかに残っていた柔らかさが消えた。
「数は?」
「多い。正面だけではないな。裏手の森にも人を回している」
「……そういうことか。自宅待機は俺を軍部から切り離し、屋敷へ閉じ込めるためだったらしい」
みづきの背筋を、冷たいものが走った。
この屋敷へ、兵士たちが来る。
つい先ほどまで洗濯物を運び、夕食には何を作るのだろうと考えていた場所へ、武器を持った人間たちが押し寄せてくる。
また、奪われるのだろうか。
故郷の村を失った時のように。ようやく見つけたこの場所まで、失ってしまうのだろうか。
その時、仙狸が不意に身を低くした。
「……すまぬな。遅かったようだ」
低く、静かな声だった。
「予想より早い」
仙狸がそう言い終わるのと、ほぼ同時だった。
空を裂くような大きな羽音が響く。黒い鳥が庭へ舞い降り、無数の羽を散らしながら白髪の老人の姿へ変わった。羅刹だ。
「屋敷が囲まれ始めておる。正門に主力が集まっているが、裏手の包囲もじきに完成する」
「あと、どれくらい時間がある?」
「そう長くはあるまい」
羅刹が答えると、仙狸が小屋の屋根から飛び降りて一度だけみづきを振り返った。
「わしもここを離れる。縁を結んだ娘を見捨てるほど薄情でもない。森へ抜ける道は、しばらくわしが惑わせておこう」
「仙狸さん……」
「またな、縁の娘」
それだけ告げると、仙狸は塀へ飛び乗って森の中へ姿を消した。
朔哉はその背を見送る間もなく、羅刹へ向き直った。
「羅刹。タキさんと紗世、リツを連れて裏手の森へ逃げてくれ。正面の部隊が主力だ。裏手の包囲が完成する前なら、まだ森へ抜けられる」
「わしが皆を集める。縁の娘、お主も来い」
「待ってください。朔哉さんは……?」
「俺はここに残る」
ここに残る――たったひとりで、武器を持った大勢の兵を迎えるということだ。
「嫌です」
考えるより先に、言葉が出た。
朔哉の目が、みづきへ向く。
「私は朔哉さんと一緒にいます」
「駄目だ」
「でも……!」
「みづき」
朔哉が目の前まで歩み寄る。両肩へ置かれた手は、いつもと同じように優しかった。
「相手の目的がわからない。でも、君がここにいることは知られてしまっている。危険に晒すわけにはいかない」
「だったら、私だけ逃げるわけにはいきません!」
「君を守りながらでは、俺は戦えない」
はっきりと言われ、みづきは息を詰めた。足手まといだと突きつけられたようで、胸が痛む。
けれど朔哉は、すぐに困ったように目を細めた。
「違う。君が邪魔だと言っているんじゃない」
肩に置かれた手にわずかに力がこもる。
「君がそばにいたら、俺は君のことしか考えられなくなる」
「……っ」
胸の奥で、何かが大きく震えた。
嬉しいなどと思ってはいけない状況なのに。朔哉が自分をどれほど大切に思ってくれているのか、その重さが痛いほど伝わってくる。
だからこそ、行かなければならない。
それでも、この人をひとりにしたくなかった。
「リツを守ってやってくれ」
「……そんな言い方、卑怯です」
そんなふうに託されたら、ここに残るとは言えない。
「朔哉さんも、あとから来てくれますか」
「ああ」
「本当に?」
「約束する。必ず行くよ」
朔哉の右手が、みづきの髪へ触れる。
いつものように優しく、落ち着かせる手つきだった。
「夕食までには追いつく」
みづきは、その言葉を信じたかった。
けれど朔哉の瞳の奥に、見送る人のような寂しさが過ぎった気がして、胸が締めつけられる。
「……必ずですよ」
「ああ」
もう一度髪を撫でると、朔哉は名残を断ち切るように手を離した。
その温もりが消えたことが、たまらなく怖かった。

