穢れの軍神と縁の花嫁

 夜の屋敷を、涼しい風が通り抜けていた。
 縁側へ続く障子が少しだけ開いていて、庭を照らす月が見える。朔哉は息を吐きながら、廊下の柱へ背を預けた。
 
 「恋煩いか」
 
 不意に声がして、朔哉は眉を上げた。
 庭先の大きな石の上に、一人の老人が腰を下ろしている。白髪を夜風になびかせ、長い袖の中で腕を組んでいた。
 
 「羅刹。起きていたのか」
 「お主こそ。あれほど遅くまで祭りで遊び呆けておったというのに、まだ眠れぬらしいな」
 「余計なお世話だよ」
 
 羅刹の隣を通り過ぎようとした時、面白そうに口の端を上げた。
 
 「あれは縁の娘だ」
 
 背後から、羅刹の低い声が届く。
 
 「人も獣も、あやかしすらも惹き寄せ、縁を結ぶ。お主があの娘に惹かれるのも、その力ゆえかもしれぬぞ」
  「それは違う」
 
 朔哉は迷わず否定した。自分でも驚くほど、強い声が出た。
 
 羽倉で初めてみづきを見た時のことを思い出す。

 最初は——確かに、力に興味を持った。
 瘴狼の群れに囲まれていたのに、みづきだけは襲われていなかった。あやかしたちは彼女の声に反応し、動きを止めた。
 瘴気に侵されて倒れかけた朔哉のもとへ、恐れることなく駆け寄ってきた。異形の左腕へ触れた瞬間、燃えるように疼いていた瘴気が、嘘のように鎮まった。

 あの時、希望を見た。
 あやかし化を止められるかもしれない。失いかけていたものを、取り戻せるかもしれない。
 そう考えたことは否定できない。
 
 「彼女があやかしに襲われない理由も、俺の瘴気を鎮めた理由も知りたかった。彼女自身、自分に何が起きているのか理解していなかったから」
 「ゆえに、屋敷へ連れ帰ったと?」
 「ああ」
 
 朔哉は自分の左手へ視線を落とした。
 包帯に覆われた、人前では決して晒せない腕。

 それを見せた時、みづきは驚きながらも逃げず、その手で包帯を巻き直してくれた。
 ここ数日では、夜になると自然に隣へ腰掛け、黒い鱗へ迷いなく触れるようになった。異形の姿を恐れる様子もなく、丁寧に、何度も確かめながら包帯を巻いてくれる。
 
 「彼女だから、惹かれている」
 
 言葉にしてしまうと、思っていたよりもずっと簡単だった。

 リツと遊ぶ時の、柔らかな笑顔。
 紗世の恋を応援して、自分のことのように一喜一憂する姿。
 仙狸を守ろうと「この子は何もしていません」と言い張った時のまっすぐな目。

 そして今日――祭りの灯りの下で見た、楽しそうな表情。
 手を握った時の温もりと、リツを挟んで眠る、穏やかな寝顔。
 
 羅刹やがて大きく息を吐いて、呆れたように肩をすくめた。
 
 「そこまで分かっておって、何を迷う」
 「簡単に言うな」
 「娘を好いておる。ならば、そばへ置けばよい」
 「そうできる立場なら、悩んでいないよ」
 
 月明かりに照らされた左腕を持ち上げる。白い包帯の下にあるものを、羅刹は誰よりよく知っている。
 
 「俺はいずれ、あやかしになる」
 
 自分の声が、静かな庭へ落ちた。
 討伐者は、あやかしを討つほど瘴気を身に蓄える。やがて肉体が耐えきれなくなり、人ではないものへ変わっていく。
 今はみづきの力でそれが抑えられているが、次にあやかしの討伐に向かえば、また同じことになるかもしれない。

 いつ瞳が変わるか。いつ理性が失われるか。いつ、大切な人へ牙を剥く存在になるか。
 それは誰にも分からないのだ。
 
 「後悔しているか。わしと契約を結んだことを」
 
 朔哉は再び、空を見上げた。

 幼い頃から、朔哉には人には見えないものを感じ取る力があった。
 あやかしの気配を捉える力――幽識(ゆうしき)力。

 その力に気づいた祖父は、ある日、朔哉にだけ秘密の場所を教えてくれた。
 五百森家の森を抜けた、その先。鳥居も社もないのに、そこだけ空気が澄んでいる。淡い霞に包まれ、春のように暖かいにもかかわらず、鳥の声も人の気配もない。
 普通の人間には決してたどり着けない、人とあやかしの境にある場所。
 それが、幽明の庭だった。

 望めばいつでも行けるわけではない。
 強く願い、なおかつ庭そのものに受け入れられた者だけが、そこへ足を踏み入れられるのだと、祖父は言った。

 そして、庭の中央に立つ千縁樹(せんえんじゅ)についても教えてくれた。

 運命を結ばれた二人がその下で想いを交わせば、ひとつの(えにし)は千にも増え、二度と離れ難くなる。
 幼い朔哉には、まるでおとぎ話のように思えたものだった。

「もう十五年になるか。早いものだな」

 傍らで、羅刹が呟く。

 朔哉が父を亡くしたのは、今から十五年前。
 五百森家は代々、高位の軍人を輩出してきた家系だった。父は討伐者ではなかったが、あやかしによる被害が拡大すれば、軍人として出動を命じられる。

 そして、派遣された先であやかしに命を奪われた。

 悲しみと怒りも持て余した朔哉は、何かに導かれるように森を進み、幽明の庭へたどり着いた。
 霞の向こうに、巨大な千縁樹が立っていた。

 幼い朔哉は、ただ一心に願った。

 ――父を殺したあやかしを、この手で倒したい。
 ――そのために、強くなりたい。

すると、黒い翼を持つ大きな鳥が音もなく降り立って、すべてを見透かすような目で朔哉を見下ろした。

「お前の幽識の力を、今より強くすることはできる。その力を何のために使うかは、お前次第だ」

 羅刹との契約は、そうして結ばれた。
 契約によって幽識の力を高めた朔哉は、やがて討伐者の道を選んだ。

 強い力を持つがゆえに、誰より多くの戦場へ駆り出され、数えきれないほどのあやかしを討った。
 そして戦いを重ねるうち、自身の身体が少しずつ瘴気に蝕まれていることを知った。

 強くなれば、それだけ多くの命を救える。
 それと同時に、戦うほど自分は人ならざるものへ近づいていくのだと。