静かな夜だった。
開け放たれた障子の向こうから、青白い月明かりが差し込んでいる。
聞こえるのは、穏やかな寝息だけだ。
真ん中では、祭りではしゃぎ疲れたリツが、布団を半分蹴飛ばして眠っている。その小さな両手は、眠りに落ちた今も、みづきの左手をしっかりと握っていた。
その向こうに、みづきがいる。
朔哉は目を閉じたまま、ひとつ息を吐いた。眠れないけれど、不思議と不快ではなかった。
普段、眠りにつけない夜は長い。
左腕の奥で瘴気が蠢くような疼きを覚えたり、次の討伐のことを考えたり、過去に斬ったあやかしの断末魔が耳の奥に蘇ったりする。
でも今夜は違った。リツの寝息と、もうひとつの、かすかな呼吸。それを聞いているだけで、胸の内がひどく穏やかだった。
朔哉はゆっくりと目を開けた。
祭りへ足を運んだのは、いつ以来だっただろう。まだ父が生きていた幼い頃、手を引かれて出かけた記憶が、かすかに残っている。
軍務に就いてからは、賑やかな場所へ出向く機会などなく、左腕が瘴気に侵されてからはなおさら人混みを避けてきた。
人と肩が触れるほどの雑踏を歩くことも、誰かと手をつないで歩くことも。
そんなありふれたことが、自分には決して当たり前ではないと、朔哉は知っている。
月明かりに照らされた天井を見つめながら、先ほどみづきと交わした言葉を思い出す。
――君が隣にいたからかもしれないな。
気づけば、そんなことを口にしていた。
どうしてあんな言葉が出たのか。でも間違いなく、今日の祭りが楽しかったのは、みづきが隣にいたからだ。
初めて見るものすべてに目を輝かせていたみづき。焼き菓子の甘い香りに足を止め、祭囃子が聞こえれば振り返り、リツが走り出せば心配そうにその背を目で追う。
気がつけば、どの瞬間も彼女の表情ばかりを追っていた。
射的の屋台へ急に引っ張られた時も、何事かと思えば、紗世と静馬をふたりきりにしたかっただけらしい。言いづらそうに視線を泳がせ、からかわれたと知れば、むっと頬を膨らませる。
――私だって、それくらいのことはわかりますっ。
あの時は、つい笑ってしまった。
いつも控えめで、どこか遠慮がちなみづきが、あんなふうに感情をあらわにする。それが、たまらなく嬉しかった。
ふと、羽倉で出会った日の姿が脳裏をよぎる。
――私はやっぱり、化け物なんでしょうか?
今にも崩れそうだった、あの声。
それが今では、リツと一緒に庭を歩き、紗世と笑い合い、タキの手伝いをしたいと言う。弓を持たせれば、できないと言いながらも最後にはしっかりと的を射抜いた。祭りでは自分から袖を掴んで、人混みの中を引っ張っていった。
その小さな変化を見つけるたびに、胸の奥が温かくなる。
これからも、もっと笑っていてほしい。この屋敷で安心して眠り、朝になれば食卓を囲み、今日のような楽しいことがあれば、隣で笑っていてほしい。
いつから、そんなふうに願うようになったのだろう。
「……ん」
小さな声がして、朔哉は思考を止めた。
リツが布団の中で寝返りを打つ。それにつられて、みづきもわずかに身じろぎした。
薄い掛け布団が、みづきの肩から滑り落ちそうになる。朔哉は起こさないよう静かに手を伸ばして、そっと掛け直した。
祭りではしゃいだせいか、白い頬にはまだうっすらと赤みが残っていた。
頬にかかっている紙を一筋、そっと指先で払う。触れた瞬間、みづきの睫毛がかすかに揺れた。けれど目は開かない。規則正しい寝息が続いている。
指先を引こうとして——止まった。
安心しきった、無防備な顔で眠っている。
胸の内に、得体の知れないものが込み上げた。
笑っていてほしい。誰にも傷つけさせたくない。自分のそばで、穏やかに過ごしていてほしい。
「困ったな……」
声にならないほど小さく、呟いた。
みづきは知らない。
姿が見えないと、無意識に探してしまうことを。
軍部にいる時でさえ、ふと屋敷にいる彼女のことを思い出してしまうことを。
今日、人混みの中で手を取った時——離したくないと思った。
驚いて震えた指先が、やがて拒むことなく自分の手の中へ収まった。
あのまま、ずっと歩いていたかった。
一緒にいる時間を、心地よいと感じている。
この気持ちをなんと呼ぶのか。
もう、答えは分かっていた。分かっていながら、認めることを先延ばしにしていた。
頬へ触れないよう気をつけながら、右手でそっと髪を撫でる。
みづきはかすかに唇を緩めた。眠ったまま笑ったように見えて、朔哉もつられるように目を細める。
「……おやすみ」
届くはずのない声で告げ、静かに立ち上がった。
これ以上ここにいれば、本当に眠れなくなる。襖を閉めると、朔哉は音を立てずに廊下へ出た。
開け放たれた障子の向こうから、青白い月明かりが差し込んでいる。
聞こえるのは、穏やかな寝息だけだ。
真ん中では、祭りではしゃぎ疲れたリツが、布団を半分蹴飛ばして眠っている。その小さな両手は、眠りに落ちた今も、みづきの左手をしっかりと握っていた。
その向こうに、みづきがいる。
朔哉は目を閉じたまま、ひとつ息を吐いた。眠れないけれど、不思議と不快ではなかった。
普段、眠りにつけない夜は長い。
左腕の奥で瘴気が蠢くような疼きを覚えたり、次の討伐のことを考えたり、過去に斬ったあやかしの断末魔が耳の奥に蘇ったりする。
でも今夜は違った。リツの寝息と、もうひとつの、かすかな呼吸。それを聞いているだけで、胸の内がひどく穏やかだった。
朔哉はゆっくりと目を開けた。
祭りへ足を運んだのは、いつ以来だっただろう。まだ父が生きていた幼い頃、手を引かれて出かけた記憶が、かすかに残っている。
軍務に就いてからは、賑やかな場所へ出向く機会などなく、左腕が瘴気に侵されてからはなおさら人混みを避けてきた。
人と肩が触れるほどの雑踏を歩くことも、誰かと手をつないで歩くことも。
そんなありふれたことが、自分には決して当たり前ではないと、朔哉は知っている。
月明かりに照らされた天井を見つめながら、先ほどみづきと交わした言葉を思い出す。
――君が隣にいたからかもしれないな。
気づけば、そんなことを口にしていた。
どうしてあんな言葉が出たのか。でも間違いなく、今日の祭りが楽しかったのは、みづきが隣にいたからだ。
初めて見るものすべてに目を輝かせていたみづき。焼き菓子の甘い香りに足を止め、祭囃子が聞こえれば振り返り、リツが走り出せば心配そうにその背を目で追う。
気がつけば、どの瞬間も彼女の表情ばかりを追っていた。
射的の屋台へ急に引っ張られた時も、何事かと思えば、紗世と静馬をふたりきりにしたかっただけらしい。言いづらそうに視線を泳がせ、からかわれたと知れば、むっと頬を膨らませる。
――私だって、それくらいのことはわかりますっ。
あの時は、つい笑ってしまった。
いつも控えめで、どこか遠慮がちなみづきが、あんなふうに感情をあらわにする。それが、たまらなく嬉しかった。
ふと、羽倉で出会った日の姿が脳裏をよぎる。
――私はやっぱり、化け物なんでしょうか?
今にも崩れそうだった、あの声。
それが今では、リツと一緒に庭を歩き、紗世と笑い合い、タキの手伝いをしたいと言う。弓を持たせれば、できないと言いながらも最後にはしっかりと的を射抜いた。祭りでは自分から袖を掴んで、人混みの中を引っ張っていった。
その小さな変化を見つけるたびに、胸の奥が温かくなる。
これからも、もっと笑っていてほしい。この屋敷で安心して眠り、朝になれば食卓を囲み、今日のような楽しいことがあれば、隣で笑っていてほしい。
いつから、そんなふうに願うようになったのだろう。
「……ん」
小さな声がして、朔哉は思考を止めた。
リツが布団の中で寝返りを打つ。それにつられて、みづきもわずかに身じろぎした。
薄い掛け布団が、みづきの肩から滑り落ちそうになる。朔哉は起こさないよう静かに手を伸ばして、そっと掛け直した。
祭りではしゃいだせいか、白い頬にはまだうっすらと赤みが残っていた。
頬にかかっている紙を一筋、そっと指先で払う。触れた瞬間、みづきの睫毛がかすかに揺れた。けれど目は開かない。規則正しい寝息が続いている。
指先を引こうとして——止まった。
安心しきった、無防備な顔で眠っている。
胸の内に、得体の知れないものが込み上げた。
笑っていてほしい。誰にも傷つけさせたくない。自分のそばで、穏やかに過ごしていてほしい。
「困ったな……」
声にならないほど小さく、呟いた。
みづきは知らない。
姿が見えないと、無意識に探してしまうことを。
軍部にいる時でさえ、ふと屋敷にいる彼女のことを思い出してしまうことを。
今日、人混みの中で手を取った時——離したくないと思った。
驚いて震えた指先が、やがて拒むことなく自分の手の中へ収まった。
あのまま、ずっと歩いていたかった。
一緒にいる時間を、心地よいと感じている。
この気持ちをなんと呼ぶのか。
もう、答えは分かっていた。分かっていながら、認めることを先延ばしにしていた。
頬へ触れないよう気をつけながら、右手でそっと髪を撫でる。
みづきはかすかに唇を緩めた。眠ったまま笑ったように見えて、朔哉もつられるように目を細める。
「……おやすみ」
届くはずのない声で告げ、静かに立ち上がった。
これ以上ここにいれば、本当に眠れなくなる。襖を閉めると、朔哉は音を立てずに廊下へ出た。

