週末の土曜日。
五百森家の屋敷の庭で、みづきは洗い立ての敷布を物干し竿へ掛けて大きく広げていた。
「もう、みづきちゃんってば! そんなことしなくていいのに!」
庭へ顔を出した紗世が、困ったように声を上げる。
「大丈夫です。私も少しでもお屋敷のお役に立ちたいので」
「そう?じゃあお願いしちゃおうかな。私は今のうちに正面玄関の掃き掃除をしてくるね!」
「はーい、いってらっしゃい」
ぱたぱたと軽い足取りで去っていく背中を見送ってから、みづきは再び洗濯物へ向き直った。
からりと乾いた風が頬を撫でる。真っ青な空の下で、白い敷布がふわりと膨らむ――その隙間から、なにか茶色いものが見えた。
「……?」
庭向こうから、一匹の猫がこちらを見ていた。
初めは野良猫かと思った。どこかから敷地に迷い込んできたのかと。でも、どこか違和感がある。
(あれは、山猫……?)
みづきは小さく瞬きをした。
故郷の山で何度か見かけたことがある。体の大きさや脚の長さ、遠目に見た姿がどこか似ている気がした。
でもここは帝都だ。この前紗世と買い物に行った時に、野良猫を見たけどさすがに山猫がこんな都会にいるはずがない。五百森家の敷地も広いとはいえ、山猫がふらりと迷い込むような場所ではないはずだ。
みづきはもう一度猫を観察する。
(綺麗な瞳の色……)
翡翠色のような美しい瞳は、陽の光に当たると宝石のように輝いている。
「こんにちは」
みづきは自然と声を掛けていた。
「あなた、迷子なの?」
動物にはそれぞれ気配がある。警戒している時、怒っている時、逃げ出そうとしている時。そのどれとも違う。にゃあと鳴くこともなく、ただじっとみづきを見ている。不思議な猫だった。
(……大丈夫。悪い子じゃない)
動物とのふれあい方は山で教わった。みづきは体を少し低くして視線を合わせる。そしてゆっくりと、驚かせないように近づいていく。絶対に焦ってはいけない。
やがて手が届くほど近くまで来ると、猫は小さく首を傾げた。
「おとなしいのね」
そっと手を差し出すと鼻先を寄せて匂いを嗅ぐ。そして、自分からみづきの手のひらへ頬を擦り寄せた。喉元を優しく撫でると気持ち良さそうに目を細める。その体をゆっくり抱き上げると、普通の猫よりも大きくてずっしりと重かった。
「ふふ、ほんといい子だね。お腹空いた?」
みづきが翡翠色の瞳を覗き込むと、返事の代わりにぺろりとみづきの手の甲を舐めた。
「じゃあ、ここで待っててくれる?なにかもらってきてあげるから」
ちょうど台所へ行けばタキがいるはずだ。事情を話せば食べられそうなものをわけてもらえるかもしれない。猫は腕の中から飛び降りて軽やかに地面へ着地すると、洗濯カゴの傍らでゆらりと尻尾を揺らした。
「そこで待っていてね」
みづきが数歩離れても追いかけてくる様子はない。
ただ静かに座ったままこちらを見ている姿を確認してから、みづきは台所へ向かって駆け出した。
お勝手口をくぐり、ぱたぱたと板張りの床を駆けて台所へと向かう。
「タキさん」
声を掛けながら中を覗き込んだが、返事はなかった。
いつもなら出汁の良い匂いが漂っているはずの台所は、今は綺麗に片付けられていて静まり返っている。勝手口のほうへ野菜の買い出しにでも行っているのだろうか。
困ったな、とみづきは足を止めた。勝手にお皿や食材に触るわけにもいかない。
どうしようかと悩んでいると、背後から不意に、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「みづき?そんなところでどうしたんだ」
「あ……朔哉さん」
振り返ると、そこには見慣れた軍服姿の朔哉が立っていた。
土曜日の今日は、午前中だけ軍部へ顔を出してくると言っていた。ちょうど今、お屋敷に帰ってきたところのようだった。
「お帰りなさいませ。あの、タキさんを探していたのですがお留守みたいで……」
「タキならもうすぐ戻るはずだが、何か用だったか?」
「その、お庭に猫が迷い込んできて……」
みづきは少し気恥ずかしさを覚えながらも、おずおずと言葉を続けた。
「とても大人しくて、お腹を空かせているみたいなんです。何か食べられるものを少し、分けてもらえないかなと思いまして」
「猫?」
朔哉がわずかに眉を寄せた。言葉で説明するよりも、実際に見てもらったほうが早いかもしれない。みづきは「こちらです」と朔哉を促し、先ほど入ってきた勝手口から再び裏庭へと連れ出した。
まだ、そこにいてくれるだろうか。
不安に思いながら敷布の並ぶ物干し竿を抜けると――猫は、まだそこにいた。
先ほどみづきが下ろした場所、洗濯かごの真横で、同じ姿勢のままじっと座って待っている。
「あ、よかった!まだいてくれました」
みづきは嬉しくなって迷わず駆け寄ると、その大きな身体を抱き上げた。猫はやっぱり暴れない。みづきの腕の中で大人しく身を委ねて翡翠色の瞳を細めている。
「見てください、朔哉さん。すごくお利口でいい子なんです。もしどこかの飼い猫だったら、今頃飼い主さんが探していますよね」
腕の中の温もりを愛おしく感じながら、みづきは朔哉を見上げた。
けれど、朔哉は猫に近づこうとはせず、少し離れた位置から黙って見つめている。
「……たぶん、飼い主はいないよ」
「え?」
どういう意味だろう。みづきは小首を傾げた。野良猫という意味なのだろうか。
それなら、とみづきの胸にひとつの淡い期待が湧き上がる。
「じゃあ……もし、飼い主さんが見つからなかったら、このお屋敷で飼うことってできませんか?」
身寄りのない流民である自分を、何も言わずにこの温かいお屋敷に置いてくれた、優しい朔哉だ。
『そうだね、いいよ』と、いつものように穏やかに微笑んでそう言ってくれるはず。
「それはできない」
返ってきたのは、予想もしないほどはっきりとした拒絶だった。
「……え」
思いがけず突き放されたような言葉に、二の句が継げなくなった。そんなみづきの様子に気づいているはずなのに、朔哉の声音は厳格なまま変わらなかった。
「みづき、それは猫じゃない。あやかしだ」
五百森家の屋敷の庭で、みづきは洗い立ての敷布を物干し竿へ掛けて大きく広げていた。
「もう、みづきちゃんってば! そんなことしなくていいのに!」
庭へ顔を出した紗世が、困ったように声を上げる。
「大丈夫です。私も少しでもお屋敷のお役に立ちたいので」
「そう?じゃあお願いしちゃおうかな。私は今のうちに正面玄関の掃き掃除をしてくるね!」
「はーい、いってらっしゃい」
ぱたぱたと軽い足取りで去っていく背中を見送ってから、みづきは再び洗濯物へ向き直った。
からりと乾いた風が頬を撫でる。真っ青な空の下で、白い敷布がふわりと膨らむ――その隙間から、なにか茶色いものが見えた。
「……?」
庭向こうから、一匹の猫がこちらを見ていた。
初めは野良猫かと思った。どこかから敷地に迷い込んできたのかと。でも、どこか違和感がある。
(あれは、山猫……?)
みづきは小さく瞬きをした。
故郷の山で何度か見かけたことがある。体の大きさや脚の長さ、遠目に見た姿がどこか似ている気がした。
でもここは帝都だ。この前紗世と買い物に行った時に、野良猫を見たけどさすがに山猫がこんな都会にいるはずがない。五百森家の敷地も広いとはいえ、山猫がふらりと迷い込むような場所ではないはずだ。
みづきはもう一度猫を観察する。
(綺麗な瞳の色……)
翡翠色のような美しい瞳は、陽の光に当たると宝石のように輝いている。
「こんにちは」
みづきは自然と声を掛けていた。
「あなた、迷子なの?」
動物にはそれぞれ気配がある。警戒している時、怒っている時、逃げ出そうとしている時。そのどれとも違う。にゃあと鳴くこともなく、ただじっとみづきを見ている。不思議な猫だった。
(……大丈夫。悪い子じゃない)
動物とのふれあい方は山で教わった。みづきは体を少し低くして視線を合わせる。そしてゆっくりと、驚かせないように近づいていく。絶対に焦ってはいけない。
やがて手が届くほど近くまで来ると、猫は小さく首を傾げた。
「おとなしいのね」
そっと手を差し出すと鼻先を寄せて匂いを嗅ぐ。そして、自分からみづきの手のひらへ頬を擦り寄せた。喉元を優しく撫でると気持ち良さそうに目を細める。その体をゆっくり抱き上げると、普通の猫よりも大きくてずっしりと重かった。
「ふふ、ほんといい子だね。お腹空いた?」
みづきが翡翠色の瞳を覗き込むと、返事の代わりにぺろりとみづきの手の甲を舐めた。
「じゃあ、ここで待っててくれる?なにかもらってきてあげるから」
ちょうど台所へ行けばタキがいるはずだ。事情を話せば食べられそうなものをわけてもらえるかもしれない。猫は腕の中から飛び降りて軽やかに地面へ着地すると、洗濯カゴの傍らでゆらりと尻尾を揺らした。
「そこで待っていてね」
みづきが数歩離れても追いかけてくる様子はない。
ただ静かに座ったままこちらを見ている姿を確認してから、みづきは台所へ向かって駆け出した。
お勝手口をくぐり、ぱたぱたと板張りの床を駆けて台所へと向かう。
「タキさん」
声を掛けながら中を覗き込んだが、返事はなかった。
いつもなら出汁の良い匂いが漂っているはずの台所は、今は綺麗に片付けられていて静まり返っている。勝手口のほうへ野菜の買い出しにでも行っているのだろうか。
困ったな、とみづきは足を止めた。勝手にお皿や食材に触るわけにもいかない。
どうしようかと悩んでいると、背後から不意に、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「みづき?そんなところでどうしたんだ」
「あ……朔哉さん」
振り返ると、そこには見慣れた軍服姿の朔哉が立っていた。
土曜日の今日は、午前中だけ軍部へ顔を出してくると言っていた。ちょうど今、お屋敷に帰ってきたところのようだった。
「お帰りなさいませ。あの、タキさんを探していたのですがお留守みたいで……」
「タキならもうすぐ戻るはずだが、何か用だったか?」
「その、お庭に猫が迷い込んできて……」
みづきは少し気恥ずかしさを覚えながらも、おずおずと言葉を続けた。
「とても大人しくて、お腹を空かせているみたいなんです。何か食べられるものを少し、分けてもらえないかなと思いまして」
「猫?」
朔哉がわずかに眉を寄せた。言葉で説明するよりも、実際に見てもらったほうが早いかもしれない。みづきは「こちらです」と朔哉を促し、先ほど入ってきた勝手口から再び裏庭へと連れ出した。
まだ、そこにいてくれるだろうか。
不安に思いながら敷布の並ぶ物干し竿を抜けると――猫は、まだそこにいた。
先ほどみづきが下ろした場所、洗濯かごの真横で、同じ姿勢のままじっと座って待っている。
「あ、よかった!まだいてくれました」
みづきは嬉しくなって迷わず駆け寄ると、その大きな身体を抱き上げた。猫はやっぱり暴れない。みづきの腕の中で大人しく身を委ねて翡翠色の瞳を細めている。
「見てください、朔哉さん。すごくお利口でいい子なんです。もしどこかの飼い猫だったら、今頃飼い主さんが探していますよね」
腕の中の温もりを愛おしく感じながら、みづきは朔哉を見上げた。
けれど、朔哉は猫に近づこうとはせず、少し離れた位置から黙って見つめている。
「……たぶん、飼い主はいないよ」
「え?」
どういう意味だろう。みづきは小首を傾げた。野良猫という意味なのだろうか。
それなら、とみづきの胸にひとつの淡い期待が湧き上がる。
「じゃあ……もし、飼い主さんが見つからなかったら、このお屋敷で飼うことってできませんか?」
身寄りのない流民である自分を、何も言わずにこの温かいお屋敷に置いてくれた、優しい朔哉だ。
『そうだね、いいよ』と、いつものように穏やかに微笑んでそう言ってくれるはず。
「それはできない」
返ってきたのは、予想もしないほどはっきりとした拒絶だった。
「……え」
思いがけず突き放されたような言葉に、二の句が継げなくなった。そんなみづきの様子に気づいているはずなのに、朔哉の声音は厳格なまま変わらなかった。
「みづき、それは猫じゃない。あやかしだ」

