穢れの軍神と縁の花嫁

 低く、腹の底に響くような地鳴り。この気配に、みづきは覚えがあった。
 とっさに背後の山を見上げると、はっきりと見えた。山肌に走った昏い裂け目が静かに口を開け、そこから灰色の影がどっと溢れ出してくるのを。

 「な、なんだあれは!?」

 裂け目から這い出たのは、狼の形をしたあやかしの群れだった。煙のような黒い靄を纏い、目が赤く光っている。それらはすさまじい速度で山を駆け下り、またたく間に町へと襲いかかってくる。

 「あやかしだ! あやかしが出たぞ!!」

 悲鳴と怒号が町を覆い、広場は逃げ惑う人々で溢れかえった。

 (……あ、あ……お父さん、お母さん……)

 周囲を満たしていく血の臭いと、生き物を腐らせる瘴気。みづきは身体を硬直させたまま動けなかった。脳裏に、半年前の故郷の村の光景がまざまざとよみがえる。

 やがて巨大な狼のあやかしの群れが、喉を鳴らしながらすぐ目の前まで迫ってくる。
 けれど――あやかしは、みづきの鼻先でぴたりと動きを止めた。

 「どうして、私を襲わないの……?」

 あやかしが答えることはない。じっと燃えるような紅い眼でみづきを見つめている。
 しばらくして一歩ずつみづきに近づくと、ふんふんと鼻を鳴らした。まるで、犬や狼が懐かしい主の匂いを嗅ぐかのように。

 するとみづきの横を素通りして、後ろで腰を抜かしている堂島へと標的を移したのだ。

 「ひ、ひいいいっ! 来るな、来るなぁ!」

 刀を抜いた用心棒たちの腕や肩、足に、あやかしたちが一斉に噛みつく。傷口から黒い霧のような瘴気が噴き出し、それを吸い込んだ男たちは一瞬で顔をどす黒く変色させると次々と倒れていった。堂島は顔を引きつらせ、みづきの背中を指差して絶叫した。

 「このあやかし憑きが! お前がこのあやかしどもを呼び寄せやがったんだろ!」

 その声に、逃げ惑う人々の視線が一斉にみづきに集まった。

 「なんであの娘は襲われないんだ?」
 「やっぱりあやかしの仲間だったんだな!」

 枯れた喉を震わせて、みづきは必死に首を振った。

 「ち、違う……私はなにも……」

 違う――そう否定したいけれど、たった今目の前で起きたことにみづきは呆然としていた。
 故郷の村が滅んだ日。自分だけが傷ひとつ負わずひとり生き残ったことを、みづきはどこか『偶然のこと』と思おうとしていた。
 最後まで父や母、村の人たちが自分を守ってくれたからだと。

 でも、そうではなかった。
 あやかしは自分を襲わない。それが彼らの本能なのか意志なのかわからない。

 ただひとつ確かなのは――あの村で自分だけが生き残ったのは、偶然や奇跡などではなかったのだということ。


 「お前のせいだ、この化け物が!!」


 混乱と喧騒の中で、その声が殴られたように頭に響いた。

 ああ、そうだ。やっぱり自分はあやかし憑きで、化け物なのだ。
 自分が生きているから災いを呼び寄せる。
 大好きな父も母も、故郷の村も滅びてしまった。そして今、この羽倉の人たちまでもがみんな死んでしまう。自分のせいで――

 あやかしたちは堂島に狙いを定め、今まさに襲いかかろうとしていた。

 「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

 堪えていた涙がとめどなく溢れる。
 みづきは泥で汚れた手で顔を覆うと、目の前の光景に耐えきれずにぎゅっと目を閉じた。