エンゼルケア

「エンゼルケアってさ、天使がするケアなのか、天使になる人のケアなのか、どっちなんだろうな」
祭壇の前で、君はそんなことを言った。祈りの言葉を口にしながら言うものだから、最初の一瞬だけ、聞き間違いかと思った。けれど君は、神のご慈悲を給え、という厳かな文句をまるで退屈な授業の終わりみたいに流し込んだあとで、横目に俺を見て、少しだけ笑った。からかっているのか、純粋に疑問なのか、そのどちらともつかない顔だった。
教会の中は、昼だというのに薄暗かった。山あいの村の冬は光まで痩せているらしい。高い窓から差し込む陽は細く、冷たく、古い長椅子の背もたれに斜めの線を引いているだけで、礼拝堂全体を明るくするにはまるで足りなかった。蝋燭の火も今日は弱々しく見えた。燃えているというより、震えている、という方が近い。石造りの壁は湿気を抱えたまま沈黙していて、古びた木の床には、長い年月をかけて染みこんだ祈りと土の匂いが残っていた。
「神様がいる前で天使なんて、失礼じゃないのか」
言い返しながら、俺は十字を切る村人たちの真似だけをする。もうこの村に来てひと月になるというのに、その仕草はいまだに借り物だった。指先が額から胸へ、左肩から右肩へ動いても、その線の上を何か神聖なものが通った気はしない。ただ、ここでは誰もがそうするから、しないでいる方が面倒だった。信じる信じないはともかく、毎日神に祈れ、というのがこの村の掟なのだ。朝も夕も鐘が鳴る。食事の前にも祈る。眠る前にも祈る。誰かが風邪をひいても祈り、鶏が死んでも祈り、吹雪の夜にはいつもより長く祈る。信仰というより習慣、習慣というより規則だった。
「神様と天使の区分って、同じじゃないのか?」
君は当然みたいにそう言って、祭壇の上の白布の乱れを直した。指が細い。いつ見ても、男の手というより、まだ何にも汚れていない子どもの手みたいだと思う。実際には俺とそう歳も変わらないはずなのに、この村で生まれ育った人間には、外から来た俺にはない静けさがある。あるいは諦めかもしれない。雪深い土地に住む人間がみな、春を信じる代わりに冬を受け入れることを先に覚えるみたいに、君もまたこの村の決まりごとを、反発するでもなく、盲信するでもなく、ただ自分の呼吸の一部として持っていた。
俺が一を言うと、君は勝手に二を言う。昔からそうだった、みたいな顔をして。
別にその会話が嫌いなわけではない。むしろ心地いいとすら思っている。正しい答えを出すためではなく、ただ問いを宙に浮かべておくための話し方が、君にはよく似合った。先生のいないこの村では、何故、を発散する場所がない。学校はあるらしいが、教える人間はいない。本棚に並んだ古い聖書や地誌や、誰が書いたのかも分からない説教集が、知識の代わりみたいに置かれているだけだ。分からないことは祈ればいい、納得できないことは神の思し召しで片づければいい――そんな土地で、君だけが時々、神の輪郭を指でなぞるみたいに変な問いを口にする。
そのたび、俺は少しだけ救われた気がする。
神様と天使の区分って同じじゃないのか、なんて、どうでもいい話のはずだった。けれどこの村では、どうでもいい疑問ほど生き物みたいにしつこく残る。どこにも出口がないからだ。山は高く、雪は深く、道は細い。吹雪の日には村の出入口がまるごと消える。そんな閉ざされた場所で、一度生まれた問いは、答えを与えられないまま、息だけをし続ける。
だから俺は、軽く鼻で笑ってから言った。
「お前は神様に対して甘すぎる」
「そうか? 毎日こんなに祈ってるのに?」
「口だけだろ」
「口だけでも祈りになるなら、神様も案外ちょろいよな」
そう言って君が笑う。その声は教会の高い天井に吸いこまれて、少し遅れて戻ってきた。ひどく静かな場所なのに、君の声だけが妙に馴染んで聞こえるのが不思議だった。まるで最初からここに属していたみたいに。実際そうなのだろう。君はこの村で生まれ、この教会で洗礼を受け、この教会の鐘の音と一緒に育った。祭壇の白布を替える日も、蝋燭を新しくする日も、冬の間に凍りついた手桶の水を割る日も、ずっと知っている。俺がまだこの村の匂いに慣れずにいる横で、君だけは昔からここにいた顔で、古い祈りの続きを呼吸する。
もちろん、俺は神様なんて信じていなかった。
信じていなかったのに、この村に来た途端、毎日神に祈れ、なんて掟を突きつけられた。破れば祟りが起こる、と。
最初にそれを聞いたときは、ずいぶん時代遅れな脅し文句だと思った。祟りだの罰だの、そんなものを真顔で口にする大人が二十一世紀にもいるのかと、呆れすらした。だが、この村の人間はみな本気だった。祈りを忘れた家の鶏小屋で、翌朝まとめて鶏が死んだとか。鐘が鳴る時間に悪態をついた男が、その晩のうちに崖から落ちたとか。神様は優しいが、掟を破る者には冷たいのだと、年寄りたちは少しも疑わない調子で語った。
俺はそういう話を信じない。信じないが、笑う気にもなれなかった。この村には、迷信で片づけるには妙に気味の悪い静けさがある。雪が音を吸うせいだけではない。人の話し声が小さいのも、夜になるとどの家も早く灯りを落とすのも、誰かの名を口にしかけて途中でやめることがあるのも、全部まとめて、何かに耳を澄ませているみたいだった。
そのときだった。
教会の奥で、ピアノが突然、大きな音を立てた。
鈍く、けれど確かに人の手で叩いたような和音が、しんとした礼拝堂を横殴りにした。俺の心臓が一瞬だけ止まった気がした。肺の奥がひやりと冷える。反射的に振り返る。黒いピアノは窓際にある。蓋は閉じていない。譜面台には何も立てかけられていない。椅子もそのまま。誰かが今さっきまで座っていたような気配だけが、そこに薄く残っている気がした。
だが、誰もいなかった。
「……なんだ?」
自分でも情けないほど低い声が出た。君は慣れたように肩をすくめる。
「あー、こういうこと、滅多にあるんだよ。神様ごめん」
「滅多になのか、よくあるのか、どっちだよ」
「体感ではよくある」
「お前の体感は信用ならない」
「ひどいな」
そう言いながら、君は平然とピアノの方へ歩いていく。止めようとしたが、その前に君は鍵盤の上に指を置いて、白鍵をひとつだけ鳴らした。澄んだ単音が礼拝堂を細く走る。さっきの不気味な音とは違って、それは妙に正直な響きだった。けれど、その正直さが逆に気味悪かった。さっきの和音を鳴らした“何か”だけが、今はもうここにいないことを証明するみたいで。
「な?」
何が“な?”なのか分からないまま、俺は眉をひそめた。君は振り返らない。代わりに、祭壇の十字架の方を見ていた。その横顔が、ほんの一瞬だけ知らないものに見えた。村の誰よりも神様に近い場所で、村の誰よりも軽く神様を口にする、その矛盾の輪郭だけが、蝋燭の火に照らされていた。
「お前さ。本当に信じてんのか、神様」
質問のつもりだったのに、声は責めるみたいに硬かった。君は少し考えてから、笑いもしないで答えた。
「信じてるよ。たぶん、お前よりずっと」
その返事が妙に癪に障った。俺が信じていないことを責められたからではない。君が、あまりに自然にそう言ったからだ。この村の空気を吸って、鐘の音で目を覚まし、祈りを唱えて眠る人間だけが持つ、揺るがなさのようなもの。それを、俺はまだ持っていないし、これからも持てない気がしていた。
だから、つい言ってしまう。
「じゃあ、祟りも信じてるのか」
教会の空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
君はゆっくりとこちらを見た。窓から差す痩せた光が、その頬の輪郭を白くしている。雪の日の朝みたいな顔だった。触れれば冷たいのに、目だけが妙に熱を持っているような。
「信じるよ」
君は静かに言った。
「だって、この村では、いなくなるから」
どくん、と、さっきとは別の場所で心臓が鳴った。
いなくなる。死ぬ、ではなく。その言い方に、俺はまだ慣れない。
この村では、人が死んだとはあまり言わない。返された、とか、召し上げられた、とか、そういう濁した言い方をする。遺体の出る死より、何も残らない別れの方が、この村には多いのだと、来てすぐに聞かされた。吹雪の夜に。火の弱い暖炉の前で。まるで昔話の続きを語るみたいな口調で。
だから墓地には、墓の数が少ない。だから村の年寄りは、誰かがいなくなった話をするとき、泣くより先に祈る。
だから君はさっき、エンゼルケアなんて言葉を、あんなふうに軽く口にしたのだろうか。残る身体がある人のための支度。残る顔がある人のための別れ。そういうものが許されない消え方を、この村の人間はよく知っている。「おい」
気づけば、俺は君の手首をつかんでいた。自分でもなぜそんなことをしたのか分からない。ただ、君の口から“いなくなる”なんて言葉が出た瞬間、急に、ひどく嫌な感じがしたのだ。祭壇の前に立つ君の輪郭が、蝋燭の火に揺れて少し薄く見えたせいかもしれない。あるいは、この礼拝堂の静けさが、最初から何かを待っていたみたいだったからかもしれない。
君は驚いた顔もしなかった。ただ、つかまれた手首を見下ろして、それから俺を見る。
「どうした?」
「……別に」
離す理由も、つかんだ理由も言えなかった。言葉にした途端、それが現実になってしまう気がしたからだ。君がいなくなる、なんてこと。そんなもの、まだただの村の言い伝えで、迷信で、気味の悪い作り話でいてくれなければ困る。
君は少しだけ目を細めた。それは笑いかける前の顔によく似ていたのに、結局、笑わなかった。
代わりに礼拝堂の外で、鐘が鳴った。
夕刻の祈りを告げる音だった。低く、重く、雪に包まれた村じゅうへ沈んでいくような音。窓の向こうでは、いつの間にか白いものが降り始めていた。細く、静かで、音もなく。世界が何かを隠すときの降り方だった。
君は俺の手の中からそっと手首を抜いて、いつもの調子で言う。
「ほら。祈らないと、祟られるぞ」
冗談みたいに聞こえる声だった。けれどその日、俺は生まれて初めて、祈りというものを少しだけ怖いと思った。
神様がいるからではない。祈らなかったせいで何かを失うからでもない。祈ってもなお、失くなるものがあるのだと、君の横顔がすでに知っているように見えたからだ。
窓の外では雪が降っていた。はじめは遠慮がちだった白が、気づけば礼拝堂の外側を静かに埋め始めている。降っている、というより、空のどこかでほどけたものが絶え間なく落ちてきているみたいだった。世界が何かを隠すとき、雪はいつもあんなふうに音もなく積もるのかもしれない、と、そのときふと思った。
隠されるのは道だけじゃない。足跡も、血も、帰ろうとした痕跡も、誰かが確かにここにいたという証拠も、雪はみんな平等に覆い隠してしまう。祈りに似ている、と一瞬だけ思った。何もかもを白く塗りつぶして、はじめから穢れてなんていませんでしたとでも言うみたいに。そういうのが、嫌だった。
何もなかったことにされるのが嫌だった。いなくなったものを、仕方がなかったと片づけられるのが嫌だった。
君がもしこの村の言うとおりに、返されたとか、召し上げられたとか、そんな綺麗な言葉で遠くへ追いやられるのだとしたら、俺はきっと、そのどれも許せないと思った。
その感情の名前はまだ分からなかった。ただ、胸の奥に棘のように引っかかって、呼吸のたびにじわじわと痛むものがあった。
「天使が居るとしたら、それはまるで君でさ」
気づけば、そう口にしていた。独り言にしてははっきりしすぎていて、告白にしてはあまりに曖昧な声だった。
君がこちらを見る。俺はもう視線を逸らせなかった。祭壇の前に立つ君は、蝋燭の火のせいか、雪明かりのせいか、輪郭だけが少し薄く見える。白い光に触れすぎた写真みたいに、今にも背景へ溶けてしまいそうだった。
「……天使?」
君が小さく繰り返す。
笑うかと思った。お前は本当に変なことを言うな、といつもみたいに茶化されるかと思った。けれど君は笑わなかった。ただ、こちらの言葉の行き先を見失ったみたいな目をした。それがかえって怖かった。
俺は自分でも何を言っているのか分からないまま、ぽつりぽつりと続ける。
「天使がいるとしたら、それは君で。まるで希望で、まるで救いみたいで」
言葉にしてしまうと、どんどん現実味がなくなる。
こんなの、俺が普段なら絶対に言わない類いの台詞だった。
甘ったるくて、青臭くて、教会の空気に当てられた子どもみたいだ。けれど、今だけはそうとしか言えなかった。
「星みたいに、一瞬で消えないでくれ」
最後の一言は、祈りというより懇願に近かった。君は少しだけ目を伏せる。睫毛の影が頬に落ちる。
その沈黙の短さと長さを、俺はうまく説明できない。数秒もなかったはずなのに、そのあいだだけ時間が礼拝堂のどこかに引っかかったみたいに動かなかった。
神様はぷつりと糸を切る。そんな考えが、何の前触れもなく頭をよぎった。人の命とか、約束とか、繋がりとか、そういう目に見えないものを、神様は指先ひとつで簡単に断ち切ってしまうのかもしれない。祈りがあるのに、信仰があるのに、それでもなお、切れるものは切れるのだとしたら、この村で神を信じることは、救われるためというより、見捨てられることに耐える練習に近いのではないかと思った。
「なあ」俺は君を見る。
「神様って、本当にいると思うか?」
聞き終えてから、自分がひどく幼稚なことを言った気がした。
子どもが夜更けに布団の中で怯えながら、幽霊って本当にいるの、と尋ねるのと似ていた。確かめたいくせに、肯定されるのが怖い質問だった。
「いるよ」
君は、はっきりと答えた。迷いのない声だった。
強く言ったわけでも、信者らしく熱っぽく語ったわけでもない。ただ、芯のある声だった。水の底に沈めた細い針みたいに、静かなのに確かにそこにある響きだった。
その目がどこを見ているのか、そのときの俺は考えなかった。
いや、考えたくなかったのかもしれない。俺ではないどこかを見ている気がしたからだ。祭壇の向こうか、十字架の先か、それとも、俺には見えないもっと遠い場所か。
君が本当に神を見ているのだとしたら、俺は最初から勝ち目のないものに嫉妬していることになる。
だから俺は、耐えきれなくなって、話を逸らした。
「天使って、なんで赤子の印象があるんだろうな」
さっきの話題へ無理やり戻すと、君は一度だけ瞬きをしてから、少し考える顔をした。何かを思い出すというより、どこか遠くから拾い上げてくるような間だった。
「生まれたのに、いい死に方ができなかったから、とか?」
その声は軽いのに、言っていることだけが冷たい。
礼拝堂の空気が、また少し薄くなった気がした。
「流産とか。ほら、子どもの時は病気がちじゃん」
「流産は、生まれたに入るのか?」
訊ねた自分の声が、思っていたより硬かった。君はそれに気づいたふうでもなく、当たり前みたいに言う。
「入るよ。確実に居た」
確実に居た。その言い方が、妙に胸に残った。
いた、ではない。生きていた、でもない。居た。そこに、確実に。
目に見える時間が短くても、名前を与えられなくても、祝福されなくても、確かにそこに存在していたのだと、君は言っている。その断言には変な重みがあった。村の外の常識とか、年齢相応の知識とか、そういうものとは別の場所から持ってきたみたいな重みだった。
「だから悲しまないでほしいんだよ」
君は静かに続ける。
「自分を恨まないでほしいって、俺は思うね」
俺は言葉を返せなかった。
どうしてそんなことを言うのか、と問い詰めることもできたはずなのに、できなかった。
君の声音があまりに優しすぎたからだ。それは誰かに向けた慰めというより、もうずっと前から、自分の中で反芻し続けてきた祈りみたいだった。
礼拝堂の隅で蝋燭がひとつ、小さく音を立てた。雪はさらに強くなっている。窓硝子の向こうで、白が村の境界を曖昧にしていく。山も道も墓地も、人の家も、何もかも同じ温度に沈んでいくみたいだった。
俺は、なぜかひどく嫌な予感がした。君は時々、年齢に似合わないことを言う。
この村の古い人間みたいなことを、あるいは、もっと古い何かみたいなことを。
まるで自分が生まれる前の悲しみまで知っているみたいに、さらりと口にすることがある。
「前にさ」
俺は喉の奥の渇きをごまかすみたいに言った。
「コインロッカーに赤ちゃんが取り残されたことがあったんだ。それから、トイレに流されたこともあったらしい」
ここにはコインロッカーなんてない。コンビニも、自動販売機も、駅さえないこの村で、そんな話をするのは場違いだった。俺自身の記憶の中にある、村の外の、嫌になるほど俗で、救いのないニュースの切れ端だった。
礼拝堂の中へ持ち込むにはあまりに生臭くて、あまりに現実的な話だった。
それでも口にしたのは、君を試したかったからかもしれない。
君がこの村の中だけで生きている人間なのか、それとも俺と同じように外の汚さを知っているのか、確かめたかったのかもしれない。君は少しも驚かなかった。
「その赤ちゃんも生きてたよ」
当たり前のように、君は言う。蝋燭の火が揺れた。
その瞬間だけ、礼拝堂の奥の影が深くなる。
「でもそれは、親が避妊に失敗したからでしょ?」
ぞっとした。言葉の内容そのものより、その言い方に。
責めてもいない。憐れんでもいない。ただ事実を並べるみたいに、あまりにも平坦に言うからだった。
その平坦さが、人間の感情の起伏を一度どこかで失くしてきたみたいで、俺は一瞬、目の前にいるのが本当に君なのか分からなくなった。
君の横顔は相変わらず静かで、雪明かりに白く縁取られている。
綺麗だった。綺麗すぎて、恐ろしかった。
この村の人間は、何か大切なものを最初からひとつ諦めている。
俺はずっと、そう思っていた。けれど君だけは違うと思っていた。違っていてほしかった。問いを口にして、神様をからかって、笑ってくれる君だけは、祈りの中に埋もれずに残っていてくれるのだと思っていた。
なのに今、君はこの礼拝堂の誰よりも遠い顔をしている。
俺の知らないところへ、もう半分くらい足を踏み入れているような顔で。
その横顔を見ていると、急に、君が最初からこの村の人間ではないみたいに思えた。
いや、逆だ。あまりにもこの村に馴染みすぎていて、俺の知っている“人間”の輪郭から少しずつ外れているように見えたのだ。
祈りも、死も、失われることも、君にとっては俺よりずっと近い。
それが急に、言い逃れのできない事実として胸の前に差し出された気がした。
君はしばらく黙っていた。蝋燭の火が揺れる。窓の外では雪が降り続いている。礼拝堂の中だけ時間の進み方が違うみたいだった。どの音も遠く、どの影も薄く、俺たちだけが何かの途中で取り残されている。
やがて、君はぽつりと口を開いた。
「昔、君に出会うまでの時間、納骨堂にいることが多かったんだ」
その言葉は静かだったが、礼拝堂の空気を少しだけ変えた。
納骨堂。教会の裏手、石畳の先にある小さな建物のことだ。村へ来てすぐ、一度だけ前を通ったことがある。窓の少ない灰色の建物で、昼でも薄暗く、雪の日には他のどの建物より先に風景へ溶け込んでしまいそうな場所だった。俺はなんとなく近づきたくなくて、それ以来、意識して視界から外していた。
君は祭壇の方を見たまま続ける。
「ひんやりしてる場所で、それでも少しだけ怖かったよ」
少しだけ。その言い方が、かえって胸に引っかかった。
怖かった、と言うなら分かる。まったく怖くなかった、と言われても、君らしいのかもしれないと思う。けれど、少しだけ、という曖昧さがいちばん気味悪かった。恐怖に慣れてしまった人間だけが使う量り方に聞こえたからだ。
「色んな人の骨があるんだ。老若男女さ、赤ちゃんの骨もあってさ」
君の声には、感傷がなかった。だが冷たさとも少し違った。
事実を事実として話しながら、その奥でずっと誰かのために祈っているような響きだけが残っていた。
「この子は、なんでこの世からいなくなったんだろう、って考えたよ」
その問いに、俺はすぐには何も返せなかった。
骨。その言葉が頭の中で乾いた音を立てる。
俺にとって骨は、理科室の模型か、ニュースで見た事件現場の単語か、その程度のものだった。死のあとに残る硬いもの。名前や顔や声を失ったあとでも、最後まで身体の形を主張するもの。けれど君の口から出ると、それは妙に生々しく聞こえた。白くて、軽くて、ひどく静かなもの。触れれば砕けそうなのに、その人が確かに居たという証拠だけは頑なに残してしまうもの。
君は赤ちゃんの骨と言った。あまりに小さい骨だ。
手のひらに乗ってしまうくらい小さくて、それなのに、その小ささひとつで、誰かの人生全部より重くなることもある。
何も言えない俺の代わりに、雪が窓を叩くでもなく降り続けていた。
この村の雪は、どうしてこうも音がないのだろう。普通、雪というのはもっとやわらかく景色を変えていくものだと思っていた。だがここでは違う。降るたびに世界の輪郭が削られていく。道も、墓地も、人の家も、記憶も、いずれみな同じ白さにされてしまう。骨だけが残る死と、何も残らない消失と、そのどちらがましなのか、俺には分からなかった。
「もし、来世があるなら」
君が言う。
「幸せに生きてほしいって願うよ」その声はあまりにも穏やかで、俺は一瞬だけ腹が立った。
そんなふうに静かに言えるのが、腹立たしかった。
来世なんてものに預けなければいけないほど、この世は不出来なのか。幸せに生きてほしい、なんて、今ここで生きられなかったことを認めた上でしか出てこない祈りじゃないのか。そんなものを、どうしてお前は、もう受け入れたみたいな顔で言うのだろう。
「来世……」
俺はその言葉を反芻するみたいに呟いた。舌の上で転がしてみても、まるで実感がなかった。
前世も来世も、俺にとっては都合のいい慰め話でしかない。救われなかった人間のために後から用意された、遅すぎる約束みたいなものだ。今がどうしようもなく冷たくて、苦しくて、報われないから、次はきっと、と言い聞かせるしかないだけじゃないのか。
そんなものを信じてしまったら、この世で失ったものを取り返そうとする気持ちまで、どこかへ持っていかれる気がした。
「お前、ほんとに信じてるのか」
気づけば、少し掠れた声でそう言っていた。
「来世とか、そういうの」
君はすぐには答えなかった。代わりに、礼拝堂の奥に置かれた十字架を見上げた。細い首筋が、蝋燭の火にわずかに照らされる。白い。あまりに白くて、そのまま指で押したら跡が残りそうだった。
「信じたい、の方が近いかも」
やがて君は言った。
「だって、そうじゃないと、あまりにも報われないだろ」
報われない。その一語が、礼拝堂の石壁に触れて冷たく跳ね返ってきた気がした。
君は笑っていなかった。いつものように神様を軽く茶化す顔でもなかった。
ただ、どうしようもなく正直な目をしていた。
その目を見た瞬間、俺はようやく分かった気がした。
君は死を綺麗なものだと思っているわけじゃない。消えることを特別な救いだと信じているわけでもない。むしろ逆だ。報われないことを知っているから、せめて次を願うしかないのだ。この世の終わり方があまりに不平等で、あまりに理不尽で、あまりに取り返しがつかないから、来世なんてものにすがるしかないのだ。
その優しさが、痛かった。優しいくせに、どこか諦めている。諦めているくせに、見捨てきれない。
そういう矛盾を抱えたまま祈っている君は、やっぱり少しだけ人間離れして見えた。
天使なんかじゃない。そんな綺麗なものじゃないはずなのに。
それでももし、この世のどこかに、傷ついたものや生まれきれなかったものや、幸せに辿り着けなかったもののために祈る存在がいるのだとしたら、それはたしかに君によく似ていた。
似ていて、そして、ひどく嫌な想像が胸をよぎる。
そういうふうに誰かの不幸を自分の中へ引き受ける人間は、たいてい、長くここにいない。
何か大きなものに連れていかれるみたいに、ふっといなくなる。
あるいは、自分から静かな場所へ消えていく。
俺はまだ何も失っていないはずなのに、もう失う前の痛みだけを先に知ってしまったような気がして、堪らなくなった。
「そんな顔するなよ」
君が少し困ったみたいに言う。どういう顔だよ、と返そうとして、やめた。
たぶん俺は今、ひどく情けない顔をしている。怒っているのか、怯えているのか、自分でも分からない顔を。
「俺、変なこと言った?」
「言った」
即答すると、君は少しだけ肩をすくめた。その仕草に、ようやく少しだけいつもの君が戻ってきて、俺は救われたような、余計に苦しくなったような、どちらともつかない気分になる。
「けど、お前が変なのは今に始まったことじゃない」
「ひどいな、それ」
「事実だろ」
そう言うと、君はようやく笑った。ほんの少しだけ。
雪がやむ前の薄日みたいに、弱くて、すぐ消えてしまいそうな笑みだった。