6階でエレベーターが停止し、最悪の記憶がある空間に足を踏み入れる。
搬送されてすぐではあるが、特別な治療をしているとも聞いていない。普通に4人部屋の可能性が高い。病室が分からないため、目の前にあるナースステーションに向かって声を掛けた。
「すいません、今日搬送されてきた佐宗の病室は何号室でしょうか?家族なんですが」
ステーションの中で書き物をしていた女性の看護師が気付き、こちらに歩いてきた。
「佐宗さんのご家族の方ですか?病室は618号室になります。そこの面会申込み書に必要事項を記入して、面会証を首に掛けて下さい。ああ、あと、先生から説明がありますので、どなたかが病室に残るようにお願いします」
疲れているのかも知れないが、高圧的な口調で淡々と説明する看護師。その態度に眉を顰める。病気や怪我の治療を目的に入院している患者を見舞うために、家族は訪れているのだ。看護師にとって大勢のうちの1人かも知れないが、家族にとっては唯一無二の存在だ。
態度を注意しようと口を開きかけると、それを察したのか姉に腕を引っ張られる。
「我慢しなさいよ。お母さんが入院しているのよ?看護師と揉めても良いことなんか何も無いから」
その口調から、姉も少なからず憤っているらしかった。
ナースステーションの外側に設置されていた台で面会申込み書を記入し、「面会証」と記入された札に取り付けられた紐を首に掛けた。これで、ようやく病室に向かうことができる。
病床数の多い病院の病棟は迷路だ。ナースステーションを中心にして東西南北に病室があり、慣れなければ自分がどこにいるのかも分からなくなる。しかし、散々通ったこの病棟であれば、迷うことはない。
・・・616、617、次が618号室だ。
個室ではなく、4人部屋。それだけでも、少し安堵する。これが個室であれば、何かしらの治療が行われている可能性が高い。大部屋であれば、まず点滴程度だろう。
病室の前に立ち、廊下側に表示された入院患者の名前を確認する。名札は病室内の位置を意味しているため、母のベッドは入口からすぐの右側のようだ。
「失礼します」
小さな声で病室内に声を掛け、締め切られている仕切りのカーテンを捲り、ベッドを凝視する。そこには、薬による影響か、もしくは体調が悪いからなのか、熟睡する母の姿があった。
姉と競うようにベッドサイドに移動し、微動だにしない寝顔を覗き込む。
成分が分からない点滴の管が腕に繋がっているが、テレビドラマでよく目にするような機器は見当たらない。当然、医師や看護師の姿も無い。
ひとまず、危急を要する状態ではないと理解し、ホッと安堵の息を吐いた。
「大丈夫、ってことで良いんだよね?」
確認の意味も兼ねて、ベッドの横に置いてあった椅子に腰を下ろした姉に声を掛ける。
「たぶん、そうじゃないかな。とりあえず、主治医の先生から呼び出しがあるまで待つしかないけど」
姉の言葉に頷くことしかできない。
父親のときは母がいたため、悪態をつく以外にすることはなかった。すべてを母が管理していたため、心配だけしていれば考える必要もなかった。しかし、母が倒れたとなれば話は別だ。頼る者は誰もいない。世の中のルールを知っている人は誰もいないのだ。
今後の対応は、主治医から話しを聞いて姉と2人で決めなければならない。救急車で搬送されたのであれば、実家の様子を確認するために帰宅しなければならない。その後、家の状態を見渡して管理もしなければならない。家だけではない。田畑の状況も見なければならないだろう。時期的に考えると、そろそろ稲刈りをする必要がある。1反ほどしか作っていないはずだが、ずっと任せ切りでコンバインの動かし方すら知らない。刈った後、何をどうするのかなんて何も分かっていない。
母の寝顔を眺めながらも、どんどん目の前が真っ暗になってくる。
何とかなる、と思っていた。
何もかもが、どうにもならない。
入院費はどうすればいいのか?
そもそも、入院の手続きはどうすればいのか?
全額負担しなければならないのだろうか?
いや、確か何割か支払えば良かった気がする。
公共料金の支払いはどうなっているのだろうか?
入院しなければならないのであれば、着替えが必要になるのではないだろうか?
ここの面会時は何時から何時までだ?
スマホはどこにある?
病室でスマホを使っても良いのか?
現時点で必要なことが分からない。
何をしなければならないのか分からない。
優先順位が分からない。
何もかも分からない。
何も知らない。
知ろうとしなかったから、当然だろう。
親元を離れ、成人式を通り過ぎ、何となく学校に通い、バイトをしながら遊ぶ金を稼ぐ。繁華街に繰り出して朝まで遊ぶこともある。だから、大人になった気になっていた。でも、いざという時に、何をしなければいいのか全く知らない、分からない。本当の意味での責任を背負わされたとき、重過ぎて立ち上がることができない。
やっと、守られていたことに気が付いた。
「佐宗さんのご家族の方、こちらにお願いします」
看護師が病室を訪れて声を掛けてきた。おそらく、主治医から説明があるのだろう。
搬送されてすぐではあるが、特別な治療をしているとも聞いていない。普通に4人部屋の可能性が高い。病室が分からないため、目の前にあるナースステーションに向かって声を掛けた。
「すいません、今日搬送されてきた佐宗の病室は何号室でしょうか?家族なんですが」
ステーションの中で書き物をしていた女性の看護師が気付き、こちらに歩いてきた。
「佐宗さんのご家族の方ですか?病室は618号室になります。そこの面会申込み書に必要事項を記入して、面会証を首に掛けて下さい。ああ、あと、先生から説明がありますので、どなたかが病室に残るようにお願いします」
疲れているのかも知れないが、高圧的な口調で淡々と説明する看護師。その態度に眉を顰める。病気や怪我の治療を目的に入院している患者を見舞うために、家族は訪れているのだ。看護師にとって大勢のうちの1人かも知れないが、家族にとっては唯一無二の存在だ。
態度を注意しようと口を開きかけると、それを察したのか姉に腕を引っ張られる。
「我慢しなさいよ。お母さんが入院しているのよ?看護師と揉めても良いことなんか何も無いから」
その口調から、姉も少なからず憤っているらしかった。
ナースステーションの外側に設置されていた台で面会申込み書を記入し、「面会証」と記入された札に取り付けられた紐を首に掛けた。これで、ようやく病室に向かうことができる。
病床数の多い病院の病棟は迷路だ。ナースステーションを中心にして東西南北に病室があり、慣れなければ自分がどこにいるのかも分からなくなる。しかし、散々通ったこの病棟であれば、迷うことはない。
・・・616、617、次が618号室だ。
個室ではなく、4人部屋。それだけでも、少し安堵する。これが個室であれば、何かしらの治療が行われている可能性が高い。大部屋であれば、まず点滴程度だろう。
病室の前に立ち、廊下側に表示された入院患者の名前を確認する。名札は病室内の位置を意味しているため、母のベッドは入口からすぐの右側のようだ。
「失礼します」
小さな声で病室内に声を掛け、締め切られている仕切りのカーテンを捲り、ベッドを凝視する。そこには、薬による影響か、もしくは体調が悪いからなのか、熟睡する母の姿があった。
姉と競うようにベッドサイドに移動し、微動だにしない寝顔を覗き込む。
成分が分からない点滴の管が腕に繋がっているが、テレビドラマでよく目にするような機器は見当たらない。当然、医師や看護師の姿も無い。
ひとまず、危急を要する状態ではないと理解し、ホッと安堵の息を吐いた。
「大丈夫、ってことで良いんだよね?」
確認の意味も兼ねて、ベッドの横に置いてあった椅子に腰を下ろした姉に声を掛ける。
「たぶん、そうじゃないかな。とりあえず、主治医の先生から呼び出しがあるまで待つしかないけど」
姉の言葉に頷くことしかできない。
父親のときは母がいたため、悪態をつく以外にすることはなかった。すべてを母が管理していたため、心配だけしていれば考える必要もなかった。しかし、母が倒れたとなれば話は別だ。頼る者は誰もいない。世の中のルールを知っている人は誰もいないのだ。
今後の対応は、主治医から話しを聞いて姉と2人で決めなければならない。救急車で搬送されたのであれば、実家の様子を確認するために帰宅しなければならない。その後、家の状態を見渡して管理もしなければならない。家だけではない。田畑の状況も見なければならないだろう。時期的に考えると、そろそろ稲刈りをする必要がある。1反ほどしか作っていないはずだが、ずっと任せ切りでコンバインの動かし方すら知らない。刈った後、何をどうするのかなんて何も分かっていない。
母の寝顔を眺めながらも、どんどん目の前が真っ暗になってくる。
何とかなる、と思っていた。
何もかもが、どうにもならない。
入院費はどうすればいいのか?
そもそも、入院の手続きはどうすればいのか?
全額負担しなければならないのだろうか?
いや、確か何割か支払えば良かった気がする。
公共料金の支払いはどうなっているのだろうか?
入院しなければならないのであれば、着替えが必要になるのではないだろうか?
ここの面会時は何時から何時までだ?
スマホはどこにある?
病室でスマホを使っても良いのか?
現時点で必要なことが分からない。
何をしなければならないのか分からない。
優先順位が分からない。
何もかも分からない。
何も知らない。
知ろうとしなかったから、当然だろう。
親元を離れ、成人式を通り過ぎ、何となく学校に通い、バイトをしながら遊ぶ金を稼ぐ。繁華街に繰り出して朝まで遊ぶこともある。だから、大人になった気になっていた。でも、いざという時に、何をしなければいいのか全く知らない、分からない。本当の意味での責任を背負わされたとき、重過ぎて立ち上がることができない。
やっと、守られていたことに気が付いた。
「佐宗さんのご家族の方、こちらにお願いします」
看護師が病室を訪れて声を掛けてきた。おそらく、主治医から説明があるのだろう。



