寝ている時間が長くなった。
明るいうちは起きていて、母が毎日持参する新聞や好きな囲碁の本を読んでいたが、最近は新聞の1面を眺めたまま手が進まない。横に座っている母と話しをしている途中で眠ってしまうことも増えた。肝臓の数値は当然のように悪化し、一時は小さい点滴が1日3本になっていたが、今では9本に増えている。しかし、効果があるようには思えなかった。
延命治療はしない―――――などと本人は勝手なことを口にするが、家族は最期の最期まで諦めない。そんな簡単な言葉で済ますことができるほど、家族の感情は簡単ではない。
でも、確かに思う。
苦しむのであれば、早く逝かせてあげたい。回復する可能性がゼロなのであれば、長く患って欲しくない。ただ、遺される者たちからすれば、生きてさえいてくれれば良いとも思う。
目を開けている時間の方が少なくなり、言葉を発することもほとんどなくなった。逞しかった腕が骨と皮だけになり、悪戯をする度に怒鳴っていた声はか細くなった。
だから、直視することができなくなった。
近くに寄ることができなくなった。
声を掛けることができなくなった。
もう、呼吸が一定のリズムを取っていた。
祖母が無くなる3日前のような浅い呼吸だ。
話したいことはたくさんあった。
大人になったら一緒に酒を飲もう、と言って限定の希少な日本酒を棚に飾った。
あの酒を飲みながら、いったい何を伝えたかったのだろうか。
もう、今となっては叶わない。
長時間の会話ができるとは思えなかった。常に口は渇き、一度に吐き出す息の量が少なくなっていた。
いつもは目が虚ろで、意識が朦朧として会話も成り立たなくなっていたが、その時だけは珍しく焦点が合っていた。
何か言いたいことがあったのかも知れない。
もっと伝えなければならないことがあったに違いない。
母が少し席を外した僅かな時間、父の枕元に歩み寄った。
手を握る勇気は無かった。
恐かったんだ。
握り返されることもない。
自分よりも大きかった手が、自分の手にすっぽりと収まることが。
何を言えば良いのか分からなかった。
分かるはずがない。
家族の中心を失おうとしているときに、言葉など出てこない。
後は任せろ、と宣言するには精神的に幼すぎた。
大丈夫だから、と嘘が吐けるほど無責任でもなかった。
廊下から母の足音が聞こえてきた。
何も言葉が浮かばず、最期になるとも知らず、問い掛けた。
「草刈機の燃料は何?」
「・・・混・・・合」
そう答えた父親は、少し笑ったように見えた。
その日の夜から、父は昏睡状態に陥った。
そして3日後―――――
授業中に担任から呼び出され、病院に急いだが間に合わなかった。
後悔しかない。
「親孝行したいときには親はなし、さればとて石にふとんも着せられず」
本当に、後悔しかない。
その思いを、あれほど悔やんだにも関わらず、今もまた繰り返そうとしている。くだらない自分の意地のために、また同じ過ちを犯そうとしている。
それを分かっているからこそ、1歩が踏み出せない。
もし、また間に合わなかったら。
そう思うと、足が竦んで動かない。
病院の敷地に入る直前の歩道で立ち竦んでいると、向かいから走行してきた軽自動車が左折したところで停車した。
「あんた、そんな所で何してんの?早く行くよ!!」
引き返して遠回りしたはずの姉だった。
「途中で適当に着替えも買ったから、その辺に隠れて着替えて。その格好だと中には入れてもらえないわよ」
そう注意されて自分の姿を見ると、上からしたまで泥水で茶色に染まっていた。
吹き返しの強風が、無理矢理前に進ませようと背中を押してくる。その風に身を任せると、自然に1歩、2歩と足が出る。そのまま、姉の軽自動車の場所まで移動した。
「ほら、長袖のTシャツと、どこのかよく分からないジャージ。パンツとタオル、あとスリッパもあるから。あとで代金は請求するからね」
「え、ああ、うん。ありがとう」
どこで買ったのか、無地の白いビニール袋に入った着替え一式は、本格的に適当な服だった。とはいえ、ありがたい。・・・合計3300円?
姉から着替え一式を受け取り、周囲を見渡して物陰に隠れる。この天候であるため周囲には誰の姿は見えないものの、ここで全裸になる訳にもいかない。建物の物陰に隠れ、乾いて異臭を放ち始めた服を着替える。着ていた服は代わりにビニール袋に入れ、しっかりと閉じた。
適当な長袖Tシャツに安物のジャージ、足元は派だしにスリッパ。知らない人が見ると入院患者に間違われそうだ。
着替えを済ませて表の玄関に向かうを、姉が仁王立ちで待っていた。
「似合うじゃない」
どう受け止めても、褒め言葉には思えなかった。
「集中治療室とかではなくて、普通に病棟だから」
短く説明すると、姉が病棟のエレベーターがある場所に向かって歩き始める。姉も、この病院の構造や配置には詳しい。
入院病棟はと向かうエレベーターの前に立つと、ちょうど1階に停まっていた。母が入院している病室を知っているのだろう。迷うことなくエレベーターに乗り込み、指定の階を押すと、同時にドアが閉じた。
一瞬止まった姉の指が押したボタンは「6」だった。
明るいうちは起きていて、母が毎日持参する新聞や好きな囲碁の本を読んでいたが、最近は新聞の1面を眺めたまま手が進まない。横に座っている母と話しをしている途中で眠ってしまうことも増えた。肝臓の数値は当然のように悪化し、一時は小さい点滴が1日3本になっていたが、今では9本に増えている。しかし、効果があるようには思えなかった。
延命治療はしない―――――などと本人は勝手なことを口にするが、家族は最期の最期まで諦めない。そんな簡単な言葉で済ますことができるほど、家族の感情は簡単ではない。
でも、確かに思う。
苦しむのであれば、早く逝かせてあげたい。回復する可能性がゼロなのであれば、長く患って欲しくない。ただ、遺される者たちからすれば、生きてさえいてくれれば良いとも思う。
目を開けている時間の方が少なくなり、言葉を発することもほとんどなくなった。逞しかった腕が骨と皮だけになり、悪戯をする度に怒鳴っていた声はか細くなった。
だから、直視することができなくなった。
近くに寄ることができなくなった。
声を掛けることができなくなった。
もう、呼吸が一定のリズムを取っていた。
祖母が無くなる3日前のような浅い呼吸だ。
話したいことはたくさんあった。
大人になったら一緒に酒を飲もう、と言って限定の希少な日本酒を棚に飾った。
あの酒を飲みながら、いったい何を伝えたかったのだろうか。
もう、今となっては叶わない。
長時間の会話ができるとは思えなかった。常に口は渇き、一度に吐き出す息の量が少なくなっていた。
いつもは目が虚ろで、意識が朦朧として会話も成り立たなくなっていたが、その時だけは珍しく焦点が合っていた。
何か言いたいことがあったのかも知れない。
もっと伝えなければならないことがあったに違いない。
母が少し席を外した僅かな時間、父の枕元に歩み寄った。
手を握る勇気は無かった。
恐かったんだ。
握り返されることもない。
自分よりも大きかった手が、自分の手にすっぽりと収まることが。
何を言えば良いのか分からなかった。
分かるはずがない。
家族の中心を失おうとしているときに、言葉など出てこない。
後は任せろ、と宣言するには精神的に幼すぎた。
大丈夫だから、と嘘が吐けるほど無責任でもなかった。
廊下から母の足音が聞こえてきた。
何も言葉が浮かばず、最期になるとも知らず、問い掛けた。
「草刈機の燃料は何?」
「・・・混・・・合」
そう答えた父親は、少し笑ったように見えた。
その日の夜から、父は昏睡状態に陥った。
そして3日後―――――
授業中に担任から呼び出され、病院に急いだが間に合わなかった。
後悔しかない。
「親孝行したいときには親はなし、さればとて石にふとんも着せられず」
本当に、後悔しかない。
その思いを、あれほど悔やんだにも関わらず、今もまた繰り返そうとしている。くだらない自分の意地のために、また同じ過ちを犯そうとしている。
それを分かっているからこそ、1歩が踏み出せない。
もし、また間に合わなかったら。
そう思うと、足が竦んで動かない。
病院の敷地に入る直前の歩道で立ち竦んでいると、向かいから走行してきた軽自動車が左折したところで停車した。
「あんた、そんな所で何してんの?早く行くよ!!」
引き返して遠回りしたはずの姉だった。
「途中で適当に着替えも買ったから、その辺に隠れて着替えて。その格好だと中には入れてもらえないわよ」
そう注意されて自分の姿を見ると、上からしたまで泥水で茶色に染まっていた。
吹き返しの強風が、無理矢理前に進ませようと背中を押してくる。その風に身を任せると、自然に1歩、2歩と足が出る。そのまま、姉の軽自動車の場所まで移動した。
「ほら、長袖のTシャツと、どこのかよく分からないジャージ。パンツとタオル、あとスリッパもあるから。あとで代金は請求するからね」
「え、ああ、うん。ありがとう」
どこで買ったのか、無地の白いビニール袋に入った着替え一式は、本格的に適当な服だった。とはいえ、ありがたい。・・・合計3300円?
姉から着替え一式を受け取り、周囲を見渡して物陰に隠れる。この天候であるため周囲には誰の姿は見えないものの、ここで全裸になる訳にもいかない。建物の物陰に隠れ、乾いて異臭を放ち始めた服を着替える。着ていた服は代わりにビニール袋に入れ、しっかりと閉じた。
適当な長袖Tシャツに安物のジャージ、足元は派だしにスリッパ。知らない人が見ると入院患者に間違われそうだ。
着替えを済ませて表の玄関に向かうを、姉が仁王立ちで待っていた。
「似合うじゃない」
どう受け止めても、褒め言葉には思えなかった。
「集中治療室とかではなくて、普通に病棟だから」
短く説明すると、姉が病棟のエレベーターがある場所に向かって歩き始める。姉も、この病院の構造や配置には詳しい。
入院病棟はと向かうエレベーターの前に立つと、ちょうど1階に停まっていた。母が入院している病室を知っているのだろう。迷うことなくエレベーターに乗り込み、指定の階を押すと、同時にドアが閉じた。
一瞬止まった姉の指が押したボタンは「6」だった。



