晴るはじめの明日を





 元々飲みサーになど入るつもりがなかったにもかかわらず、年が明けてもまだ青音(はると)がバドミントンとは名ばかりのサークルに在籍していたのには理由がある。
 白状するなら、ひとつは酔い潰れた日に高確率で起きる出来事のせいだった。記憶が8割方飛ぼうが感覚は残る。素面の時では、青音と祐太郎(ゆうたろう)は、今やキスどころか肩を組むような接触さえ躊躇いがちな一方で、ひとたび酔えば高校時代とは比べ物にならないほど情熱的な時間が生まれた。

「ようハル君、相変わらず顔がいいね。今日こそ一発どう?」
「サイテー。もっとロマンチックな言い方ないんすか」
「あ、体ももちろんめっちゃタイプ。優しくする」

 第2には同じサークルに属する4年の先輩がいた。英米文学専攻の高見沢(たかみさわ)という男で、銀髪がトレードマークの彼はバイセクシュアルを公言して憚らない人物だった。
 おまけに何年分かは定かでないが留年経験をも持つ猛者ときている。軽薄な見た目と経歴に嘘はなく、男女見境なしの派手な遊びっぷりはサークル内でも目立つほど。特に青音は入学当初から気に入られたらしく度々ド直球で誘われた。
 この高見沢による一方的なレクチャーから、青音は男が男と性交する方法の詳細を学んだ。

「ハル君なに、今度はベンヤミン読んでんの」

 高見沢はちり紙より軽い貞操意識の持ち主だが、ただ軽薄なだけではなかった。

「読みにくいなら、解説付きから入ってみたらいいと思うにょ。色々前提知識あった方が分かりやすいとこ多いし。うちの図書館には無いけど国会図書館行けば借りれる…、ん?どうせお金ないでしょ」

 博識な者が必ずしも小難しい顔をしているとは限らない。

 遊んでいる姿以外誰も見たことがないような男にも拘わらず、高見沢は驚くほど深く幅広い知見の持ち主だった。
 多少有名な文学を齧るようになったばかりの青音では、ごく軽いテーマでさえ、真面目に議論しだしたらとても太刀打ちできない。
 その上彼はいつも厭味なく、それでいて惜しみなく与えた。誕生日に初めてオーセンティックバーへ連れて行ってもらい本場のウイスキーを口にして以来、青音はサークルのコンパでデタラメに安酒を呷る癖を改めるようになった。
 高見沢は酒の飲み方がやたらに綺麗で、種類にも詳しかった。

 これまでに出会った人間の中で、彼ほど価値観の柔らかい存在を青音は他に知らない。見方によってはクズ男へ、青音は何だかんだと懐いた。
 この先輩の影響により、本物を知らなければだめだと、無知で素朴な若者故の思い込みに焦がれるようになる。

 似たことは他にもあった。
 生命工学を学ぶため出入りし始めた研究室では、それぞれの専門分野で苦行を楽しむ変態と遭遇した。映画研究会の連中と話した時など、青音は最初の5分で脱落した。同程度の造詣を持つ者同士で話す時の盛り上がり具合を見たこともあるが故に、彼らがこちらの無知を一切笑わず話を続けようとしてくれるのがむしろ辛かった。
 毎日聞く音楽でさえ、同じ学部でオリジナルのバンドを組んでいる万年金欠な友人の情熱にも敵わない。クラシックコンサートで、ジャズ喫茶で、ライブハウスで、青音は打ちのめされた。
 青音が低い時給のバイトに奔走する一方、学生のうちに起業する奴も腐るほどいる。

 大概彼らより青音は整った容姿を持っており、学校の成績も優れていた。高校まではこれだけで負けなしだ。しかし、青白い顔をした研究室の先輩も、映画オタクも、売れないバンドマンも、皆比べるのもおこがましいほど自分より遥かに格好よかった。

 大学は広かった。社会はもっとずっと広かった。
 器用なだけで、上辺を撫でて満足するような青音は、彼らのような人間に逆立ちしたって勝てない。

 両親が離婚した時ですら1日泣いて吹っ切れたにもかかわらず、青音は次第にじわじわと塞ぎ込むようになっていった。
 時折は高校までのお気楽な自分に腹立たしさすら覚えた。外国育ちというルーツを持ち、高校時代には課外の探究活動へ積極的に参加していた祐太郎が身近にいることも、いっそう何もない自分を浮き上がらせる。


 チャラ男がメランコリックな溜息をつくようになり、学内外の女たちの熱視線が加速したのは言うまでもない。

 サークル外の飲み会で襲われかけた夜、青音は2月の東京にシャツ1枚で飛び出した。
 スマホの電源は切った。駅から徒歩10分、波打つ視界でも通い慣れた部屋を目指すのに迷うはずも無い。ウォークマンは石川晶&カウント・バッファローズのGet Up!を再生していた。

 音楽によるトランスと欲情は似ている。
 寝巻きでドアを開けた祐太郎は、イヤホンを投げ捨てキスする青音を抱きしめながら連れ込んだ。1Kの部屋、合図を務めるは祐太郎がレコードへ落とした針だ。

 高見沢には受け入れる側の方が気持ちいいものだと聞いていたが、少なくともその夜の青音にとって彼の言ったことは間違いだった。なんて甘い考えだと、激痛から気を逸らすため、調子よく話す先輩を脳裏へ呼び出して罵倒した。
 ひたすら痛く苦しい。息も上手く吸えず涙が出た。
 そんな状況で、けれど青音は馬鹿みたいに興奮した。
 自分へ興奮する祐太郎の指に、唇に、眼差しに、汗に、この上なく興奮していた。



 高校で作った彼女とも、青音はそれなりにセックスをしたと思う。
 世の男の大多数と同じくこの行為が好きだったし、初めて体験した翌日などは一日中爛れた妄想で頭が満員御礼状態である。そしてまた世の男の多くと同じく、最初の1回がピークで、こんなものかとも思った。所詮容易く自制が利く程度の欲求だったのだ。

 大学生になって最初の春休み、青音は帰省しなかった。それどころかほとんど外出さえせず過ごした。
 起きてセックスし、食べてセックスし、寝てセックスした。一般的に見て青音と祐太郎は抜群に相性がよかった。

 新学期早々、祐太郎と碌に食事もとらず授業をサボる頃には、青音は認めざるを得なくなっていた。高見沢の教えはやはり正しい。むしろ甘かったのは自分の方である。

 2月に酔った青音が放り投げて以来、ヴィンテージのウォークマンはついに動かなくなった。春休み中修理屋に持っていくつもりでいたものの、祐太郎にキスをされればそんなことは一瞬で頭の中から吹き飛ぶ。しかも彼の部屋には中古のレコードプレイヤーがあったのだ。
 細々2人が集め始めたLPやEPの多くはジャズやロックに偏ったフュージョンで、こうしたアルバムは大抵めまいがするほどエロい音を鳴らす。その春、青音がとっていたほぼ唯一の動物的でない行為がレコードを再生することだったが、薄い円盤が回る時、2人は部屋のどこにいてもたまらずもつれ合った。

 学年が変わったあたりで、青音は大学を休みがちになった。比較的真面目な優等生である祐太郎は一応授業には出席していたにしろ、お互い勉学どころでないのは同じである。

 さすがにこのままではよくないと、夏になる頃、青音は院でしぶとくモラトリアムへ留まる高見沢に中古のセルシオを借り、サメが見たいと言って祐太郎と大洗の水族館へ出かけた。
 運転免許は1年の頃に2人とも通いで取得している。大学生らしく健康に遊び、爽やかな付き合いへ切り替えようという魂胆だった。

 ところが行きの序盤で計画に狂いが出た。首都高に乗って少し経った頃、パワーアンプを積んだ改造カーステレオからアフリカン・ロックが流れ出したのだ。高見沢は音楽の趣味もよかった。

 次のサービスエリアへ入り駐車場の端に車を停めた。それから青音と祐太郎は後部座席に移動した。
 サメは見なかった。アルバム2周と少しの時間他人の車でセックスに耽り、終えた後には1Kの部屋に帰って続きに臨んだ。