ドーナツの甘い油の匂いは好きではない。けれどドーナツ店を選んだのは店頭に出なくてもいいと聞いていたからだ。ただ、アルバイトも二年経つと色々なことをやらされるらしく、萌は今日も本来の厨房ではなくカウンター業務についていた。本当は人と話さなければいけないカウンターでの業務は嫌いなのだが、高性能のASMRマイクが欲しいのでこの日も渋々萌はカウンター前に立っていた。カウンターに立つ時間は一時間ほどだ。我慢していればすぐに終わる。
ただ、そういう時に限ってトラブルが舞い込んでくるのも、萌は経験から知っていた。
「ちょっと、あなた! これ、どういうことよ?」
カウンターの前に立っていた萌に突然金切り声が飛んできて、萌は驚いて顔を挙げた。カウンターの前には、自分の母親かそれより少し年上くらいの女性が眉を吊り上げて立っていた。ガシャン、と乱暴にカウンターにトレーを置かれ、それに乗っていたグラスが倒れる。
「ど、いう、こと……とは……」
突然のことに頭の中が白くなった萌は女性の言葉を繰り返すことしかできなかった。女性が、バン、とカウンターを叩いて、一瞬店内が静かになる。
「よく見なさいよ、皿の中。髪の毛入ってるじゃない。こんなもの、客に食べさせるつもりなの?」
さっき倒れたグラスから零れたコーヒーがかかってしまったドーナツには、確かに数センチの茶色く細いものが見えた。目を凝らすとたしかに髪の毛のようだ。ただ、萌の髪は黒なので、自分のものではないのは分かり切っている。この女性を接客した覚えもなかった。
「あの、そんなつもりは、なくて……」
萌がどう説明しようか、白くなった頭に色が戻るようぐるぐる思考を回転させていると、後ろから、ヤバ、という声が聞こえた。カウンターの内側にいるから聞こえる、厨房の声だ。
「あの人接客したのオレだ。でも、今の担当はあいつだし、いいよな?」
「クレーム処理もカウンターの仕事だし、いいよ。アマハネくん? に任せよ」
バイト仲間、いや仲間とも思いたくない同僚の会話が聞こえ、萌の胃の底が一瞬熱くなった。自分のミスだと分かっているならここまででて来ればいいし、何より同僚の名前も知らないとか、自分をバカにしているとしか思えなかった。苛められていた時の昔の記憶が開きそうになったところで、ちょっと聞いてるの? という興奮した声で、萌は現実に引き戻された。
「ねえ、どうするつもりなの? だいたいね、あなたの髪も長すぎない? あなたのじゃないの? この髪も」
「それは……」
髪の色が違うことくらい気づくはずだ。とんでもない濡れ衣を着せられそうになっているのは分かるのに、言葉が出てこない。どうしたらいいのか、どう言えばいいのか。それすらも分からなくなった時、申し訳ございません、と柔らかい声が隣から聞こえてきた。
「すぐに新しいものとお取替えしますね。ドリンクも新しいものをご用意します。少々お席でお待ちいただけますか?」
隣に立って優しい笑顔で対応したのは、河下という先輩だった。萌よりも三つ年上の大学二年生で、萌がアルバイトを始めた時に最初に業務を教えてくれたのがこの人だった。他のバイトたちとはあまり上手く話せないが、河下は優しく雰囲気も柔らかいので萌もよく話している。
そして、仕事もよくできる。
この時もあっという間に客を宥めて席へと戻してしまった。
「す、みません、でした……僕、上手く話せなくて」
「こういうのは経験だから。天羽くんもこれで次はちゃんと対応できるでしょう?」
大丈夫だよ、と笑顔を向けられ、萌がほっと息を吐く。
「見て見ぬふりしてたあいつらは、多分天罰が下るから」
河下がカウンターに置かれたままのトレーを除けて、新しいトレーにドーナツを用意する。萌はそれを見て、慌ててドリンクを作り直した。
「次があるのも嫌ですけど、上手くできるでしょうか……?」
「天羽くんは真面目だし心配ないよ。ただ、少し前髪は切った方がいいかもね」
河下は萌の前髪に触れてさらりとそれを分けた。くすぐったさに身を縮めると、ふふ、と小さく笑われる。
「変な事はしないから、少し眼鏡取ってこっちに顔を向けて」
優しく言われ、萌はよく分からないまま言われた通りに眼鏡を外した。すると河下が前髪に再び触れる。パチン、と軽い音がして萌の視界からいつも見えている前髪の先が消えていた。前髪をピンで止められたようだ。
「え、あの……」
「うん、やっぱりこっちがいいな」
河下が萌の額から頬に触れ、耳を辿ってから指を離す。優しいけれど意味の分からない接触に萌は眼鏡を掛けてから問いかけるように河下を見やった。
ただ、そういう時に限ってトラブルが舞い込んでくるのも、萌は経験から知っていた。
「ちょっと、あなた! これ、どういうことよ?」
カウンターの前に立っていた萌に突然金切り声が飛んできて、萌は驚いて顔を挙げた。カウンターの前には、自分の母親かそれより少し年上くらいの女性が眉を吊り上げて立っていた。ガシャン、と乱暴にカウンターにトレーを置かれ、それに乗っていたグラスが倒れる。
「ど、いう、こと……とは……」
突然のことに頭の中が白くなった萌は女性の言葉を繰り返すことしかできなかった。女性が、バン、とカウンターを叩いて、一瞬店内が静かになる。
「よく見なさいよ、皿の中。髪の毛入ってるじゃない。こんなもの、客に食べさせるつもりなの?」
さっき倒れたグラスから零れたコーヒーがかかってしまったドーナツには、確かに数センチの茶色く細いものが見えた。目を凝らすとたしかに髪の毛のようだ。ただ、萌の髪は黒なので、自分のものではないのは分かり切っている。この女性を接客した覚えもなかった。
「あの、そんなつもりは、なくて……」
萌がどう説明しようか、白くなった頭に色が戻るようぐるぐる思考を回転させていると、後ろから、ヤバ、という声が聞こえた。カウンターの内側にいるから聞こえる、厨房の声だ。
「あの人接客したのオレだ。でも、今の担当はあいつだし、いいよな?」
「クレーム処理もカウンターの仕事だし、いいよ。アマハネくん? に任せよ」
バイト仲間、いや仲間とも思いたくない同僚の会話が聞こえ、萌の胃の底が一瞬熱くなった。自分のミスだと分かっているならここまででて来ればいいし、何より同僚の名前も知らないとか、自分をバカにしているとしか思えなかった。苛められていた時の昔の記憶が開きそうになったところで、ちょっと聞いてるの? という興奮した声で、萌は現実に引き戻された。
「ねえ、どうするつもりなの? だいたいね、あなたの髪も長すぎない? あなたのじゃないの? この髪も」
「それは……」
髪の色が違うことくらい気づくはずだ。とんでもない濡れ衣を着せられそうになっているのは分かるのに、言葉が出てこない。どうしたらいいのか、どう言えばいいのか。それすらも分からなくなった時、申し訳ございません、と柔らかい声が隣から聞こえてきた。
「すぐに新しいものとお取替えしますね。ドリンクも新しいものをご用意します。少々お席でお待ちいただけますか?」
隣に立って優しい笑顔で対応したのは、河下という先輩だった。萌よりも三つ年上の大学二年生で、萌がアルバイトを始めた時に最初に業務を教えてくれたのがこの人だった。他のバイトたちとはあまり上手く話せないが、河下は優しく雰囲気も柔らかいので萌もよく話している。
そして、仕事もよくできる。
この時もあっという間に客を宥めて席へと戻してしまった。
「す、みません、でした……僕、上手く話せなくて」
「こういうのは経験だから。天羽くんもこれで次はちゃんと対応できるでしょう?」
大丈夫だよ、と笑顔を向けられ、萌がほっと息を吐く。
「見て見ぬふりしてたあいつらは、多分天罰が下るから」
河下がカウンターに置かれたままのトレーを除けて、新しいトレーにドーナツを用意する。萌はそれを見て、慌ててドリンクを作り直した。
「次があるのも嫌ですけど、上手くできるでしょうか……?」
「天羽くんは真面目だし心配ないよ。ただ、少し前髪は切った方がいいかもね」
河下は萌の前髪に触れてさらりとそれを分けた。くすぐったさに身を縮めると、ふふ、と小さく笑われる。
「変な事はしないから、少し眼鏡取ってこっちに顔を向けて」
優しく言われ、萌はよく分からないまま言われた通りに眼鏡を外した。すると河下が前髪に再び触れる。パチン、と軽い音がして萌の視界からいつも見えている前髪の先が消えていた。前髪をピンで止められたようだ。
「え、あの……」
「うん、やっぱりこっちがいいな」
河下が萌の額から頬に触れ、耳を辿ってから指を離す。優しいけれど意味の分からない接触に萌は眼鏡を掛けてから問いかけるように河下を見やった。


