暗くなってからこの道を通る時は少し警戒していたけれど、今日はまだ明るいし、なにより萌は今とても満たされていた。この気持ちのまま帰ったら、きっと難航していた曲の仕上げも上手く行きそうな気がする。
全部煌輝のおかげだな、と小さく笑う萌の後ろから砂利を踏む足音が響いて、萌は思わずびくりと肩を震わせた。一度呼吸を整えてからゆっくりと振り返る。
「萌くん、お疲れ様」
そこにいたのは河下だった。笑顔でこちらに近づくその姿を見て、萌は一瞬ほっとした。けれどすぐに、どうしてここに河下がいるのかと首を傾げる。
バイトの上がり時間は五時間以上前だし、河下の家はこちらではないはずだ。この先は住宅街で、住民以外用事があるようなところでもない。
「お疲れ様、です……」
聞きたいことはたくさんあったが、確信を得てはいけないような気がして、萌は挨拶だけを返した。
いつもの笑顔のはずなのに、なんだか河下の目がまっすぐこちらを見ているのが怖かった。
「萌くん、今日楽しかった?」
「え?」
近づいてくる河下から体が自然と距離を取ろうとして、足が後ろへと下がる。けれど、すぐに傍に寄られ、萌は河下を見上げた。
「いつも前髪はしっかり下ろそうとするのに、バイトが終わったら少しだけ分けてたよね? カバンの中にコンタクトが入ってるのも知ってるよ」
その言葉を聞いて、萌はバッグの紐をぎゅっと握った。確かにもっと準備する時間があれば眼鏡を外してコンタクトをしようと思っていた。店を出る時は、煌輝の視線も河下の珍しく強引な手も気になって慌てていたのでできなかった。
ただその事実を河下に話していない。
背中に冷たい汗が伝っていって、萌が息をのんだ。
「四人でカラオケ、高校生っぽくていいよね? でも、ホントに中で歌ってただけ? 萌くん可愛いから、あんな密室に何時間もいて、襲われたりしなかった?」
「襲われ……? え……?」
そもそもどうして河下は萌たちがカラオケに行っていたことを知っているのだろうか。しかも、どうしたら萌が襲われるなんていう発想にたどり着くのだろう。
「そういう心配すらしないか。無垢ですれてないところも、萌くんの魅力だよね。でも、無防備すぎると思わない? 僕ならずっと守ってあげるから、今度はあんな男たちと遊びに行っちゃだめだよ」
河下の言葉の半分も理解できない。萌の頭の中は疑問符で満たされていく。
そんな萌を見て河下が小さく笑った。
「君は、何にも知らなくていい。地味で孤独なままでいいんだよ。オシャレなブランドのハンカチなんか君には要らないし、他人がいるところでリップクリームなんか使わなくていい。君の良さは僕だけが知ってればいいんだ」
先日次々となくしたものを言葉にされ、萌は震える指をぎゅっと握りしめた。
「か、河下さん……どうして、失くしたもののこと、知って……?」
声が震えて上手く話せない。それでも河下には伝わったようで、柔らかく微笑まれた。
「僕が持ってるからだよ。バ先の女連中が『あのブランドのハンカチ使ってるとか天羽くんって案外オシャレだよね』とか『ちゃんと唇のケアしてる男子っていいよね』なんて話してて、これ以上君に興味を持たせちゃいけないと思ったから。ただでさえ、あの男が出てきてイライラしてたのに」
河下から聞いたこともない低い声がして、萌が身を縮める。もう目の前のその人が『優しいバイト先の先輩』には見えなかった。視線を逸らしてここからどう逃げるべきかを考え始めた萌に、河下はため息を吐いて、そのまままた話し始めた。
「あいつのこと、嫌いじゃなかったの? 萌くん。僕、萌くんに嘘を吐かれたのかもと思って、結構傷ついたんだよ」
河下が話しながら持っていたスマホの画面を萌に見せた。視線だけを移動させそれを見た萌が思わず目を見開く。呼吸が止まりそうになり萌は短く息をした。
「この画像……」
スマホに映し出されていたのは池田から見せられた写真と同じものだった。煌輝と萌がまさにこの道を並んで歩いている様子だ。


