夏休み直前の学校は生徒たちの夏休みへの期待感を孕んで、どこか浮足立っているように感じる。そんな中でも、屋上前の階段は、今日も静かだった。
「お兄さん、動画の編集上手だね」
階段に座り、隣で煌輝が持つスマホの画面を見ながら、萌がぽつりと呟く。すると隣から小さく笑う声が聞こえた。
「いや、そこ? 中身見てよ」
「あ、だって……この動画撮った時僕も居たし、井瀬がカッコいいのは知ってるから」
オーディション用の歌動画もダンス動画も萌が一緒にいる時に撮った。その方が上手くいきそうだと言われたら行かない理由などなく、その時に見たカッコいい煌輝が画面の中に収まっている。
「そっか……ん、まあ、それなら……」
煌輝が歯切れの悪い言葉を並べながら少しだけ俯く。その耳が赤くなっているのが見えて萌が首を傾げると、じゃあいいか、と煌輝が再び顔を上げた。
「これで送る」
煌輝は深く呼吸をしてからスマホの画面に指を滑らせた。応募画面に名前などを入力し、さっきの動画を添付してから、萌に視線を合わせた。
「送って、いいよな?」
「……うん。絶対大丈夫! お兄さんもお姉さんもこんなにカッコよく完璧な動画作ってくれたんだし!」
動画の撮影が終わった時、どちらも煌輝に『一次審査なんて煌輝の壁じゃない』と笑っていた。萌もその通りだと思っている。
「うん、じゃあ、送る」
煌輝の指先が送信ボタンに近づく。周りが静かになって、萌が息を止めてその指を見つめた。ゆっくりと指が画面に触れ、『応募を受け付けました』と画面に表示される。
萌は煌輝と一緒に大きく息を吐いた。
「ここまで頑張ったね」
萌が顔を上げ、笑顔で煌輝を見つめた、その時だった。ふわりと煌輝の長い腕がこちらに伸びて萌の体がその腕の中に収まる。煌輝が使っているのだろうフレグランスと夏の汗の匂いに包まれた萌は目を見開いたまま固まってしまった。声も出ず、指先すら動かせないほどの衝撃に思考が絡まる。
「天羽がいたから、挑戦できた。ありがとう」
耳に煌輝の息がかかり、首筋に彼の柔らかな髪が触れている。その部分から熱が萌の中を駆け抜けて、鼓動へと繋がっていった。静かなはずなのに、萌には自身の心臓の音が大きく聞こえていた。
「う、ん……て、いうか、その……」
掠れる声で萌が告げると、煌輝がすぐに萌を離した。そのまま階段の壁に背中が当たるまで後退りをする。それからすぐに口元を手で押さえ、ごめん、と俯く。
「あ、いや、その、嫌とかじゃなく、て……全然、大丈夫、です……」
萌も煌輝の顔が見れなくて足元に視線を向けた。気温のせいだけじゃないと分かるほど体が熱い。
「あの、では……そちらにに戻っても、よい、ですか……?」
突然敬語を使われ、萌が顔を上げて、ふふ、と笑う。まだ視線を泳がせている煌輝は、萌と同じくらい、きっと熱さを感じているだろうと分かるほど、首まで赤くなっていた。
「どうぞ、お戻りください」
萌が自分の隣の階段を軽く叩く。では失礼します、と煌輝がこちらに移動し始める。
その時階下から大きな笑い声が聞こえ、萌も煌輝もぴたりと動きを止めた。
『屋上なんて暑いよー』
『だから誰もいなくて、思い切りいちゃつけるんだろ』
そんな男女の会話が聞こえ萌はぎゅっと指先を握りしめた。
この場所は萌だけの場所ではないのだから、生徒の誰かが来ても不自然ではない。でも今はこの場所に他の誰かが来て欲しくはなかった。
「天羽、ちょっとの間だけ、屋上に隠れてて」
煌輝が立ち上がり、屋上のドアを開ける。奥に陽炎が見えるほど気温が高いことが分かったが、萌は煌輝に言われた通り、その熱気の中に飛び込んだ。重いドアが閉まり、萌がその場に座り込む。
「煌輝じゃん。こんなとこで何してんの?」
ドアの向こうから女子の声が聞こえた。
「いや、屋上静かだろうなと思って昼寝に来たら、殺人レベルで暑くて無理だったから、教室戻るとこ」
煌輝が大きくため息を吐きながら話すと、ほらあ、と再び女子の声が聞こえた。
「暑いのヤダよ。教室戻ろう」
「そんな暑いなら無理だな。戻るか」
そんな会話の後、足音が小さくなっていく。どうやらこちらに向かっていた生徒は煌輝との会話で屋上に来ることを諦めたらしい。ほっと息を吐くと、制服のポケットに入っていたスマホが短く震えた。取り出して画面を見ると、煌輝からのメッセージが入っていた。
『もう大丈夫だから、すぐ屋上から戻って』
眉を下げる犬のスタンプと共に送られたメッセージを見て、萌はドアを開けて校内へと戻った。それから、『戻った、倒れてないよ』と返事をする。
『良かった。その場所も天羽のことも、知られたくなくて勝手な事してごめん』
その文字を見て、萌は一人で小さく微笑んだ。階段の中ほどに座り込み、スマホの画面に指を伸ばす。
『ありがとう』
勝手な事だなんて思っていない。煌輝の行動が嬉しくて返すと、煌輝から返信が届いた。
『また放課後な』
「……放課後、また会えるんだ……」
気づくと萌は口の端を上げてじっとスマホの画面を見つめてしまっていた。また放課後な――短い言葉なのに萌の頭の中には既に煌輝と過ごす時間が浮かんでしまう。この不思議な気持ちはなんなのか分からないまま、萌は珍しく軽い足取りで教室へと戻っていった。


