今思い出しても、まだ指先が冷たくなる。
『付き合って欲しい……恋愛的な意味で』
煌輝のその言葉は、数日経った今でも時折脳内再生されて、萌はそのたびに頭を抱えたい衝動に陥っていた。
「……どうして僕、いいよ、なんて言った……?」
煌輝が、黙っていてくれるならーーそれだけと問われたら嘘になる。煌輝との時間は、萌の中で温かな雫のように溶けていて、もうあの時点では既に煌輝は『一軍の中心』ではなくて、『井瀬煌輝』という輪郭を持った存在になっていた。
萌はため息を吐いて、時間を見ようとポケットからスマホを取り出した。あと十分で待ち合わせ時間の午前十一時だ。少し人が増えてきた土曜日のシネマコンプレックスの隅の壁際に立っていた萌が辺りを見渡す。
『土曜日、デートしてください』と突然の敬語メッセージが来たのは、二日前だ。デートという響きに萌はその時持っていたスマホを離してしまった。メッセージを受け取ったのが家のベッドの上だったのでスマホは無事だったが、萌の心臓は無事ではなかった。
震える指で『よろしくお願いします』と返信すると『こちらこそ』とすぐに返ってきてなんだかいたたまれなくてそのまま布団を被って朝まで寝てしまった。
「お待たせ、天羽」
スマホの画面を見つめて約束した時のことを思い出していた萌に、そんな声がかかり、萌が顔を上げる。そこには制服とは印象が違う煌輝が立っていた。
耳に光るピアスのせいだろうか、それともふわりと香るフレグランスのせいだろうか。煌輝が少し大人に見えて、萌は自身のシャツの胸の部分をぎゅっと握った。
昨日の夜、クローゼットの中を漁って鏡の前で何度も着替えて選んだ服を着て、時間を掛けてコンタクトを入れて前髪も真ん中で分けた。それでも休日の煌輝を見たら今すぐ服を買い直して前髪を下ろしたい気持ちになる。
「……ヤバい。今日の天羽、めちゃくちゃ可愛い。ちょっとだぼっとした服、似合ってていいね。髪も分けてくれたんだ。眼鏡もないし……俺のためって、思っていい?」
少し早口で萌の全身を見ていた煌輝が視線を外し、顔を赤くする。最後の方は声が小さくなっていた。
「井瀬のためっていうか……井瀬と遊ぶならできる限りのことはしなきゃ、余計僕が目立つし……」
隣に並ぶ自信が欲しかった、とは言えずに萌が煌輝から視線を逸らす。上から、ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。
「じゃあ、俺もちゃんと気合入れてきてよかった。いや、どんな天羽でも俺はいいんだけど……俺は天羽のこと……」
どんな萌でもいい、なんて言われたらそれ以上の煌輝の言葉は頭に入って来なかった。いつもの自分もちゃんと肯定してくれるのだーーそれを感じて、ふわふわとした気持ちで煌輝を見上げると煌輝の顔が少しずつ赤くなっていく。
「……だから……って、聞いてた? 天羽」
首を傾げた煌輝に聞かれ、萌が煌輝の言葉に意識を戻す。煌輝はなぜか耳まで赤くなっていた。
「え? あ、うん……あ、そういえばチケット、買ってないね」
聞いてなかった、とは言えなくて曖昧に頷いた萌は、話題を変えようとチケットカウンターに視線を向けた。
「チケットなら兄貴にネットで取って貰ったんだ。だからそんなに急がなくても大丈夫だよ」
煌輝がカバンの中からチケットを取り出し一枚を萌に手渡す。
「あ、じゃあお金……」
萌が財布を出そうとすると、いらない、と煌輝がそれを止める。
「ここは俺に出させて」
「いや、でも……」
「初デートくらい奢らせて」
煌輝が微笑み、飲み物買いに行こう、と歩き出す。その背中を見て、萌は足元から血液が顔に集まってくるような熱さを感じた。
煌輝が言ったのは萌とのデートは初めて、ということだろうが、萌にとっては人生でも初デートだ。頬は熱いのに指先は相変わらず冷たくて、萌はぎゅっと手を握りしめて煌輝を追った。その背中に追いついた、その時だった。


