キモミ先輩



 岡崎は、体育教官室にいた。

 換気のためか開け放たれた扉から、ソファに腰を掛けている人物が見える。背中をこちらに向けているので顔は見えないが、照明の反射で頭部をぴかーんと輝かせる教師は、この学校には一人しかいない。
 自分が先頭に立っていることに疑問を抱きながらも、藤丸は控えめにその戸を叩いた。クラス、出席番号、名前のあとに「岡崎先生はいらっしゃいますか」と、ハキハキとした声で訊く。どこからどう見ても岡崎しかいないが、これが職員室や体育教官室、生活指導室に入室する際のルールなのだから仕方ない。

「どうぞ」

 背を向けたまま促され、無駄に高そうな備品の隙間を縫う。千代田は、しれっと名乗りもせずに藤丸のあとに続いた。藤丸もそれに気づいてはいたものの、指摘するのが億劫で気づいていないふりを決め込む。

 きっと、非常勤講師だからという理由で、私物をいろいろと持ち込んでいるのだろう。学校側で用意されたものではない、いかにも愛用品であろうイスやコーヒーメーカーが次々に目に飛び込んでくる。
 初めて入った体育教官室は、職員室や生活指導室とは空気感が違った。教師ではなく「教官」だからだろうか。厳かな響きの名称も相俟って、岡崎のもとにたどり着いたころには、藤丸の背筋は自然と伸びていた。
 岡崎は腕を組んで、何やら「うーん」と唸りながら目を閉じている。本来であれば千代田から本題を切り出すところだが、変なところでお節介な藤丸は「あの……」と、喉がからからになりながらも声を掛けた。

「藤丸くん」

 さん付けで呼ばれることのほうが多い時代だが、岡崎は男子生徒を「くん」、女子生徒を「さん」で呼ぶ。少しひやっとすることもあるが、保護者からクレームが入ったことはなさそうなので、みんな案外気にしていないのだろう。

「……はい」

「俺はいま、非常に残念だなぁと思うことが二つある」

 目を閉じ、眉間に皺を寄せたままの岡崎が、右手の人差し指と中指をぴん、と立てる。
 そして、少しの間があったあと、突然顔を上げた。同時に、眼球が零れ落ちてしまうのではないかと心配するほど開かれた目に、藤丸は思わず仰け反る。

「まず一つ目」人差し指だけが残る。「それは金曜日に起こったんだけれども、わかるかい?」

「……えーっと」

 無駄とわかっていながら、千代田に助け舟を求める。案の定、ぽかんとした表情で藤丸を見つめるだけだった。藤丸は観念して、「すみません」と身を縮ませた。

「いい、いい。人間、誰でもミスはあるのだから、いい。ただ、そのミスに気づかないままでいるのはよくないから、言うんだけれども」

 そう前置きして岡崎から告げられたのは、先週の金曜、保健の授業終わりに出さなければいけないノートの提出場所を間違えていた、ということだった。その日、日直だった藤丸はクラス全員のノートを回収して、職員室の岡崎のデスクの上に置いたのだ。しかしそれが間違えていて、本来であれば、ここ体育教官室のほうのデスクに置かなければいけなかったそうだ。
 その程度のミスで非常に残念と思われたのは納得がいかなかったが、角を立てるほどの度胸は藤丸にはない。

「すみません……」

 いい、いい――。藤丸が頭を下げると、岡崎はふたたびそう言いながら「二つ目」と、今度は中指も立てた。それまで、比較的穏やかだった岡崎が、突然「千代田ァ」と声を太くする。肩透かしで牙を向けられたはずの千代田は動じることなく、代わりに藤丸が肩をびくつかせた。あまりにも突飛な展開に「えっ、え」と困惑する。

「お前クラスも出席番号も名前も、何も言わずにずかずか入ってきたろ。やり直しだよこんにゃろう」

 いよいよ立ち上がった岡崎から、令和の時代にそぐわない鉄拳が繰り出されるのではと思うと、藤丸の胸の鼓動は速まった。
 岡崎はそこまで背が高いわけではなく、一七〇センチあるかどうかといったといころだ。すらりとした体型の千代田を見上げる形ではあるものの、いまでも体づくりを怠っていないのか、がたいはいい。

「……あぁ」

 あまりの迫力に気圧されたのか、千代田は間の抜けた声を出した。

「あーっと、やり直したほうがいいですか」

 いや、訂正しよう。気圧されているわけではなかったそうだ。
 後頭部をぽりぽりと掻きながら岡崎に訊く千代田に、藤丸はひやりとする。

「ったりまえだ。入ってくるとこからだ」

「あ、はい」

 まったく緊張感のない千代田は、言われるがまま廊下の方へと戻っていく。姿が見えなくなったかとも思えば、わりとすぐに三回戸が叩かれた。

「一年二組、十六番、千代田有です。岡崎先生はいらっしゃいますか」

 抑揚のない機械的な声に、藤丸は思わず吹き出しそうになる。その隣では、岡崎は先ほどの鬼の形相をひっこめ、満悦な表情で何度も頷いていた。

 藤丸は、再入室をした千代田と並んで座り、コーヒーを啜る岡崎とテーブルを挟んで向かい合った。茶褐色のローテーブルに、釉薬が施された重厚感のあるマグカップが、ごとんと音を立て置かれた。これほど暑い日でも、大人はホットを飲みたがる。藤丸からしてみれば、理解しがたい奇行だ。

「ごめん。少し話があっち行ったりこっち行ったりしたけれども、肝心の用件は何だったんだい?」

 岡崎の発作は収まったようで、藤丸と千代田の顔を、穏やかな表情で交互に見ている。

 先陣を切ってここにやってきたものの、肝心のスマホを持っているのは千代田だ。藤丸が千代田に顔を向ければ、岡崎の視線もそちらに固定される。しかし、一向にスマホを取り出す気配はない。
 天井に取り付けられた扇風機の羽根が、空を切る音だけがしばらくその場を支配した。首が振り切れ、一度キュッと鳴ったところで千代田はおもむろに口を開いた。

「岡崎先生は――クヌギミテッペイという人物を知ってますか」

 名前を聞いた途端、岡崎の眉がぴくりと上がった。そして、前のめりになっていた体をソファのほうへと引いて「うーん」と、ふたたび腕を組んで目を閉じる。そして、また沈黙。それは先ほどよりも長くて、キュッ、が三回鳴ったところで、岡崎はぱちっと目を開いた。

「その名前は、どこで聞いたの」

 反射的に、背筋が伸びる。瞬間、背骨が凍てつくような感覚に襲われた。目の前の岡崎は柔らかい表情をしているはずなのに、その奥にどこか鋭く冷たい感情を読み取れる。

「実は、と――」

「あ、あの! バスケ部のやつらがその名前を出しているのを小耳に挟んで」

 口をついて、嘘が出る。ポケットに手を突っ込もうとした千代田を遮るように、藤丸は声を上げていた。さすがの千代田も驚いたのか、目を丸くして前に出た藤丸をじっと見つめる。

「それで、君たちはそれを聞いて何をしにここに来たの」

「それは、その……」

「……タオルです」

 言い淀む藤丸の横で、千代田は呟くように言った。藤丸の突飛な行動を完全に理解しているようではなかったが、いまここでスマホを出してはならないということはわかっているらしい。

「バスケ部の部室の奥から、見つかったそうです。でも、バスケ部にそんな名前のやついないからどうするかーって、同じクラスの松谷たちがそう話してて」

 千代田の口から祐樹たちの名前が出たことに驚いたが、藤丸は同調するように頷いてみせる。

「なら、バスケ部の連中に拾得物として出すよう言っておいて」

 以上、と両膝を叩いた岡崎は、マグカップを手に腰を浮かした。

 コーヒーメーカーで二杯目を注ぐ岡崎の背中からは、もう会話はしないという意思が感じ取れる。
 何も話してもらえなかった。やはり、大人の目は誤魔化せないのだ。どんな目論見も、鉄壁で打ち返されてしまう。
 ただ、その岡崎の態度こそが、クヌギミテッペイの身に何かがあったという憶測を、藤丸の中に芽生えさせていた。