キモミ先輩


 一か月後――。

 厳しい暑さがようやく引き、春のような温かさが戻りつつある十月。

 旧一年二組の教室の修繕工事が終わり、現一年二組の教室が、普通教室がある南側校舎に戻されることになった。

「うわぁ、すげー。めっちゃ綺麗になってる」

 あらかじめ約束をし、開門時間と同時に校舎に入った藤丸と千代田は、誰よりも先にその教室に足を踏み入れた。

 夥しい数のお札も、小皿に山盛りになっていた塩も、ここにはもうない。ほかの教室よりも、十二年遅く動き始めた時計の針は、いま、この世界と同じ時間を刻み始めた。

 藤丸が窓の鍵を開け、外を見渡す。千代田もその横に並んだ。
 白みがかった空の下に中層住宅が建ち並び、その少し向こうには駅も見える。この町で暮らす人々の生活の片鱗が、そこにはあった。

「これでもう、ハズレクラスなんて言われなくなるな」

「そうだな~」

「なあ、藤丸」

「ん?」

「なんで、岡崎先生に頼んだの? 一年二組の教室、ここに戻してほしいって」

 椚見哲平の命日だったあの日、身体を乗っ取られそうになっていた藤丸が正気を取り戻したあと、岡崎に頼んだことがきっかけだった。

「千代田はさ、もし自分が死んだあと、みんなに忘れないでいてほしい?」

「……わかんない。考えたこともない」

「椚見先輩は、みんなの記憶から消えたかったんじゃないかなって思うんだ。この学校の伝承にされて、好き勝手に脚色されて……死んでもなお、周りからのプレッシャーが絶えなかったんだと思う」

 苦しそうに話す藤丸の横顔が、会ったこともない椚見哲平と重なる。

「できる限り、キモミ先輩としての痕跡を消してあげたかった」

「忘れてほしかったのに、あのスマホを残したのか」

「うん。わかってくれる誰かに、気づいてほしかったんだよ」

 すべての人でなくていい。教室という小さい箱の中でさえ、分かり合えない人間がいるくらいなのだから。ただ、その中の一人でいい。一人でも自分をわかってくれる人間がいれば、それだけでもう、人生の財産なのだ。

「俺も、千代田にだけはわかっててほしい……って、思う」

 自分で言っておきながら、なんだか途中で照れ臭くなって、語尾が小さくなってしまう。
 誤魔化すように窓をぴしゃりと閉め、そのまま窓際の後ろから二番目の席についた。千代田は、その隣に腰を下ろす。何か言ってくれればいいものの、何も言ってくれないから、なんだかこそばゆい。

「何も言わんのかい」

 空気感に堪え切れず、ツッコミのテンプレのようなことを呟いてしまう。千代田は一切表情を崩さず「いや……」と腕を組んだ。

「俺も同じだなって思って。俺も、藤丸にだけはわかっててほしい」

 何の恥じらいもなく、まっすぐな瞳で思いをぶつけてくる千代田から、藤丸は目を逸らせなかった。こういうことを、当たり前のように伝えられる人間になりたいと、強く思う。

 たとえ悪意がなくとも、自分を蔑ろにしてくる相手とは、一定の距離を保つ。輪の中から自ら出てていくのは怖くて勇気がいることだけれど、自分で自分を殺してしまう方が、恐ろしい。

 椚見哲平の呪いに身を滅ぼしていった人間もいたが、藤丸と千代田に託されたのは祈りだった。

「俺には、言いたいことちゃんと言ってほしい。隠さないで、不満でも何でもいいから」

 ポーカーフェイスの向こう側に、たしかに、千代田の温かさを感じる。

 藤丸はふっと笑うと「じゃあ一個だけ不満言わせて」と、言った。そんな返しが来るとは思ってもみなかったのか、千代田の表情に、わずかない緊張が走る。

「モバ充使ってる人間に、モバ充貸してって言うのはやめたほうがいいよ」

 千代田が、呆気にとられたように固まった。
 その顔がなんだか面白くて吹き出してしまえば、千代田もつられて笑う。

 自分たちを繋げてくれたモバイルバッテリーと椚見先輩のことは、きっと、一生忘れない。



〈完〉