「どうしたっ」
気を失ったままの藤丸を背負い駆けこんだのは、保健室――ではなく、体育教官室だった。クラスも出席番号も名前も、何一つ伝えずに入室したものの、以前のように怒鳴られることはなかった。岡崎も、すぐにソファの上に置いてあった雑多なものたちを退かし、そこに藤丸を寝かせるようにと有に示す。
体育教官室の奥に消えていった岡崎が、シリコンの氷枕を手にすぐ戻ってきた。
「何があった」
「俺にもわかりません」
差し出された氷枕を受け取り、ソファと藤丸の後頭部に滑り込ませる。
「だから、教えてください。椚見先輩のこと」
「そんなこと、いま呑気に話してる場合じゃないだろう」
すぐに養護教諭を呼んでくる、と腰を上げかけた岡崎を「待ってください」と制止した。
言うべきか、言わないべきか。先ほどの現象をそのまま話したところで、簡単に信じてもらえない気がした。
藤丸の身体の中に、椚見哲平の魂が入り込んでしまっている――。
そんなこと、あの言葉と表情を前にした有でさえ半信半疑であるというのに。
では、どうすれば――。
「……千代田」
言葉を探している途中、弱々しい声で名前を呼ばれた。
ソファで横になっていた藤丸が、うっすらと目を開いている。
「藤丸……! 大丈夫か?」
「一年……二組」
「えっ?」
藤丸の手が、千代田の腕を強く掴んだ。
「前の教室……そこに、俺を連れてって。そしたら、きっと――うっ」
「藤丸っ」
ひどい頭痛に襲われているのか、ふたたびこめかみを抑えた藤丸は、悶えるように身を捩らせている。藤丸の身体の中で、別の何かが蠢いているのがわかった。そして、またすぐに気を失ってしまう。
このままでは、藤丸の身体が完全に乗っ取られてしまうのではないか。
「旧一年二組の教室、鍵ってありますか」
振り向き、扉の前に立つ岡崎に問いかける。
「あるが、あそこは――」
「いいから、連れてってください!」
ソファの前で四つん這いになり、藤丸の腕を引っ張って自分の背中に乗せた。小さく呻くような吐息交じりの声が、有の耳朶に触れる。怒りのような、哀しみのような、負の感情がごちゃ混ぜになった痛々しい声に、有は歯を食いしばった。
俺だって――。
「絶対に渡さない」
旧一年二組の教室の鍵は、職員室の鍵保管庫できちんと保管されていたようだ。先ほどまでの大雨は止んだようで、普通教室が並ぶ南側の廊下は静けさが漂っている。そのおかがで、誰に見られることなく旧一年二組の教室に入ることができたのだが、有は教室に足を踏み入れた瞬間、その異質さに顔を歪めた。
扉の前に垂れ下がったビニール幕、四つ角に盛られた塩、壁中に貼られたお札。長い間換気されていなかったせいか、室内は埃っぽく、空気もこもっていた。
「なんでこんな……」
藤丸を背負ったまま、教室中を見渡す。
自分が通っている学校の教室の一室が、まさかこんなことになっているとは思わなかった。これではまるで、幽霊屋敷じゃないか。
「こうするしかなかった」
有とはちがう、回顧するような視線の運びで、岡崎も同じように教室を見渡していた。
「椚見が亡くなってすぐ、この教室で不幸なことが立て続けに起こったんだ」
「不幸なこと?」
「ある生徒は窓から転落し重傷を負い、またある生徒は何かに憑かれたように暴れまわった」
岡崎の手が、壁に貼ってあったお札を剥がす。そこに現れたのは、小さな穴とへこみ。暴れまわったという生徒が傷つけたものだそうだ。
「あまりにも続くものだから、封じ込めてしまおうと……椚見が亡くなってから、一か月後のことだった」
「それって……」
「ああ……偶然かもしれない。それでも、生徒たちは怯えていた。もう学校に来たくないという者もいて、早急に対応する必要があったんだ」
そして、それから十二年もの間、ずっと――。
ふと、有の頭の中に朔の言葉がよぎった。
――人の感情って、死んでも残るんだよ。空気にぷかぷか浮かんだまんまだったり、人や物に託されることもある。
岡崎も、当時の一年二組の生徒たちも、椚見哲平が遺した感情に、揺さぶられた。それは祈りや呪いと言われたりするけれど、本質はもっと現実的なものであるような気がする。わかりやすい言葉に変換されてしまうと、人間は考えることをやめてしまう。表面だけを見て、自分が納得のいく解釈をしてしまうのだ。
そして生まれたのが、キモミ先輩という学校わらしであり、疫病神だった。
「椚見先輩は、どんな人でしたか」
放置されたままの机と椅子。そのうちのひとつから埃を払い、どっしりと腰を下ろす。なんとなく、そこが椚見哲平の席だったんだろうということがわかった。
「俺にとって椚見は、ヒーローだった」
ヒーロー。その声は、少し震えている。
「ヒーロー、ですか」
「うん」岡崎が深く頷いた。「明るくて、責任感があって……このクラスの笑顔の中心には、いつも彼がいた。ただ、それが重荷になっていたのかもしれない」
「いじめは、なかったってことですか」
「あったのかもしれない」
なかった、と言い切られるものだと思い込んでいた。きっぱり言い切らずとも、濁されるものだと。
いじめを黙認していた、というわけではないだろう。岡崎の口調からは、言い訳じみたものはひとつも感じ取れない。
「どれだけ悪意がなかろうと、椚見を追い込んだのは事実だ。それでもあのときは、誰もが彼の死を悼んだ。仲間を失い、次々に降りかかる災難に疲弊する生徒たちを糾弾することなんざ、俺にはできなかった」
分厚く、頑丈そうな手が、机を撫でる。
「悪かった……ごめんな、椚見」
ごめん、ごめん――。
繰り返す岡崎の横顔が歪み始めた。
藤丸を背負いなおして、窓をすべて開ける。目を覚ました太陽が、空を青く染めていた。
封じられていた十二年前の教室が、からっとした晩夏の空気に包み込まれ、外へと連れ出されていく。ここで眠り続けていた様々な感情が、名残惜しそうに、それでも前へ進まねば大空に向かって飛んでいった。
「椚見先輩――」
小さな声で、語り掛ける。岡崎には聞こえないように、二人にしか聞こえないほどの声量で。
「返してくれませんか。こいつは、俺にとっても大事な友達なんだ。連れていかないでください」
椚見哲平の心中を思い浮かべると、胸が痛くなる。生きている間、周囲の人間からぞんざいに扱われ、死んだ後も、事情の知らない人たちに名誉も尊厳も傷つけられた。
「お願いします」
ぎゅっと目を瞑り、祈る。
どうか、どうか――藤丸を返してください。
ふと、シャツの肩がじわりと滲んだ。
肩越しに振り返ると、右肩に乗った藤丸の顔が眼前に現れる。左目から眉間を通り、右目の下瞼にかけて一筋の跡が見えた。
「藤丸……?」
そっと、呼び掛ける。
目を閉じたまま瞼が何度か痙攣したところで、ようやく藤丸の目が開いた。深い眠りから覚めたように、うっすらと開かれた瞼から、珠玉のような瞳が有を見つめている。
「千代田」
「藤丸、なのか?」
「……ありがとう、千代田」
背中から、藤丸を下ろす。こちらに気づいた岡崎が、目元を拭うような仕草を見せた後「もう平気なのか」と問いかけた。
「はい。もう平気です」
「そうか」
「俺も――椚見先輩も」
「えっ?」
自分の足でしっかりと立った藤丸が、岡崎の方へと歩み寄る。
「岡崎先生、お願いがひとつあります」



