あの日から、藤丸とは会っていない。連絡をするのも、却って藤丸の負担になるだろうと思ったからだ。なぜあれほどに避けられていたのか、椚見哲平の調査が中断されたことが少なからず関係しているはずで、岡崎の口から彼のことが語られるとなったら、藤丸も耳を傾けてくれるかもしれない。それでしか繋がることができないのが悔しくもあったが、とにかく、教室に着くなり藤丸の姿を探した。
しかし、その姿は見当たらない。窓際で駄弁る祐樹たちの輪にもいない。もうすぐ門が閉まる時間のはずだが――。
腕時計に視線を落としたその瞬間、肩に衝撃が走る。驚いて後ろを向いてみれば、そこにはいたずらっ子のような笑みを浮かべた藤丸の姿があった。有の左肩に手を置き、少し低い位置から顔を覗き込むようにして「千代田、おはよう」と声を掛けてきた藤丸は、あの日の沈んだ様子からは考えられないほど、健康的な目を有に向けている。
「藤丸……おはよう」
戸惑いつつも、そう返す。
この一週間で、藤丸の中にどういった変化があったのかはわからない。でも、いまの藤丸なら、誘いを快諾してくれのではないかと思った。
「あのさ、藤丸――」
「おっはよー!」
有の肩から、藤丸の手がするりと放れた。さっと横を通り過ぎ、祐樹たちのほうへ向かっていく後ろ姿を、振り返って見つめた。
夏休み期間中に関係性の変化があったのか、藤丸を目にした瞬間、祐樹たちを纏う空気の温度が、少しだけ下がった気がした。
「……あれ、もしかしてまだ怒ってる?」
そんな空気を壊すかのような、間の抜けた声。
自席について、意識をそちらに集中させる。いつもすぐつけるヘッドホンは首に掛けたままで、少しだけ顔を動かし、視界の端に藤丸たちが映る程度に視線を向けた。
「ごめんごめん! 許して! ねっ、お願いっ」
ぱちんと手を合わせる藤丸に、祐樹たちが戸惑いの表情を浮かべた。
「いや……別に、俺たちもそこまでキレてないっつーか、ちゃんと話がしたかっただけでさ」
祐樹の言葉に、心底安心したような藤丸が「よかったぁ」と、軟体動物のような大袈裟な動きで、机にもたれかかる。それを見たテルたちの表情が、わずかばかり綻ぶ。
「あ、今日バスケ部定休日っしょ! 俺も部活ないからさ、みんなでパーッと、カラオケでも行かない⁉」
「おお、いーじゃん!」
藤丸の弾んだ声に、テルが乗っかった。それに続いて、他からも賛成の声が上がる。つい数十秒前までの凍てついた空間はいっきに溶解され、陽射しを受けた朗らかな川が、藤丸たちの間に流れているような気がした。
おかしい――。違和感を抱くのは、藤丸と楽しげに話す祐樹たちに妬いているせいか。
――いや、違う。
いまだかつて、これほど淀みなく話す藤丸を見たことはない。それは有といたときもそうだが、祐樹たちといるときだって、どこか苦しんでいるように見えていた。それがいまは、まるで憑き物が落ちたように、心の底から笑っているように感じる。
細い針で刺されたようなちくりとした痛みが、胸にじんわりと広がった。
藤丸のいいところを、あいつらはいったいいくつ挙げられるだろう。
常に周囲に気を配ってちょっと疲れてそうなところ、困っている人間がいたら面倒くさがりながらも放っておけないところ、人の心の変化に敏感で感情移入しすぎて泣いてしまうところ――不器用だが、誰よりも繊細で優しい心を持っている。
それを、あいつらはどれほど理解できているだろうか。心から藤丸のことをわかろうとしているやつは、あの中にいるのだろうか。
朝のHR、始業式、大掃除――二学期初日はめまぐるしく、気づけば外はバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。窓に打ち付ける大粒の雨に、陸上部の顧問である担任が「今日は室内トレーニングだなぁ」と呟くと、クラスメイトの陸上部員たちからは大袈裟な嘆息が漏れる。傘を持ってきていない人も多く、一時的な豪雨ということもあり、帰りのHRが終わったあとも、教室は賑やかだった。藤丸たちも、雨が止むまで教室で時間を潰すようで、スマホを片手に談笑している。
「ちょっといい?」
藤丸の机の前に歩み寄り、声を掛けた。祐樹やテルが、何事だと言わんばかりの表情で有を見つめる中、有はそちらには一切目もくれず、藤丸だけを見つめている。朝のあれは幻覚で、もしかしたら嫌な顔をされるのではないかと構えたが、藤丸は「うん!」と頷くと、祐樹たちに「ちょっと行ってくるわ!」と伝えて、有のあとをついてきた。
他のクラス教室とは隔離された空間。廊下の突き当りを右に曲がったところには部室棟があるが、昼食を挟んで午後から活動する部活がほとんどで、そこにはまだ誰の気配もない。
「例の、椚見先輩のことなんだけどさ」
一年二組からの声を微かに感じながら切り出すと、藤丸は少し驚いたように目を見開いた。
「え、うん」
「岡崎先生が話してくれるって」
「えっ?」
「今日、命日だからって」
このあと、藤丸に予定が入っているのは、今朝の祐樹たちとの会話でわかってはいた。しかし、夏休み期間中、あれほど調査に時間を割いてきたのだ。今更かもしれないが、当時の彼を知っている人間の話が聞けるのであれば、藤丸も気になるのではないだろうか。
そんな淡い期待は、一瞬にして弾け散った。
「もう、いいでしょ」
すんなり断られるとは思ってもみなかったため、驚きの声すら上がらない。呆けたように口を開けたままの有に、藤丸は言葉を続けた。
「ようやく、分かり合える友達を見つけたんだ。そのことはもう、忘れたい」
「分かり合えるって――もしかして、松谷たちのこと言ってる?」
そっと、藤丸が視線を逸らす。
「ごめん。俺の目には、分かり合えてるようには見えない」
あまりにも直球すぎる言葉だったと後悔しながらも、もう、藤丸の前では余裕な自分ではいられない。
「合わないやつらと、無理に合わせる必要なんてないだろ」
藤丸の目が、揺らいだ。逸らされていた視線が有へと戻される。そして、力なく微笑んだ。
「千代田は、強いんだね」
「……なんで」
「ひとりでもへっちゃらなんだろ。俺は、ひとりが心底怖いよ」
ひとりが、怖い――。
有には、到底理解できない感情だった。
ひとりのほうがやれることは多い。周りに合わせず、自分のペースで自分の好きなことができる。たしかに、もう少し多感だった中学生の頃は、数々のグループが形成されている中で、ひとり教室の隅に座っているのを苦痛に感じたときもあったが。
「たしかに、俺はひとりでも大丈夫なのかもしれないな」
でも、いまは少し違う気がする。
「だけど――藤丸がいてくれたら、いまよりもっと大丈夫になるかも」
「えっ……?」
「藤丸がいる教室で、ひとりは嫌かな。できれば、もっといろいろ話したい。好きなバンドの話とか、どこのフェスが好きか――今年はもうチケット取れないけど、来年は一緒にジャムかロッキン行きたい」
人生で初めての告白だった。
恋愛的なものではなく、ただ藤丸といたいというだけの、友達としての告白。もしかしたら「好きです。付き合ってください」と告白するよりも、こっちのほうが何億倍も難しいのかもしれない。自分の伝えたいことをしっかり伝えたつもりでも、それが百パーセントで藤丸に伝わっているかがわからなかった。
俯いていた藤丸の顔が、ふと上げられる。
「千代田、俺――」
何かを言いかけた途端の出来事だった。
突然、こめかみを抑えた藤丸がその場に蹲る。
何が起こったのか理解するのに、少し時間がかかった。藤丸が呻き始めたところでようやく体が突き動かされ、隣にしゃがみ肩に手を置く。
「藤丸?」
声を掛けても、返事はない。荒い呼吸を繰り返す藤丸の背中は、大きく上下に揺れている。
「おい、藤丸――藤丸!」
名前を呼び、肩を揺する。
何度もそれを繰り返しているうちに、突然、ぴたりと藤丸の動きが止まった。
「藤丸、お前――」
――大丈夫か?
そう言葉を続けようとしたものの、持ち上げられた顔を見てぎょっとする。
不自然に横に引き上げられた口元と、光の入っていない瞳――。
「渡さない。ようやく分かり合える友達を見つけたんだもん」
背筋が凍り付き、脳天を貫かれるような感覚に襲われた。
ピカッ、と窓の向こうが光り、すぐあとに爆発音のような雷鳴が校舎を揺らす。どうやら学校近辺に落雷したようだが、有にとって、そんなことはいまはどうでもよかった。
目の前で、不気味な笑みを浮かべる男を見て言う。
「お前――」
電池切れのロボットのように、藤丸が有のほうへと倒れこんできた。咄嗟に抱え込み、瞼を閉じた彼に問いかける。
「お前は、誰だ――」
返事はない。先ほどの落雷のせいか、きゃあきゃあと騒がしい教室からの声だけが、有の耳に届いていた。



