キモミ先輩


 長いようで短かった、高校生活初めての夏が終わった。風物詩といわれる海や花火、祭りなどを堪能する暇もなく、暦は九月に突入している。

 長期休暇で怠けた体を無理矢理起こし、顔を洗い、朔が用意してくれたオープンサンドを胃に落とし、歯を磨く。身支度を終わらせた後は、両親の写真立ての前に正座をし、おりんを二度鳴らして合掌。

 ――いってきます。

 心の中で、二人に話しかける。有の言葉に、母と父が顔を覗かせ「いってらっしゃい」と送り出してくれる。普段はここで瞼を開いて即刻玄関に向かうのだが、有は手を合わせたままだ。

 九月一日――。
 Xの投稿によれば、今日が椚見哲平の命日だ。

 会ったことも、話したこともない。偶然、図書室で彼のスマホを見つけ、その調査にこの夏を捧げた。結局、彼がどんな気持ちでホームから身を投げ出したのかはわからない。彼の感情に呑み込まれる前に、弟思いの兄が深い深い穴の前から救い出してくれたからだ。

 本当のことは、きっと誰にもわからない。本人が遺したスマホでさえ、いったいどんな意図があってのことなのか、真相は闇に包まれたままだ。

 そこにあるのはただ、十二年前の今日、彼が死んでしまったという事実。
 有には、冥福を祈ることしかできない。

「おーい、時間大丈夫かー?」

 ずいぶんと長い間目を閉じていたのだろう。シャツに袖を通しながら、ダイニングから朔が声を掛ける。

 右側で、ちりんちりん、と風鈴が鳴った。
 きつく閉じていた瞼を開け「うん」と返事をし、開いていた窓を閉じるために腰を上げる。網戸越しに、青空が見えた。手が止まり、思わずその空を見上げる。

「晴れてるけど、このあと雨降るからな」

 気づけば、すぐ後ろに朔が立っていた。どうやら、三時間後にゲリラ豪雨レーダーが東京を紫色に染めているようだ。今日は始業式だけだから、少し学校を出るのが遅れれば、下校時間に被ってしまう。

「わかった」

 戸をぴしゃりと閉め、スクールバッグを片手に玄関へと向かった。

 青空の下、ビニール傘を片手に歩くのはおかしな話だが、有は靴に足をすべりこませると、大きめの傘を手にとった。

「じゃ、行ってきます」

「おう。気をつけてな」

 お互い軽く手をあげて応じ合うと、玄関扉を開けて共用廊下に出る。

 蒸し暑い外気に迎えられ、思わず顔を歪めた。八月の空気が、まだ漂っている。
 ふと、廊下の側溝に腹を見せた蝉が転がっているのが見えた。生きているのか、死んでいるのか、わからない。奇襲を掛けられないように、足音を立てず、そっとその横を通り過ぎた。

 通学途中、制服を着た同年代の人を多く見た。多くの学校が、九月一日を二学期開始日としているのだから当たり前なのだが、まだ今日は始まったばかりだというのに、皆一様に疲労困憊の様子を顔に浮かべている。休みボケの体をなんとか引きずり出し、または家族に引きずり出されたのだろう。電車に揺られている間に、何とか気を奮い立たせてほしいものだ。

 学校の最寄り駅に到着した。
 同じ制服の人たちが一斉に電車を降り、引きずるような足取りで改札へと向かっていく。そんな中、有はホームで足を止めた。線路に向かって体を向け、今朝の有のように合掌をする男性の姿。見知った姿に、有はそっと歩み寄る。気配に気づいたのか、目を開けたその人は、深く皺が刻まれた顔をこちらに向けた。

「おはようございます、岡崎先生」

「おお、千代田じゃないか。おはよう」

 岡崎と話すのは、夏休み前――藤丸と体育教官室を訪れて以来だ。椚見哲平のスマホの返却は学校で部活動がある日に藤丸が返却済みのようで、攻撃的だったあの日に比べ、今日は幾分か穏やかだった。

「もしよかったら、学校までどうだ」

 校外で、教師と、一対一で並んで歩くということは、いままでなかった。

 有はわずかな緊張感を抱えながら、岡崎の少し後ろを並んで歩く。後ろからやってきた生徒たちに「おはようございます!」と声を掛けられるたびに「おはよう」と返す。もう何人に抜かされたかはわからないが、歳のせいもあるのか、ゆったりとした足取りで、少しずつ学校へと近づいていく。

 周囲にほかの生徒がいなくなったあたりで、岡崎はようやく有に向けて話し始めた。

「担任だったんだよ」

 いつものように、主語をすっ飛ばして語りに入る岡崎が有は苦手だったが、今日ばかりは何のことを話しているのか察しがついた。

「そうだったんですね」

「藤丸から、ある程度は聞いた。君たちが何を調べていたのかも、俺はわかってる」

「はい」

 朝から説教か――と覚悟を決めたのも束の間、突然足を止めた岡崎が、有のほうを振り向いた。

「本当に、申し訳ない」

 岡崎の薄い頭頂部が、有の目の前にある。
 瞬時に、何が起こっているのかわからなかった。どうやら岡崎に頭を下げられているらしい、と気づいたのは、細道から現れた二人組の生徒たちから冷ややかな視線を受けてからだ。

「あの、とりあえず頭上げてください」

 ひそひそ話す生徒たちの声が岡崎の耳にも届いたのか、有に言われた通り、しかしゆっくりと時間をかけて頭を上げた。眼窩に力を入れたような険しい表情のまま、有の鳩尾辺りに視線をとどまらせている。問題を起こした学校の校長が、記者会見でするような顔と一緒に見えた。そう見えてしまっては、腹の底から何か沸騰するような感覚に襲われる。襲われるだけで、それを表に出そうとは思わない。感情のゆくままに口にした言葉は、何かを破滅に導いてしまうということを、有はよく知っている。

「俺は、謝ってほしいわけじゃないです。そもそも、岡崎先生が俺に謝らなくちゃいけないことなんてひとつもないですよ」

 らしくない弱々しい瞳が、有に向けられた。

「でも、岡崎先生が少しでも負い目を感じてるなら、ちゃんと話してほしいです。――椚見先輩のこと」

「椚見のこと……」

「はい。椚見先輩が何を思って、あそこから身を投げ出したのかはわかりません。この先も、誰にもわかることはないです。でも、彼がどんな風に学校生活を送っていたかは、岡崎先生は見てきたわけですよね」

「……ああ」

「じゃあ、教えてください。かつてこの学校に通っていた一生徒のことを話すくらい、別にいいじゃないですか。今日くらいは」

 ビー玉のような岡崎の瞳が、かすかに濡れているのは気のせいだろうか。

 駅の方から「やばいやばい!」と言って走ってくる生徒たちの姿が目に映る。ふと、岡崎の表情が戻り、腕時計に視線を落とした。

「千代田」

「はい」

 二人の横を、すでに制汗剤のにおいを漂わせた三人の男子生徒が走り去っていく。

「始業式のあと、時間あるか。藤丸と二人で、体育教官室に来てほしい」

「え」

「一教え子の思い出話に、少し付き合ってくれないか」

 その言葉に、有は頷いた。そして、持っていた傘を掲げる。

「いいですよ。これもあるし」

 なんのことかわからなかったのか、曖昧に微笑んだ岡崎の手に、傘はなかった。