キモミ先輩








「ただいま」

 玄関扉を開けた瞬間、肌を撫でるような冷気に包まれた。
 外はまだ暗くないというのに、家の中からはすでに美味しいにおいがしている。

「おかえり!」

 ダイニングへと続く扉が開かれ、エプロン姿の兄――朔がにこやかに出迎える。今日は休みだったようで、文耀社から出ている本が原作の映画を観にいくと言い、朝一で家を出ていた。昼ごろには帰宅し、家事のあれこれを済ませ、夕飯の準備中だったようだ。

「あれ、今日俺の番じゃなかった?」

「今日はどうしても食べたいのがあって、暇だったから作っちゃった」

「カレーでしょ?」

 靴を脱ぎ、洗面台へと向かう。手洗いうがいをする有の後ろで、腕を組んだ朔が得意げな顔で「カレーはカレーでも、無水カレー」と、本日の献立を発表した。数日前にショート動画で流れてきたものを見て「うまそっ!」と叫んでいたのが、それだったのかもしれない。

 父がこの世を去ってから三年。男三人で分担していた家事を二人でこなすことには、十分慣れてきた。洗濯は日中に帰ってくる有が担当だが、それ以外のことは曜日で分担を決めている。今日みたいに、有が夕飯担当であっても、気まぐれで朔が作ってくれることも多い。

 カレーを食べる前に、ダイニングを隔てる引き戸を開けた。もとは両親の寝室だったその部屋は、いまとなっては洗濯物を畳むときにしか使わない。低いサイドボードの上には、両親のツーショット写真と、おりん、香炉が置かれている。りん棒を手に取り、二回おりんを鳴らして合掌をする。
 しばらくしてから目を開けると、後ろからずっと見ていたのか「藤丸くんに話した?」と、朔が問いかけた。

「何が?」

 立ち上がり、部屋を出て引き戸をしめる。両手を腰に当てた朔が「母さんと父さんのこと」と続けた。

「話してないけど……話す必要ある?」

「この前みたいに、変な空気流れるとお前も困るだろ」

「そう?」

 食器棚から深皿を取り出し、炊き立ての白米と、朔お手製のカレールーをよそう。テーブル挟んで向かい合ったところで、朔がため息をついた。

「兄ちゃん、藤丸くんいい子だと思うけどなぁ」

「俺も、そう思うよ」

「あら、やけに素直」

「悪いかよ。――いただきます」

「ふふっ。いただきます」

 無水カレーは、いつも食べているレトルトカレーよりも、酸味が強くて濃厚な味わいだった。あまりにも美味しくて、二杯も食べてしまった。

 藤丸は、食べたことはあるのだろうか――と、考える。そんな考えが顔に漏れ出ていたのか、朔が「今度、藤丸くんが遊びにきたときまた作るよ」と微笑んだ。

 来てくれるだろうか――。
 何かあったのか、今日の藤丸は少しおかしかった。アポなしで会いにいったのが悪かったのかもしれないが、先ほど入れた謝罪のメッセージは既読すらつかない。

「なあ、有」

「ん?」

 背筋を伸ばし、膝の上に手を置いた朔に倣って、有も居住まいを正した。

「父さんのこと、本当に、お前のせいじゃないからな」