キモミ先輩


 千代田から〈会いたい〉とメッセージが届いたのは、祐樹たちに非難された日の夜のことだった。
 連絡が途絶えていた相手からの突然の連絡に、咄嗟に既読をつけてしまったけれど、返信をする気にはなれなかった。

 自分が悪いのは百も承知だ。その上で、やはり千代田が具体名を出さなければ――という他責思考が働いてしまう。

 惨めな人間だ。こうやって、うまくいかないことのすべてを何かのせいにしていないと、息すらできないのだろうか。一度自己嫌悪に陥ると、底の見えない暗くて深い穴へと永遠に落ち続けてしまう。

 画面を暗くして、布団を被った。
 いまはもう、誰とも話したくない。

 そう思っていたのに、翌日、千代田は藤丸の前に現れた。
 他校との親善試合のあと、片づけも終わり、ミーティングまでのわずかな空き時間で、昇降口に立っていた千代田を見つけたのだ。

「返事、なかったから」

 何も言っていないのに、千代田は藤丸の顔を見るなり、言い訳のようにそう言った。

 砂と汗でざらざらになった肌に鼻を寄せる。
 臭わないだろうか――。

 ミーティングを終え、解散した後のほうが余裕をもって話せる。臭いも気になるから、体中に制汗剤をたっぷりと塗布したあとのほうが、精神的にも落ち着いて話せる気がした。しかし、余裕をもって話せるほど、自分の中で昨日のことが割り切れていなかった。

「なに」

 思いがけず、ぶっきらぼうな声になる。
 さすがの千代田も不快だったのか、わずかに眉を寄せた。

「なにって……避けてるだろ、俺のこと」

「そんなことないよ。千代田のほうこそ、昨日まで一切連絡なかっただろ」

「それは、申し訳ないと思ってる。ごめん」

「いや、別に連絡待ってたってわけじゃないけど」

 なんだか、ものすごく変な感じだ。
 いままで、自分と千代田の間には、椚見哲平という媒介のような存在がいたからだろう。それがなくなったいま、千代田有という一人の人間に向かい合っていると思うと、不思議で仕方なかった。

 何を話せばいいのか、わからない。

「俺、藤丸と話したくて」

「話すって言ったって……もう、調査は終わった。千代田が俺と一緒にいる義理立てはないだろ」

「義理じゃない。ちゃんと、藤丸のこと知りたいんだ」

 知りたい。

「千代田よりも、俺の方が、俺のこと知りたいよ」

 何が好きで、何が嫌いで、将来どんな人間になりたいのか、いま興味があることは何か――。空気を読んで、合わせることしかしてこなかった藤丸に、果たして「自分」はあるのだろうか。

「きっと、わからないよ。千代田には」

 自分でも、自分のことがわからないのだから――。

「どこにいればいいのかわからない。いまいる場所じゃないかもしれないし、千代田の隣でもない気がする」

「なんだよ、それ」

 藤丸の言葉を、一ミリも理解できていないのだろう。千代田が、呆れたような声を漏らした。

 真夏の西日が、背中をじりじりと焼く。グラウンドから、倉庫の戸締りを任されていた同級生が走ってきた。まだ部室に戻っていなかった藤丸を見て目を見開くと「ミーティング遅れんなよー」と声だけ掛けて、スパイクを片手に近くの階段を駆け上っていく。頭の上の時計は、午後五時の五分前を指していた。そろそろ、部室に戻らなければいけない。

「どこにいるべきじゃなくて、どこにいたいかだろ」

「そうだな」

「俺といるの、退屈?」

 こんなことを聞かせてしまっている自分が、憎くて仕方ない。
 千代田と過ごしたこの一か月、退屈なことなんてひとつもなかった。物事の捉え方、感じ方は違えど、同じ場所から同じ角度で物事を見れているような、そんな感覚がずっとあった。

 できれば、ちゃんと友達になりたかった。
 でも、祐樹たちとの決裂を、幾分か千代田のせいだと思ってしまっている自分がいるのは事実だ。自分は、祐樹たちと千代田を天秤にかけてしまう、傲慢で、身の程知らずで、憐れな人間なのだ。

「きっと、千代田が退屈するよ」

「そんなの、なんで藤丸が決めるんだよ」

「俺、面白くないよ」

「面白さで見てない」

 逃げようとしても、すぐ追いついて肩を掴まれてしまう。そんな会話が、藤丸の心を少しずつ切り裂いていった。淡白だがしっかり温度のある千代田の言葉は、いまの藤丸には優しすぎる。

「ごめん。そろそろ行く」

「終わったあと、時間ある?」

「みんなで飯食い行くから無理」

 嘘だった。

 とにかく千代田から離れたくて「それじゃ」という言葉だけ残して、先ほど同級生が上っていった階段へと駆ける。

 後ろから呼び止められることはなかった。

 ほぼ上の空だったミーティングが終わってからも、千代田が藤丸の前に現れることはなく、まっすぐ家に帰った。

 窓越しに見ていた空はまだ青かったのに、もう夕日色に染まりつつある。八月下旬に差し掛かってから、長かった日が徐々に短くなっている気がした。このまま、どんどん日が短くなって、夜だけになってしまえばいいのに――なんて馬鹿げたことを考えてしまう。そうすれば、学校に行かなくていいだろうし、ずっと家に居られるかもしれない。

 頭でひとり会議をしながら、気がつけば学校の最寄り駅に到着していた。いつも通り、下りの電車に乗る。日曜日ということもあって、平日の退勤ラッシュのような混雑はなかった。端っこの席が空いていたけれど、そこには座らずにドア付近に寄っかかる。
 車窓から街並みを見ていると――特にマンションや団地の窓を目にすると――ひとりひとりの生活があるんだな、と当たり前のことを考えてしまう。あの窓の向こうには喜びがあって、その隣の窓の向こうには相反する哀しみがあるかもしれない。みなそれぞれ悩みを抱えていて、自分のようにこの車窓を流れていく街並みを見て、他の人たちも頑張っているのかな、なんて思えば、少しは生きる原動力になるのかもしれない。

 ただ、藤丸はそうは思えない。
 いつだって、自分が一番不幸な気がする。

 小学生からいままで、一度も親友と呼ぶに値する友人ができたためしは一度もなかった。極端に暗くない限り、男子社会はそうそう省かれることはない。普通にしていれば、大勢での遊びには誘ってもらえる。ずっと、広く浅く、生きてきた。
 誰かに「藤丸じゃなきゃだめだ」と思われたことは、一度もないと思う。何もないわけではないけれど、誰の代わりでも効くような、平均点のような人間なのだ。常に誰かの補欠で、誰かの一番になれたことはない。
 自分が中心にいるときは、いつも、笑われているときだった。道化師でいるときだけ、みんなが自分のことを見てくれていた。
 嬉しかった。楽しかった。こんなことで喜んでくれるなら、いくらでもやろうと思った。

 でも、ひとりになると、ふと考えてしまう。
 なんで、こんなに頑張っているのだろう――と。
 自分は誰に認めてもらいたいのだろう。そもそも、認められるってなんだ。答えの出ない問いであるということに気づいたときにはもう、絶望だった。

 椚見先輩も、きっと同じ気持ちだったのだろう。
 藤丸には、痛いほどわかる。

 電車が、何駅か地下を通っている間に、日はだいぶ低くなっていた。藤丸と同じ目線に、眩しいオレンジ色の陽が見える。
 椚見先輩は、なぜホームに飛び込んだのか。そして、なぜ自分の前に現れたのか。ずっと答えは出ていたような気がするけれど、その陽を見て確信に変わった。

 電車が、ふたたび地下へと入る。
 窓の反射に自分が映った。

 そして、その隣には、学ランを着た少年が立っている。

「ありがとう、みつけてくれて」

 耳元で、あの晩聞いた声が響いた。
 恐怖なんてものは、もうない。

「きみもおなじだ。いっしょにいこう」

 ピエロのように、綺麗な弧が描かれた口をじっと見つめる。
 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。