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キモミ――。
そのあだ名は、どういった経緯でつけられたのだろうか。
はじめてその名を耳にしたとき、その響きを拒絶するかのように耳の奥が詰まった感覚に襲われた。
「どうして、キモミって、そんなあだ名で呼ばれていたんですか」
聞かずにはいられなかった。
少なくとも、ここにいる黒森以外の人間は、友達に対してなぜそんなあだ名をつけたのか、不思議でたまらないはずだ。
キモミ先輩についてネットで検索した際も、関連する情報量の少なさから他のワードが候補として挙げられていた。それが「キモい」というワードであったことから、どうしてもそちらのイメージが強く頭に残ってしまっている。
黒森は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、藤丸のことを見つめ返した。
「そんなあだ名、っていうのは」
その表情に、わざとらしさも、悪意も何も感じられない。その無頓着さが、却って藤丸の心を逆撫でた。
黒森と翔土が、藤丸の中で重なる。
それでもなお、歯を食いしばったまま、藤丸は感情を抑えるようにして言葉を絞り出した。
「きっかけは、何だったんですか」
顎に手を当て、記憶を巡るように、視線を一点に集中させる。
しばらくして黒森が呟いたのは「ジャージ」という言葉だった。
「たしか、ジャージがきっかけだった。学校指定の、名前が刺繍されてるやつ。椚見の『椚』の右側の『門』の字が右半分刺繍が解れてて……」
黒森が言うにはこうらしい。
そもそも、椚見という苗字は珍しく、はじめてその名を見たときは「きもんみ」と文字を見たままでしか解釈することができなかったそうだ。入学当初、まだグループも形成されていなかったとき「珍しい苗字羨ましい」なんて話になることもたびたびあったそうで、きっかけとなったジャージ刺繍の解れも、それからあまり時間が経っていないころだった。
木、門、見――きもんみ。
そのうちの門の半分が解れたから――きもみ。
キモミ。
なんて幼稚で、無配慮な言葉遊びなのだろう。
朔も小野も、さすがに言葉が見つからないのか、唇を引き結び、藤丸と黒森を交互に見守っている。
抑えろ。抑えるんだ――。
まだ、聞きたいことがある。
「千代田、資料持ってきてる?」
「……あ、うん」
突然話を振られた千代田が、少々戸惑いつつもトートバッグの中からファイルを取り出す。藤丸はその中から、十二年前、学校最寄りの駅で起きた人身事故について触れているものを選び取った。例の、Xのポストを引き伸ばしたものだ。
黒森に視線を戻し、それを差し出しながら藤丸は続ける。
「元の記事は掲載期限が過ぎてしまっているようで見れませんが、亡くなった男子高校生以外にも、友人の二人が軽傷と書かれています」
「……そうだね」
「黒森さんは、その場にいましたか?」
藤丸の問いに、黒森の瞳が翳る。そして、力なく微笑んだ。
「いたよ」
「じゃあ……」
「でも、怪我をしたのは別のやつ。僕は巻き込まれずに済んだけど、それからしばらくは肉どころか食事もまともに取れなかった」
それはそうだ。
目の前で、友人が鉄の塊に断裂される場面を見てしまっては、喉に食事も通らない。一生のトラウマになるだろう。
そして、いままでの自分たちの愚行を省みて、取り返しのつかないことをしたのだと――。そこまで、黒森の頭が働いたとは思えない。藤丸の目には、何か、都合のいい大きな勘違いをしているように見えた。
「僕たちの前で、『見てて』って――。いつもみたいにふざけようとして足を滑らせたんだよ」
そんなはずはない。
「……ふざけて、電車に飛び込む人間はいません」
「僕もそう思うよ。でも、実際そうだった。あいつは、轢かれる寸前まで笑顔だったんだ。いつも、俺らを笑わせてくれる、なんだかピエロみたいなやつで」
――だから、あれは事故だった。
いよいよそう言い切った黒森に、藤丸は思わず鋭い視線を向けた。目の奥が、熱く濡れていくのを感じる。
「いじめ――ですよね」
「ちょ、藤丸くん」
それまで黙っていた朔が、はじめて声を上げた。出版社にとって宝のような存在である作家先生の機嫌を損ね、友人が務める会社の不利益になることを恐れたのかもしれない。
藤丸は、間に入ろうとする朔を押しのけるかのように、力んだ口調で言葉を続ける。
「いじめですよ、それ」
黒森が怯むことなかった。むしろ、藤丸の感情が表に出れば出るほど、小さな子供を前にしたときのような穏やかで、慈しむような角の丸い瞳を向ける。
「いじめじゃないんだよ。キモミ――彼は、僕たちを笑わせるためにいつも頑張ってた。その頑張りが空回りするようなこともあって、あの事故も、その延長線にあったものだと僕は思っている」
「椚見さんは、笑わせてたんじゃない」
「えっ?」
「笑われてたんです。だから、おどけて見せるしかなかった」
わかる。痛いほどに。
自分の心は深く傷ついているのに、周りの人間は楽しそうに笑っている。自分の感情なんて無視された、その人たちだけの空気感。それを壊すのも、無視するのも怖くなって、最終的には自分をすり減らすしかなくなる。そして皮肉なことに、その判断が破壊や無視の何よりも、目の前の人間には覿面なのだ。
安心する。これで、楽になる。
しかし同じことを繰り返す分、周囲の人間の軽視は酷くなっていく。
それに気づいてしまえば、もう、すべてを投げ出したくなるのだ。
自分の心をすり減らすという努力をしたというのに、何の見返りもない――そんなことに絶望するのではない。
自分が一番、自分を軽視していたことに気づいて、絶望し、自暴自棄になるのだ。
自分を助けてやれるのは、自分しかいないというのに――。
目の前のグラスは、汗をかいている。先ほどよりもアイスは溶けていて、水面を上げたコーラはグラスの縁から溢れそうになっていた。
もう、飲む気も起きない。
「……すみません。全部、俺の憶測です。忘れてください」
背中の後ろに置いたボディバッグを手に取る。
「藤丸くん?」
「ごめんなさい。体調悪いんで、俺、帰ります」
朔の制止の声も聞かず、藤丸は立ち上がると店を出た。
涼しい店内から、もわっとした夏の空気に包まれる。少々頭に血が上っていたせいもあって、頭がくらっとした。
後ろによろけたところで、両肩に何かが乗っかる。人の気配を感じて振り向いてみれば、そこには千代田が立っていた。
ずっと一緒にいたはずなのに、ずいぶんと久しぶりに見たような気がするその顔に、わずかばかりに安堵する。同時に、先ほどの自分の言動を省みて、まともに顔を合わせられなかった。
「帰るか」
何か言われるかと思ったが、千代田は藤丸の両肩を二度叩いた後に手を離すと、数歩先を歩き始めた。
「……いいの?」
「何が」
数メートル先で足を止めた千代田に歩み寄る。
「ごめん。今日は帰るけど、俺、ちゃんとお前に付き合うから」
「無理しなくていい。俺が勝手に巻き込んだだけだし」
「本当に、大丈夫だから」
千代田の語尾に被せるように言う。
――俺になら話してもいいって、有くんが思ってくれるまで待ちます。
朔にそう宣言した手前、ここで逃げるわけにはいかない。
自分と、キモミ――椚見先輩はちがう。
そうはわかっていても、やはり、重ね合わせてしまう。
自分の心を守るために、表面をすり減らし、気づけば心を守る皮まですべて削ってしまう。そのことに気づいたときには、もう遅いのに。丸裸になり、装うことのできなくなった虚勢の心は、みんなの目にしっかり映っているはずなのに。
全部、自分が蒔いた種だということはわかっている。でももうそこまで来てしまったら、あとはもう、何かのせいにしないと心が持たなくなるのだ。
椚見先輩も、同じだったのではないか。
そう思わずにはいられない。
無意識のうちに、唇を噛み締めていた。目の前の千代田が、様子を伺うように藤丸の顔を覗き込んでいる。
――こいつになら、弱いところを見せてもいいかもしれない。
「あーゆーのが、一番タチ悪いよな」
先ほどの、黒森の顔が頭に浮かぶ。
まるで自分も被害者だというような苦痛の表情に、虫唾が走った。
誰かを傷つけていることなどつゆ知らず――というような、あーゆーのが、一番。
「あーゆーの……?」
千代田には、わからないかもしれない。
そもそも、こんな考えに至ってしまっている自分が、ただのひねくれものなだけかもしれない。考えすぎなのかもしれない。
「もしかしたら、悪いのは自分だったんじゃないかって、そう思っちゃうような……そんな感じ」
言葉が足りないことはわかっている。
千代田が困ることも目に見えていた。
しかし、予想に反して、千代田は藤丸の目をまっすぐ見る。
「なんか、よくわかんないけど」
そして、すぐに視線を逸らすと、わたがしのような雲が浮かぶ青々とした空を見上げた。つられて、藤丸も視線を移す。
鬱蒼とした心に、無理に光を射し込んでくるような容赦のないこの空が、藤丸は嫌いだった。曇りや雨のほうが、まだ好きだ。
「藤丸は、悪くないよ」
「……えっ?」
驚いて視線を戻せば、千代田もこちらを見ている。相変わらず、何を考えているかわからない無表情だが、その顔はいつもよりどこか柔らかい。
「悪くないから」
弱々しい光だ。
それでも、藤丸の心を覆いつくすような葉を、そっとかき分けて優しく包み込むようなその光は、嫌ではなかった。
無理に元気づけてくる晴れではない。寄り添ってくれる曇りや、ともに泣いてくれる雨とも違う。
ただ、他の何よりも心地がいい。
空がずっと、千代田だったらいいと思った。



