キモミ先輩








 始まりは、中学一年生の春。桜が衣替えをし、緑葉を身にまとい始めたころだったと思う。

「うっわ最悪」

 そんなに大きくなくてもいいだろうという声が教室に響きわたり、まだ残っていたクラスメイトたちの視線が一点に集まった。集まって、すぐに散り散りになる。その声の主が、このクラスのガキ大将ともいえる、大山(おおやま)翔土(しょうと)のもだったからだ。

「マジかぁ。このあと塾あるんだけどなぁ、誰か代わってくんねえかな」

「うそ、翔土一緒に帰れないの?」

「もういーじゃん。やったってことにしようぜ」

 ほうきを片手に、わざとらしく肩を落とす翔土を、藤丸はじっと見つめていた。

 翔土は、地元の硬式野球チームに所属している。すっきりとした坊主頭と、目鼻立ちのしっかりとした顔は、明らかにほかの同級生たちと一線を画していた。足も速いそうで、五十メートル走は六秒台前半。六月に開催予定の体育祭では間違いなく勝敗に関わってくるであろう瞬足に、精悍な顔立ちも相俟って、男女問わず多くのクラスメイトが彼の周りに集まっていた。藤丸自身も、翔土から話しかけられたら自然と笑みがこぼれたし、絶対に無理だろうけど、仲良くなれたらいいな、とまで思っていた。
 それがどういった風の吹き回しか、このごろ翔土のまわりには人が集まらない。いたとしても、翔土と同じく、校外でのクラブチーム活動に力を入れている運動神経抜群集団と、イケメンに目がない女子だけだ。そしていまは、同じ野球クラブチームに所属しているメンバーが、不貞腐れる翔土を囲み、サボりを促している。ただ、本気でサボらせるつもりはないだろうし、翔土自身も、サボるつもりはないのだ。

 こんな光景を、少なくとも三回は見ていた。一回目は誰かが代わり、二回目も誰かが代わり、三回目はいろいろと察したクラスメイトたちが声を掛けずにいたところ、いかにも断れなさそうなおとなしい男子生徒に押し付けていた。
 そして、今日が四回目。前回、掃除当番を半ば強制的に押し付けられた男子生徒は、帰りの号令を終えて早々、逃げるように教室から出ていった。

 教室の中の誰もが、嫌な空気を察知していたのだろう。それまで、それぞれの会話に花を咲かせていたはずのクラスメイトたちは、教師に怒られたあとみたいに静まり返っていた。
 耐えられない、重苦しい空気。誰もがこの状況から抜け出したいと願う中で、自分がそれを打破する側にはなろうとしない傍観者意識。

 しかし藤丸は、違う。

「俺、代わろうか?」

 肩に掛けかけていた鞄を下ろし、掃除ロッカーの前でぐちゃぐちゃ、となっている翔土一行に歩み寄った。
 まさか藤丸から声を掛けられるとは思っていなかったのか、幽霊でも見たかのような目で、全員が全員、目を見開いていた。翔土たちだけではなく、おそらくその場に居合わせたクラスメイト全員が。

「え、いいの?」

「うん。俺、今日部活ないし、塾とかも行ってないから。帰ってジャンプ読むだけ」

 聞かれてもないところまで答えてしまうのは、相手に少しの罪悪感も抱かせたくなかったからだ。いま思い返せば、そんなところまで配慮しなくても、彼らは藤丸の気遣いに一ミリも気づくことはなかっただろう。そもそも、罪悪感のざの字すら頭になかったはずだ。

「うっわ、助かる! んじゃ、よろしくう!」

 ほうきを藤丸に押し付けるように渡すと、翔土たちは早々に教室を去っていった。

 翌日から、翔土たちの藤丸に対する態度が一変した。いままでは空気のような存在だった藤丸が、給食後の昼休み、翔土たち主催のドッジボールに誘われるようになったのだ。はじめは警戒していた藤丸も、繰り返し誘われることにより、自分もそのグループの一員になれたような気がしていた。

 面白い。楽しい。自分が認められたような気がして、嬉しい。クラスで目立つグループにいることで、自分の価値が格段に上がったような感覚に陥る。入学直後は一言も話さなかった女子たちも、藤丸が翔土と共に過ごすようになってから、幾分か砕けた笑顔で話しかけてくるようになったし、友達の輪は他クラスまで広がった。
 こういった団体の中で楽しく過ごすには、上のほうにいたほうが得することが多いのだと、このときはじめて思い知った。

 しかし、そんな楽しい日々も長くは続かない。

 きっかけは、体育祭のクラス対抗リレーでの出来事だったと、藤丸は認識している。
 アンカーは、満場一致の翔土。その前の三十五走者目に穴埋めのように配置された藤丸は、散々練習したはずのバトンパスを本番でミスしてしまう。足の速い人に少しでも長く走ってもらうため、テイクオーバーゾーンの手前のほうでバトンパスをする戦略だったのだが、藤丸の「ゴー!」が早すぎた。三十メートルのテイクオーバーゾーンのラインを越えてしまい、藤丸のクラスは失格。一位でゴールしてガッツポーズを決めていた翔土は、そのアナウンスに納得がいかず、退場までずっと機嫌を損ねたままだった。

 どうしよう。
 自分のミスで、とんでもないことになってしまった。

 焦った藤丸は、待機席に戻ってすぐ、翔土に謝った。無視されるか怒鳴られるかするのだろうと身構えたが、先ほどまでの仏頂面が嘘だったかのように、翔土は微笑んでいた。

「草太のせいじゃないって! 俺も悪かったよ、ごめんな。みんなも、ごめん!」

 肩に手を置かれ、そんなに優しい声を掛けられては泣いてしまいそうになる。歯を食いしばる藤丸に、気を利かせたクラスメイトたちも慰めの言葉を掛けた。

 クラスメイトに恵まれた。
 一時はどうなることかと思ったけれど、二年生も、三年生も、ずっとこのまま同じクラスで進級したいとさえ思えた。このクラスが、何よりも最強で、最高だと。

 あの言葉を、耳にするまでは。

「草太って臭くね?」

 ある日の体育終わり、突然の腹痛に襲われ、着替えるよりも先に男子トイレの個室に走った藤丸は、外からのそんな言葉を聞いて身を固まらせた。

 それは間違いなく、翔土たちの声だった。

「俺もちょっと思ってた」

「あれ何、腋臭(わきが)とはちょっと違うよな」

「なんか、かび臭い感じ」

「あーそれだ。かび」

 藤丸は音を立てないように、襟元を掴んで鼻を寄せた。

 ――わからない。汗のにおいも混じって、なおさらわからなかった。

 早く、この会話を切り上げてくれないだろうか。自分がこの場にいるとわかれば、こんな話はしないはずだ。いますぐにでも扉を開けて出ていくべきか――。

 しかし、体は動かない。聞きたくもない話のはずなのに、この会話の内容が、翔土たちから自分への評価のような気もして、思わず耳を傾けてしまう。

「草太、古い団地に住んでるらしいよ。ほら、河川敷沿いの」

「あーあそこか。でもあそこって、テイショトクシャしか住めないって、うちの母ちゃん言ってたよ」

「なにそれ」

「要するに、ビンボーってことらしい」

「へえ……あ、だから習い事にも行かせてもらえないんだ。なんか、可哀想だな」

 罵詈雑言、というよりかは、同情のような言葉。
 怒りよりも、悔しさが勝った。自分だけでなく、家族まで馬鹿にされている気がして、居ても立っても居られなくなった。

 意を決して個室の扉を開けたときには、すでに翔土たちの姿はなくなっていた。強張っていた肩が、すとんと力を失くして落ちる。
 歯茎が沈むほど、強く歯を食いしばった。

 あんなことを言うやつらとは、縁を切ればいい。こんなことを言われたと、先生に言えばいい。
 すべきことはわかっていたはずなのに、藤丸はそれのどれもすることはなかった。というより、出来なかったのだ。

「ねえねえ、草太ってなんで臭いの?」

 その言葉を、直接向けられたときは絶句した。「え」という驚きの言葉すら上げられず、信じられずに好奇に満ちたその瞳をじっと見つめていた。
 三日月型に湾曲した目と、きれいに上がった翔土の口角。こんなことを本人に直接聞けてしまう翔土の気が知れなかった。「親の顔が見てみたい」なんて言葉の意味をしっかりと理解していたこの頃の藤丸は、はじめてその感情を目の前の友達に抱いた。

「えっ?」

 どう返すか悩んで、いよいよ諦めた藤丸は、誤魔化すように笑うことしかできなかった。

「お前、草太じゃなくて、臭太(しゅうた)になっちゃうぞ」

「いや、くさちがい!」

 そんな一連の流れを、周囲の人間たちが手を叩いて笑う。悪意のない、ただ純粋に「楽しい」「面白い」と感じているいくつもの目が、藤丸の心を貫き、砕いた。
 ここで怒れば、泣けば、誰か止めてくれるだろうか。

 ――いや。きっと、白けて終わるだけだ。そしてもう、二度と翔土たちとはドッジボールができなくなる。

 そんなのは、嫌だった。

 孤立していく自分を想像するのが怖い。
 それならば――。

 深く考えないまま、藤丸の足は教壇へと向かう。落書きで随分と短くなった白いチョークを手に取り、黒板に藤丸――と、自分の名前を書き始めた。「おおっ」と、煽るような声が、そこかしこから上がる。

 ――藤丸臭太。

 その文字を書き終えた時点で、すでに爆発したような笑いが起きていた。

 こほんこほん、とわざとらしく咳ばらいをし、教卓に両手をつく。その手が震えていることに、きっとクラスメイトは気づいていなかっただろう。

「ええー、今日から僕は『藤丸臭太』に改名いたします」

 宣言するように言えば、もう一度わっと笑いが起きた。

 プライドをすべて捨てた上での振り切った自虐ネタに、みんなが笑っている。翔土なんて、腹を抱えていた。

 みんなが、自分が言ったこと、したことでこんなにも笑ってくれている。
 気がつけば、悔しさや惨めに思う気持ちを上回るような高揚が、藤丸の心の真ん中にたしかにあった。

 何か、よくないことを覚えてしまったような気もする。
 それでも、自分を少しすり減らすだけで、こんなに楽になることもあるんだとわかってしまえば、あとは同じことの繰り返しだった。

 高校三年間、藤丸のあだ名は「臭太」だった。

 自分だけが傷つくのであれば、それでいいと思っていた。

 変わらなければ、と思ったのは、卒業アルバムの寄せ書きにまでその名前を書かれたときだ。
 一生に一度の中学の卒業アルバム。負の感情から逃げ、怠慢に過ごした三年間が、このような形で残ってしまった。

 安易に捨てることのできない代物は、いまも押し入れの奥で眠っている。