キモミ先輩


 調査に進展があったのは、それから二週間後。八月中旬のことだった。

 その日、藤丸と千代田は、朔に連れられて葉談社が本社を構える神田神保町へと連れられていた。古書店が立ち並ぶ靖国通りを九段下方向からしばらく歩き、ひとつ裏の路地に入ったところに、葉談社の本社ビルはあった。五階建てのガラス張りで、デザイン性のある一風変わった形の建物だった。しかし、今日の目的地はこちらではない。その横にある、レトロな雰囲気の喫茶店だ。
 入店すると、ちりんちりん、と扉の上で鈴が鳴る。その音に反応した店員がやって来る前に、店内の奥の方から、こちらに手を振るスーツ姿の男性がひとり。その向かい、こちらに背を向けて座っている男性も、藤丸たちの来店に気づくと顔だけを向け、頷くようにして頭を下げた。

 スーツ姿の男性は、葉談社文芸編集部の小野(おの)文力(ふみちか)。朔の大学時代の同期で、出版業界に進んだ数少ない友人らしい。
 そしてもう一人、レーヨン生地のシャツがよく似合う細身の男性こそが、黒森哲平だった。作家先生となればもう少し堅いイメージがあったが、黒森哲平はまだ肌艶もよく、そのラフな格好から年齢もそれほど変わるようには見えない。
 二〇一四年時点で十六歳だとすれば、現在は二十八歳。朔と同い年だ。同い年であるはずの二人が、お互いにペコペコと頭を下げながら名刺交換をする姿を見て、やはり大人なのだと思い知る。

「今日はお時間いただきありがとうございます」

「とんでもない。こうやって母校の後輩と話せる機会がまたできて、僕自身とても嬉しいです」

 ふいに笑顔を向けられ「藤丸草太です」と頭を下げる。千代田もそれに続いた。

 この場が設けられることになったのは、朔に頼み込んでから三日もしないうちだった。もともと、業務外のことで気兼ねなく話せる同業者はなかなかおらず、一番に頭に浮かんだのが、葉談社で編集をしている小野だった。黒森と、その担当編集である稲川(いながわ)は、頻繁に酒を飲みに行く間柄で、直属の後輩にあたる小野も、その場に何度も顔を出していたそうだ。稲川は二回り上の敏腕編集者ということもあり、黒森は同い年で物腰柔らかな小野にかなり好印象を抱いていたため、今回のことも快く引き受けてくれたのだ。

 大人たちがお茶やコーヒーを注文する中、藤丸と千代田は看板商品として推されているクリームコーラを頼んだ。クリームソーダではなく、クリームコーラなのがいいな、と思った。同じものを頼んだ千代田も、そう思っているのだろうか。

 注文品が運び込まれるまでは、黒森のほうから質問が絶えなかった。令和を生きる高校生をモデルにした、まったく新しい青春小説を書きたいようで、藤丸たちの普段の学校生活について興味があるようだった。藤丸と千代田にとっては当たり前の日常を、黒森の質問に沿って答えていく。そのたびに「へえ」とか、「ずいぶんと変わったんだね」とか、新鮮な反応を見せてくれる黒森に、悪い気はしなかった。

 しばらくして各々のドリンクが運び込まれると、それが合図かのように「君たちも、聞きたいことがあるんだよね?」と、どこか覚悟を決めたような面持ちで、黒森の方から話題を切り出してきた。

 千代田は藤丸と顔を見合わせてから、まずは持参した黒森の著書『この少年を見たら幸せになれます』の文庫本を取り出した。

「これ、読みました」

「おお、ありがとう」

 黒森の顔がわかりやすく綻ぶ。

「ネット記事のインタビューも読みました。この小説の中に出てくる少年は、黒森さんの亡くなられた友人がモデルになってるって……」

 続いて、藤丸がオカルト誌の該当ページを黒森に差し出した。目を細めたかと思えば、次には目を見開く。

「……キモミ、先輩」

「はい。Y高で代々言い伝えられている、学校わらしのはずなんですけど……この雑誌では、まるで怪異のように書かれていて」

「怪異……キモミが?」

 先ほどの穏やかな表情とは一変して、黒森の眉間には皺が寄っていた。困惑した様子の黒森に、千代田は続いてスマホを取り出した。そして、テーブルの上に滑らせるようにして黒森の前へと出す。雑誌を端の方に置くと、今度はそれを手に取った。本体やロック画面をまじまじと見つめたあと「これは……」と、千代田、そして藤丸へと視線を向ける。最後に目が合った藤丸が、千代田に代わり答えた。

「それは、椚見哲平さんのスマホだと思います。黒森さん、椚見さんとはお友達だったんですよね?」

 口をぽかんと開け、呆気にとられ固まる黒森に、今度は千代田が「カメラロールの中にある最後の動画を開いてください」と、促す。言われたとおり、動揺しながらも震えた手でスマホを操作し、やがて横向きに持ち替えられた端末から、男気じゃんけんのときの音声が流れた。

――『ごちそうさまでぇーす』

――『早く早く! 売り切れちゃう!』

――『キモミー! ダッシュダッシュぅ‼︎』

 そこで音は途切れる。黒森はその動画をもう一度流すことはなく、「ふぅ」と力を抜くように息を吐いた。何か言うかと思ったが、黒森の方から口を開くことはない。四人の呼吸音だけがやけにうるさくなり始めたところで、千代田が切り出す。

「あの……この動画の撮影者の椚見哲平は、なぜ電車に飛び込んだのでしょうか。キモミ先輩と呼ばれていた少年と、何か関係があるんですか」

 淡々と聞く千代田に、黒森は不思議そうに首を傾けた。

「ん? どういうこと」

「えっ」

 千代田の文脈に、おかしなところはなかったはずだ。それなのに、まるで日本語が伝わっていないかのような反応に、思わず四人で顔を見合わせてしまう。
 何が起きているのかさっぱりわからない状況の中で、やがて黒森のほうが「そういうことか」と合点がいったような声を上げた。

「何かおかしいなと思ったら、君たち、ちょっと勘違いしているみたいだね」

「と、言いますと?」困惑する二人に代わって、朔のほうから助け舟が出される。

椚見哲平とキモミは、同一人物です(・・・・・・・・・・・・・・・)

 黒森が、ふたたび動画を再生した。そしてそれを、藤丸と千代田に見やすい位置に置く。

「声、よく聞いてみて。この動画撮ってるの、僕だよ」

 耳を澄ましてみる。
 動画の中で一番はっきりと聞こえる、ほかよりも一段と低い声。空気清浄機にかけられたような、毒っ気のないクリアな響きは、言われてみれば黒森に似ている。

「本当だ」

「僕が撮影した動画を保存したんじゃないかな。あのころは、写真やら動画やら、撮ったらとにかくグループに送り合ってたから」

「どうして、椚見さんのことをキモミって呼んでいたんですか? キモミ先輩の伝承は、黒森さんもご存知でしたよね?」

「僕たちのころには、そんな伝承はなかった」

 だとしたら、なぜ――。
 思考を巡らせ、たどり着いた答えに、藤丸は背筋を凍らせた。

「キモミは、椚見のあだ名だよ。事情を知っていた誰かが面白がって、学校わらしのモデルにしたんじゃないかな」

 黒森は息を吐くと「ありえない」と憤慨を示す。

 藤丸も同じく、ありえないという気持ちを抱いていた。
 故人を学校わらしのモデルにした人たち――ではなく。
 黒森に対して。

 クリームコーラは、すでにアイスの部分が溶け始めていた。本当は、アイスとコーラ、わけていただくのが藤丸のお好みなのだが、この状況で、そんなことはもはやどうでもよかった。

 ふつふつと、静かに、藤丸の中で何かが沸騰し始める。
 思い出したくもない光景が、脳裏にびゅんびゅんと飛び交っていた。