「お邪魔します」
そこから千代田の自宅は、駅を使って二十分ほどの場所にあった。藤丸の住む団地とは比べ物にならない、エントランスもしっかりあって、セキュリティも固そうな十五階建てのマンションだ。ファミレスで何も食べれないほど困窮した生活を送っているようには見えない。あのとき、金を貸すと提案した自分を、いまさらながら恥ずかしく思う。
「ごめんね、本当はファミレスとかでもいいかなって思ったんだけど」
ダイニングに通された藤丸の前に朔が置いたのは、ビーフシチューと、冷蔵庫からいましがた取り出してきたプライベートブランドのオレンジジュースだった。
「いえ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「そんなかしこまらなくていいから! ほら、有も座って」
藤丸の隣に千代田が座り、千代田の前には朔が腰を下ろした。三人で手を合わせて、食卓を囲む。
いいなぁ、と思った。
藤丸の家のダイニングテーブルは、郵便物や調味料が広げられている。姉二人が家を出てからというもの、狭いダイニングに所狭しと設置された六人掛けのダイニングテーブルはお役御免となったのだ。帰宅時間がバラバラのため、家族で食卓を囲むこともない。家という空間の中で、誰かと食事を取るのはかなり久しいことだった。千代田の家では、それは日常なのだろう。千代田と、朔と、両親と。学校でひとりでも何食わぬ表情で過ごしているのは、きちんと帰る場所があるからで、その場所で千代田の帰りを待ってくれている人がいるからだったのか。
食事を終えると、片づけられた皿の代わりに、朔が会社でもらってきたという菓子類を広げた。そして、いよいよ本題に入るのか、千代田が背筋を伸ばして『怪談現代』の雑誌と、これまでに集めた資料、椚見哲平のスマホを差し出す。あらかじめおおまかな内容は聞いていたのか、朔は何を言うでもなく、それらに目を通しはじめた。時折、補足説明を入れる千代田に、朔は顎に手を置きながら「うん」とか「なるほど」と明確な相槌を打ちながら、耳を傾けている。
「自分たちでいろいろ調べてやってみたんだけど、どうにもうまくいきそうになくて……もし出来たらでいいから、この雑誌に携わってる編集の人とかに会えたりしないかな」
「うーん……」
先ほどまでの返事とは打って変わり、お茶を濁すように唸り上げると、腕を組んで椅子の背もたれに身を任せた。
なるほど、千代田は出版社の営業部で働く兄の伝手で、実際に雑誌編集者に繋げてもらおうという魂胆か。そしてそのまま、読者ページに投稿した主を辿り、話を聞き出すつもりだろう。
なぜ、最初からそうしなかったのか――疑問を抱かざるをえない。藤丸を巻き込むことなく、もっと円滑に調査を進めることができる環境にあったはずなのに。
「やってみることには、やってみる」
しばらく黙り込んでいた朔が、渋々と言った様子で頷いて見せた。
「ただ、これだけはわかっててほしいんだけど、出版社ってのはちょっと特殊で……部署が異なれば、住んでる島はまるっきり違うってことになる。俺も正直、直接的な知り合いはいない。同期で何人か雑誌部門に引き抜かれた人間はいるけど、もう五年はまともに顔も合わせてないんだ」
あまり期待はするな、ということを言いたのだろうが、それでも協力してくれるということに藤丸は驚いていた。
「ありがとう、兄貴」
「礼を言うにはまだ早いだろ~。その代わり、今日の晩飯の買い出しは有に任せる」
「げっ、マジか」
「マジだよ」
千代田が立ち上がる。そのまま玄関へと向かっていったため、藤丸を慌てて追いかけた。
「ちょっと行ってくるわ」
「え、いま行くの?」
「うん。あとでってなると面倒だから」
玄関横の壁にぶら下がっているエコバッグを手に、千代田は靴に足を引っかける。
「それなら、俺もこのタイミングで帰るよ」
「もう少しゆっくりしてっていいよ」
「でも、あまり長居すると……ほら、ご両親にも迷惑だろ」
靴を履き終えた千代田が、一瞬動きを止めた。急に体調でも悪くなったかと顔を覗き込もうとすれば、すぐに顔を上げる。あまりの近さに驚いて、距離を取るように少し仰け反った。
「部活終わりで疲れてんだろ。気にしなくていいから、もうちょい休んでけよ」
「でも……」
「藤丸くん」後ろから、朔が穏やかな表情でやってくる。「本当に大丈夫だから、もう少しいてくれないかな?」
「えっ」
「有も、もう少し藤丸くんといたいんだろ?」
眉を上げ、うっすらと笑みを浮かべた朔から出た言葉に、藤丸は驚いて千代田を振り返った。ばっちりと目が合い、なんだか照れ臭くなって藤丸のほうから目を逸らす。
「まあ、すぐ戻るから」
じゃ行ってっきます、と玄関を出ていく千代田を見送って、藤丸は朔とともにダイニングへと踵を返した。
「あいつ、マジで藤丸くんになーんも話してないのなぁ」
ふたたび椅子に腰を下ろした朔が、意味ありげに呟く。
千代田の兄と二人きりのこの状況をどう乗り越えるかということで頭がいっぱいだった藤丸は、会話の糸口となるその呟きに「どういうことですか」と食いつく。
「あの、全然気にしなくていいんだけど、うちの家、両親いないんだ」
「えっ」
「母はもう十年も前に病気で、父は四年前に……まぁちょっと、いろいろあって」
病気で、とか、事故で、と明言しないということは、きっそそういうことなんだろう、と勝手に解釈する。そんな話はしたことがないから、もちろん知らなかった。知らなかったにせよ、両親がいるのが当たり前と思い込んで、不用意な発言をしてしまったことは謝らなければいけない。
「すみません。事情も知らずに……」
「いいのいいの。本当に、気にしないで。あいつが何も言わなすぎなのが悪いから、謝るとしたらこっちだよ」
はぁ、と息をついた朔は、一呼吸おいてからまた口を開く。
「それに、このこと知らなかったってことは、あいつがこの件に固執してる理由も知らされてないってこと、だよね?」
「……ただの好奇心からだと思っていたんですけど、違うんですか?」
呆れたように仰け反った朔は、もう一度、先ほどよりも深く長いため息をついた。
「あいつ、友達になんも言わずにこんなことに付き合わせて……」
額に手を当て、やれやれと言った様子だ。
藤丸には、何のことかさっぱりだった。
ただ、これではっきりとしたことがわかった。
「お兄さん、ごめんなさい」
「いや、本当に謝らないで。これはもう完全に有が悪くて――」
「あの、そうじゃなくて」
「ん?」
「……俺、千代田の、有くんの友達なんかじゃないです」
なんとか絞り出した言葉に、なぜか胸を抉られたような痛みを感じる。
「だからその、知らなくて当然なんです。俺はただ、頼まれたから一緒に調査をしてるってだけで……」
言葉が詰まった。
友達じゃない。
その言葉を二度も口にできるほど、藤丸の心は頑丈ではない。
そんな藤丸の心中を慮ってか、朔のほうが「ごめんね」と話を引きとった。
「あいつ不器用だから、藤丸くんのこと不安にさせちゃってるよね」
どう返せばいいかわからずに、膝の上に手を置いたまま、テーブルの上の傷に焦点を合わせる。
「大切なものを亡くしたときの喪失感を、あいつは早い段階で知っちゃったもんだから……特定の誰かと、深く関係を築くようなことは本当に久しぶりなんだ」
「……そうなんですね」
「だから今日、藤丸くんが家に来てくれて、俺ほんっとうに嬉しかったんだ。ありがとね」
礼を言われるほど、千代田に何かしてやれているわけではない。調査という理由で、こうして夏休み期間中にも顔を合わせているだけだ。藤丸たちを繋ぎとめているキモミ先輩という存在がなくなれば、きっとこの関係も自然消滅するだろう。
それはなんだか、少しだけ寂しい気もする。
できれば、他にどんなバンドが好きなのか、フェスにはどれくらいの頻度で行くのか、とか。そんな、他愛もない明るい話もしてみたい。
もちろん、千代田にその気があれば、の話だが――。
「お兄さん、俺……」
「うん」
「俺、有くんとちゃんと友達になりたいです。本当はこの調査ほっぽり出して、高校生活一年目の夏を楽しく過ごしたい気持ちもあるけど……この件にこだわっている理由があるなら、俺はそれに気づかないふりして、あいつにとことん付き合おうと思います。俺になら話してもいいって、有くんが思ってくれるまで待ちます」
言葉の節々で優しく頷いてくれる朔に、藤丸は千代田とはまた別の安心感を抱いていた。最後まで遮ることなく藤丸の話を聞き終えた朔は、左頬にえくぼを作って微笑む。
「きっと思うよ。兄貴の俺が保証する」



