「えっ、あうえ」
授業開始五分前、言葉になっていないただの音が、藤丸草太の口から放たれた。
咄嗟に手で口を押え、あたりを見渡す。見渡して、ほっと胸をなでおろした。そして、すぐに羞恥に襲われる。思いがけずおかしなことになってしまったとき、笑ってくれる人間がいたほうが恥ずかしくない。そう、痛感した。そしてその羞恥は、わずかばかりの苛立ちへと変換され、元凶である目の前の彼に向く。
「持ってるけど……」
見えていないのだろうか――と、純粋に疑問を抱いた。
藤丸は机の上に置いてあるスマホと、それに繋げた大手メーカーのモバイルバッテリーへ、さりげなく視線を落とす。そしてまた、ちらりと彼に視線を戻した。
千代田有は、変わらずポーカーフェイスを貫いている。しらばくれているのか、それとも天然なのか、彼と懇意にしているわけではない藤丸には見極めることが難しい。
――いや、少なくともこのクラスで千代田のことをよく知る人物はいないだろう。誰かと一緒にいるところすら見たことがない。
そんな男から突然「モバ充持ってる?」と声を掛けられた。思いもよらぬ相手からのコンタクトに「えっ、あうえ」と、藤丸。高校入学から三か月、初めての会話がそれだ。こんな気まずい空気を味わうくらいなら、祐樹たちの連れションに着いていけばよかった。
それにしても、いままさにスマホを充電中の人間に対して、よく聞けたものだ。
聞くにしても「貸してくれない?」だろ。「持ってる?」ではない、断じて。
そんな思いを嚥下し、藤丸は自分のスマホから充電器を抜いた。愛想のよさそうな笑みを貼り付けて「はい」と、差し出す。千代田は、まるでそれが当たり前だと言わんばかりの無表情で「ありがとう」と受け取った。
クラス内には、図らずもカーストというものが存在する。祐樹たちと一緒に行動する藤丸は、ぎりぎり一軍といったところだ。しかし千代田は、二軍でも三軍でも、四軍でもない。カースト圏外。ただ、この教室にいるだけ。損もなければ害もない。
まったく喋らないというわけではないのだな、と藤丸は今日初めて知った。
ふと、千代田の手に握られていたスマホが目に入る。新機種のスマホより一回り小さく、本体が厚めだ。
「だいぶ古いの使ってんだな」
「十世代以上前だと思う」
思わず失笑してしまう。どれだけ前の機種を使っているんだ。
「千代田って、物持ちいいんだ」
「え」
「いやだって、十年以上も前の機種でしょそれ」
「そうだろうけど、俺のじゃないよ」
「……はっ?」
藤丸は口をぽかんと開けたまま、千代田と古いスマホを交互に見る。
頭の整理が追い付かないままでいると、まだ主が戻ってきていない藤丸の前の席の椅子に、千代田が「よっ」と腰を下ろした。椅子の背もたれに肘をつくと、細い手先でスマホを持ち替えたり弄んだりしながら、千代田は少し口角を上げて「拾ったんだよ」と、言った。
「どこで」
「図書室」
「の、どこ」
「参考図書の棚の一番下。分厚い事典の裏に隠れてた」
「へえ」
適当に相槌は打ってみたものの、ぴんと来ていない。まだ授業ですら使ったことのない図書室は、入学直後のオリエンテーションで流し見した程度だった。どこに何の棚があるなど、いままで気にしたこともない。
差し出されたスマホを手にしてみる。ひんやりと冷たく、少し埃っぽい。片手に収まってしまうサイズには、心許なさを覚えた。
それにしても、なんでこんなものが図書室に置いてあったのだろう。棚の裏に隠れていたということは、誰かが意図的に隠したとしか思えない。そして、なぜそんなものを充電しようとしているのか、藤丸には千代田の思考がさっぱり読めなかった。
「あのさ――」
目的を聞き出そうとしたところで、視界の端に祐樹たちが映る。その集団の中には、千代田が座っている席の主もいた。
藤丸は、前のめりになっていた体を戻す。手の中にあった冷たいそれを千代田に返し、机の中から次の時間の教科書を出した。千代田も祐樹たちに気づくと、さっと腰を上げて「借りてくわ」とだけ言い残すと、教室中央の自席へと戻っていった。
「あいつ喋んだ」
千代田の背中を見送った後、唖然とした表情で戻ってきたテルが呟いた。藤丸の後ろの席に着いた祐樹が「そりゃ喋んだろ」と、すかさずツッコミを入れる。
直後、頬がぴしゃりと濡れた。
藤丸は打たれたように振り返る。その先に、いたずらっ子のような笑みを浮かべた祐樹がいた。
「びっくりしたぁ」
「わりわり。ハンカチかと思った」
そんなわけないだろう、と藤丸は思う。特に面白い返しができるわけでもなく、曖昧に微笑む。
祐樹たちといるのは楽しい。でもたまに、わけのわからないノリに飲まれ、溺れそうになる。
「何話してたんだよ」
「いや、別に。なんかモバ充貸してほしいって言われて」
もうすぐ授業が始まるというのに、ヘッドホンをつけ始めた千代田が視界に映った。あれも、天然ゆえの行動なのだろうか。
「草太、千代田と仲良かったっけ」
首を横に振る。
廊下から、教師の伸びやかな声に押された生徒たちが教室へと戻ってきた。



