キモミ先輩


「じゃあ行ってくるからね」

 扉越しに母の声が聞こえると、藤丸は手の動きを止め、口に泡が入ったままの状態で喉を鳴らした。それから間もなく鍵ががちゃりと開けられる音がして、錆びた音を出しながら開かれた扉から、微かに子どもたちの騒ぎ声と、長い眠りから目を覚ましたばかりのミンミンゼミとアブラゼミによる混声合唱が入り込んでくる。その音がフェードアウトすると、今度は鍵が閉められる音がして、そのすぐ後に、鍵がかかったかの確認でドンッ、と扉が一度引かれた。パタパタと、早足で足音が遠のいていくところまで見届けて、藤丸はようやく手を動かす。

 いつも何かに追われるようにして生きている母に育てられたおかげというべきが、せいというべきか、リビングで歯を磨いていてもとやかく言われたためしは一度もない。注意されることとすれば、ご飯を食べながらスマホをいじっているときくらいだ。それも「お行儀が悪い」とかではなく、「食事は味覚や嗅覚だけじゃなくて、視覚も加わるとさらにうまみが増すのよ。そしたら満腹感も得られるから」ということらしい。なんとも貧乏くさい考えではあるのだが、実際、藤丸の家は裕福とは言えない。
 無心で歯を磨いていると、知らず知らずのうちに口の中が泡でいっぱいになった。
 洗面所に向かい、すんでのところでぺっと泡を吐くと、洗面台の水垢が目に入る。ついこの間、これに気づいて激落ちくんで擦ったばかりなのだが、もう顔を出した。

「はぁ……」

 藤丸は洗面台の下からストックしてある激落ちくんを取り出し、水を流しながら目いっぱいの力で擦った。

 こういうのは、気づいた人がやる。

 小さいころから、耳にタコができるほど聞かされた両親の言葉が頭によぎる。

 物流仲介を担う中小企業で勤続二十七年、万年係長の父と、精肉コーナーのパートタイムで働く母、ちょっと強気な姉二人という家庭に、藤丸草太は生まれ落ちた。すでに成人を迎えた姉二人は独り立ちをしているが、まだ子どもが三人揃っていたときは、かなり苦労したに違いない。姉二人は、都立の商業高校に進学し、卒業と同時に就職した。藤丸自身も、工業か商業に進もうとしていたのだが、上の二人が大学に進学しなかったことにより、かなり学費貯金が余っているとのことだった。高卒の父も「金があるなら男は大学に行った方がいい」と妙に説得力があることを言っていたので、藤丸はお言葉に甘えることにした。
 しかし、高校受験は手に汗をにぎる思いで臨んだ。大学進学の約束は、私立の滑り止めと引き換え条件だったのだ。自分の内申点で推薦が取れそうな偏差値の低い高校を選ばざるをえなくなり、そこに入学できたはいいものの、いわゆる「いい大学」に挑戦できるほどの学力が育まれるかは怪しいところなのだ。

 この家には、藤丸が生まれたときから住んでいる。十五年も経てば、汚れやすくなるのも無理はない。そうはわかっていても、家中に散見される傷や汚れがどうしても目についてしまう。
 姉二人が、結婚の予定もないのにそそくさと実家を出た理由が、いまになってやっとわかった気がした。こういうのに気づく人が、家から減ってしまったからだろう。
 あまり気分が乗らず、洗面所を出た足でそのまま自室のベッドに倒れこんだ。スマホの画面には、夏休み前にLINEを交換した千代田からのメッセージが表示されている。

〈起きてる?〉

〈十時に曳舟で〉

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このまま、寝坊したことにしてドタキャンでもするか。

 昨日、一学期の終業式があり、今日から待ちに待った夏休みだ。本格的な夏のスタートを切るこの日に、さして親しいわけでもないクラスメイトと、実態不明のオカルト調査だなんてパッとしない。
 スマホの時刻は、八時半を示している。十時に曳舟駅につくには、そろそろ着替えて出なければいけないのだが、いまだに天使と悪魔が頭の中で囁き合っていた。

 ――仕方ない。断れず、曖昧な返事ばかりをしていた自分にも責任がある。

「行くかあぁ」

 声に後押しされるかたちで、ベッドから起き上がった。大きく伸びをして、クローゼットに手を掛けようとした瞬間、手の中のスマホがブブッと震えた。

 新着メッセージが一件。
 送信者の名前は、松谷祐樹。

〈そうたー〉

〈今日ヒマ?〉

〈部活終わった後、近くの公園で水風船やるけど来る?〉