高速道路に乗り、高層ビル群の景色が次第に山並みへと変わっていく。
車内は暖房がしっかりと効いており、静かなBGMが流れる平和な空間だった。しかし、運転席の空気だけは異様に張り詰めていた。
「……先生、肩に力入りすぎじゃない?」
助手席からジュースを飲みながらからかうコウの視線の先で、純太は背筋をピンと伸ばし、ハンドルの「10時10分」の位置を親の仇のように強く握りしめていた。視線は一寸の狂いもなく前方を凝視している。
「話しかけないでください、コウ君。今は車線変更という、極めて高度で命がけのミッションの最中なんですから……っ」
「いや、車線変更くらいで命がけって。後ろ全然車来てないから大丈夫だってば」
「油断は禁物です! もし君に何かあったら、僕は一生自分を許せませんから……!」
ガチガチに緊張しながらも、その理由は「コウを安全に送り届けるため」という生真面目な愛情ゆえなのだ。コウは思わず吹き出しそうになるのをこらえ、「はいはい、頼もしいね」と苦笑しながら窓の外へ視線を移した。
東京の青空は、県境の長いトンネルを抜ける頃には、どんよりとした鉛色の空へと変わり、景色は一気に一面の銀世界へと変貌を遂げていた。
フロントガラスに、白い雪が舞い落ちてくる。
「……雪だ」
コウがぽつりと呟いた。
あの村にいた頃、雪は「絶望」と「孤独」の象徴だった。外へ逃げる道を塞ぎ、純太の体温を奪い、村人たちの異常な信仰心を煽る恐ろしいもの。
だが、今の二人は違う。暖かい車内から見る雪景色は、ただ純粋に美しく、どこか幻想的ですらあった。結界に閉じ込められていたわけではなく、自分たちの意志でこの雪国へやってきたという事実が、コウの胸を静かな高揚感で満たしていく。
ふと、視線を運転席に戻す。
真剣な眼差しで前方を見据える純太の横顔。
普段はちょっとどんくさくて、いじるとすぐに真っ赤になって慌てふためく不器用な恋人。けれど、こうしてハンドルを握り、自分のために安全確認を怠らないその横顔のラインは、息を呑むほど整っていて、確かな「大人の男」の余裕と頼もしさを醸し出していた。
(……やっぱ、先生って大人なんだよな)
村で一緒にいた時は、教育実習生と高校生という立場こそあれど、どこか同じ呪いに立ち向かう「共犯者」のような、対等な関係だった気がする。
でも、東京に出てきて、こうして彼が運転する車の助手席に乗せられていると、純太が自分よりも年上の、自立した一人の男性なのだという事実を嫌でも突きつけられる。
「……どうかしましたか? 僕の顔に何かついていますか?」
視線に気づいた純太が、前を見たまま少し不思議そうに尋ねてきた。
「んーん。なんでもない」
コウは少しだけ早くなった心鐘をごまかすように、シートに深く背中を預けた。
「ただ、先生の運転姿、すっげーかっこいいなって思って」
「なっ……! き、急に変なこと言わないでください! ハンドル操作を誤るところでしたよ!」
予想通り、純太は耳の先まで真っ赤にして狼狽え始めた。さっきまでの大人の余裕はどこへやら、一瞬でいつもの「ポンコツで可愛い先生」に戻ってしまう。
「あはは! ごめんごめん」
コウは窓の外の雪景色を眺めながら、心底楽しそうに笑い声を上げた。
死人のように冷たかった純太の頬が、自分の言葉一つで赤く染まり、温かな血を巡らせる。暖房の効いた車内で、二人の笑い声が溶け合う。
あの地獄のような冬を乗り越え、自分たちの足で掴み取った「当たり前の平和な冬」が、そこには確かに存在していた。
「あと一時間ほどで、目的地の温泉宿に着きますからね。……楽しみに待っていてください」
「うん。楽しみにしてる」
純太の優しく温かい声に包まれながら、コウはこれから始まる二人だけの年越し旅行への期待に、静かに胸を弾ませていた。
