あの狂気に満ちた雪の村での事件は、『山間部の集落における、元学校長による大規模な洗脳事件』として、連日テレビのニュースを騒がせていた。
事態の全容を知って青ざめたコウの母親は、「おばあちゃんたちが正気を取り戻して落ち着くまで、とりあえず12月の間はずっと東京に避難していなさい」と、仕事で海外へ戻る前にウィークリーマンションの契約を長めに延長してくれた。
しかし――。
「……コウ君。君、せっかくお母さんが借りてくれたマンションがあるのに、どうして毎日僕の家に入り浸っているんですか」
「えー? だってあっち、一人でいても広くて寂しいし。先生と一緒にいる方が勉強捗るからさ」
コウは悪びれる様子もなく、純太のアパートの狭いこたつでノートを広げながらヘラヘラと笑った。
村の恐ろしい因習から完全に解放されたコウは今、純太と同じ東京の大学に通うという目標に向けて、遅れを取り戻すように再び猛烈に受験勉強に力を入れ始めていた。
「ほら先生、ここの英語の長文、訳し方わかんない。教えて」
「まったく……。ここは関係代名詞が省略されていて、後ろの文章がこの単語に掛かっているんです。だから……」
純太が呆れながらも身を乗り出し、ペン先で教科書を指し示そうとした、その時。
チュッ。
「……っ!?」
解説のために顔を近づけた純太の頬に、コウがすかさずキスを落とした。
「なっ……! 君ねえ、真面目に勉強するって言ったそばから……!」
「いや、先生からめちゃくちゃいい匂いするから、つい。で、続きは?」
「……本当に、調子がいいんですから」
からかうようなコウの笑顔に、純太は耳まで真っ赤にして抗議するが、その声に本気の怒りは微塵も含まれていなかった。
暖房の効いた部屋。足元を温めるこたつ。
窓の外には冷たい冬の風が吹いているが、純太の体には今、生きた人間としての確かな血が巡り、コウと触れ合うたびに柔らかな熱を帯びていく。
不意にキスをされて熱くなった頬に触れながら、純太はふと、目の前で再びペンを走らせ始めたコウの横顔を静かに見つめた。
あんなに恐ろしく、永遠に続くと思っていた絶望の冬が嘘のようだ。
春になれば忘れられてしまう幽霊のような存在ではなく、こうして温かい部屋で、好きな人と他愛のないことで笑い合い、来年の春の計画を立てることができる。
その「当たり前の平和な日常」が戻ってきたことが、純太にとっては息を呑むほど愛おしく、幸せだった。
「……コウ君」
「ん? どうしたの、先生。俺の顔になんかついてる?」
純太はペンを置き、姿勢を正すと、真剣な眼差しでコウを見つめた。
「改めて、言わせてください。僕をあの冬から救い出してくれて……本当に、ありがとう」
「えっ。なんだよ急に、改まって」
「どうしても、君にきちんとお礼がしたくて。……僕にできることならなんでもします。コウ君の願いを、何か一つ叶えさせてくれませんか」
あまりにも真っ直ぐで、生真面目な純太の申し出。
コウは目を丸くして少し驚いた顔をしたが、やがて、その口元に優しく、そして年相応の少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべた。
「俺の願い……。じゃあさ、先生」
コウはシャーペンをコトリと置き、純太の温かくなった手をそっと握りしめた。
「今年のクリスマス、俺と一緒に過ごしてよ。」
コウの真っ直ぐな言葉に、純太の目が少しだけ丸くなった。
「クリスマス……」
純太はゆっくりとその言葉を反芻した。
この5年間、純太にとって『冬のイベント』など、寒さと孤独を強調するだけの残酷な飾りに過ぎなかった。
しかし、今は違う。
純太の体に巡る温かい血が、コウに握られた手からじんわりと伝わってくる。
「……はい。もちろん、僕でよければ」
純太はふっと柔らかく微笑み、コウの手をギュッと握り返した。
その顔は、ただ嬉しいと喜ぶだけでなく、どこか決意に満ちた真剣な表情を帯びていた。
「でも、コウ君。そのお願い、少しだけ条件をつけさせてください」
「条件?」
「ええ」
純太はこたつからスッと背筋を伸ばし、かつて教育実習生として教壇に立っていた時のように、ほんの少しだけ大人びた――それでいて、どこか必死さが透けて見える声で言った。
「当日のプランは、すべて僕に任せてくれませんか。……君からのお願いですが、僕にとっては君へのお礼の場でもあります。それに、これでも僕の方が年上ですから……クリスマスくらい、君をきちんとエスコートさせてほしいんです」
普段はコウのペースに振り回されがちな純太からの、思いがけず強気な、そして生真面目すぎる申し出。
コウはポカンと口を開けた後、堪えきれないように「ぷっ」と吹き出した。
「あははっ! なにそれ、先生、めっちゃ気合い入ってんじゃん」
「わ、笑わないでください! 僕は真剣に言っているんです。コウ君を絶対に喜ばせるような、完璧な1日をプレゼントしますから」
「わかった、わかったよ」
コウは笑い涙を拭いながら、純太の熱を帯びた手首を指先でそっと撫でた。
「じゃあ、全部先生にお任せする。……すっげー楽しみにしてるからな」
期待に満ちた目で笑うコウを前に、純太は「任せてください」と力強く頷いた。
しかし、その実、純太の内心は滝のような冷や汗で溢れかえっていた。
(ど、どうしよう……! 勢いで言ってしまったけれど、恋人同士のクリスマスデートのプランなんて、全く見当がつかない……!!)
事態の全容を知って青ざめたコウの母親は、「おばあちゃんたちが正気を取り戻して落ち着くまで、とりあえず12月の間はずっと東京に避難していなさい」と、仕事で海外へ戻る前にウィークリーマンションの契約を長めに延長してくれた。
しかし――。
「……コウ君。君、せっかくお母さんが借りてくれたマンションがあるのに、どうして毎日僕の家に入り浸っているんですか」
「えー? だってあっち、一人でいても広くて寂しいし。先生と一緒にいる方が勉強捗るからさ」
コウは悪びれる様子もなく、純太のアパートの狭いこたつでノートを広げながらヘラヘラと笑った。
村の恐ろしい因習から完全に解放されたコウは今、純太と同じ東京の大学に通うという目標に向けて、遅れを取り戻すように再び猛烈に受験勉強に力を入れ始めていた。
「ほら先生、ここの英語の長文、訳し方わかんない。教えて」
「まったく……。ここは関係代名詞が省略されていて、後ろの文章がこの単語に掛かっているんです。だから……」
純太が呆れながらも身を乗り出し、ペン先で教科書を指し示そうとした、その時。
チュッ。
「……っ!?」
解説のために顔を近づけた純太の頬に、コウがすかさずキスを落とした。
「なっ……! 君ねえ、真面目に勉強するって言ったそばから……!」
「いや、先生からめちゃくちゃいい匂いするから、つい。で、続きは?」
「……本当に、調子がいいんですから」
からかうようなコウの笑顔に、純太は耳まで真っ赤にして抗議するが、その声に本気の怒りは微塵も含まれていなかった。
暖房の効いた部屋。足元を温めるこたつ。
窓の外には冷たい冬の風が吹いているが、純太の体には今、生きた人間としての確かな血が巡り、コウと触れ合うたびに柔らかな熱を帯びていく。
不意にキスをされて熱くなった頬に触れながら、純太はふと、目の前で再びペンを走らせ始めたコウの横顔を静かに見つめた。
あんなに恐ろしく、永遠に続くと思っていた絶望の冬が嘘のようだ。
春になれば忘れられてしまう幽霊のような存在ではなく、こうして温かい部屋で、好きな人と他愛のないことで笑い合い、来年の春の計画を立てることができる。
その「当たり前の平和な日常」が戻ってきたことが、純太にとっては息を呑むほど愛おしく、幸せだった。
「……コウ君」
「ん? どうしたの、先生。俺の顔になんかついてる?」
純太はペンを置き、姿勢を正すと、真剣な眼差しでコウを見つめた。
「改めて、言わせてください。僕をあの冬から救い出してくれて……本当に、ありがとう」
「えっ。なんだよ急に、改まって」
「どうしても、君にきちんとお礼がしたくて。……僕にできることならなんでもします。コウ君の願いを、何か一つ叶えさせてくれませんか」
あまりにも真っ直ぐで、生真面目な純太の申し出。
コウは目を丸くして少し驚いた顔をしたが、やがて、その口元に優しく、そして年相応の少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべた。
「俺の願い……。じゃあさ、先生」
コウはシャーペンをコトリと置き、純太の温かくなった手をそっと握りしめた。
「今年のクリスマス、俺と一緒に過ごしてよ。」
コウの真っ直ぐな言葉に、純太の目が少しだけ丸くなった。
「クリスマス……」
純太はゆっくりとその言葉を反芻した。
この5年間、純太にとって『冬のイベント』など、寒さと孤独を強調するだけの残酷な飾りに過ぎなかった。
しかし、今は違う。
純太の体に巡る温かい血が、コウに握られた手からじんわりと伝わってくる。
「……はい。もちろん、僕でよければ」
純太はふっと柔らかく微笑み、コウの手をギュッと握り返した。
その顔は、ただ嬉しいと喜ぶだけでなく、どこか決意に満ちた真剣な表情を帯びていた。
「でも、コウ君。そのお願い、少しだけ条件をつけさせてください」
「条件?」
「ええ」
純太はこたつからスッと背筋を伸ばし、かつて教育実習生として教壇に立っていた時のように、ほんの少しだけ大人びた――それでいて、どこか必死さが透けて見える声で言った。
「当日のプランは、すべて僕に任せてくれませんか。……君からのお願いですが、僕にとっては君へのお礼の場でもあります。それに、これでも僕の方が年上ですから……クリスマスくらい、君をきちんとエスコートさせてほしいんです」
普段はコウのペースに振り回されがちな純太からの、思いがけず強気な、そして生真面目すぎる申し出。
コウはポカンと口を開けた後、堪えきれないように「ぷっ」と吹き出した。
「あははっ! なにそれ、先生、めっちゃ気合い入ってんじゃん」
「わ、笑わないでください! 僕は真剣に言っているんです。コウ君を絶対に喜ばせるような、完璧な1日をプレゼントしますから」
「わかった、わかったよ」
コウは笑い涙を拭いながら、純太の熱を帯びた手首を指先でそっと撫でた。
「じゃあ、全部先生にお任せする。……すっげー楽しみにしてるからな」
期待に満ちた目で笑うコウを前に、純太は「任せてください」と力強く頷いた。
しかし、その実、純太の内心は滝のような冷や汗で溢れかえっていた。
(ど、どうしよう……! 勢いで言ってしまったけれど、恋人同士のクリスマスデートのプランなんて、全く見当がつかない……!!)
