そんな純太とコウが偶然言葉を交わしたのは、身を切るような底冷えのする、ある休日の夕暮れ時のこと。
純太が仮住まいしている古いあばら家の軒先で、すっかり冷たくなった洗濯物を取り込もうとしていた時のことだ。ふと顔を上げると、家の前を見覚えのある人影が通り過ぎていく。日が落ちて薄暗くなり始めた道端で、ぽつりと点灯した古い街灯が、オレンジ色の頼りない光を凍てついたアスファルトの上に落としていた。
その光の下を、マフラーに深く顔を埋めたコウが歩いていた。足取りは重く、どこへ向かうでもなく、ただふらふらと所在なさげに歩みを進めている。街灯の暖かな光に照らされて浮かび上がったその背中は、教室で見せる刺々しさとは裏腹に、ひどく小さく、孤独に見えた。
深入りしてはいけない、と自分に言い聞かせた。
どうせ数週間も経てば、自分はこの教室からも、彼らの記憶からも消える存在だ。生徒たちとは一定の距離を保ち、無害な傍観者として過ごすのが、この村に縛られた自分にとっても、これからを生きる彼らにとっても、最善の選択だと決めていたはずだった。
しかし、雪の夜の静寂に溶け込んでしまいそうな、そのあまりに脆い背中を見つめているうちに、気づけば、抑えていたはずの言葉が口をついて出ていた。
「コウ君? 家、この辺りなんですか?」
純太が抱えていた洗濯物を片手に声をかけると、コウはビクッと肩を揺らし、バツが悪そうに視線を逸らした。
「いや……なんか、家居づらくて。三時間くらい適当に歩いてたら、迷子になっちゃいました」
コウは強がるように肩をすくめて見せたが、その鼻の頭は寒さで赤く染まり、マフラーの隙間から漏れる吐息は白く震えていた。指定の薄いコートだけでは、この村の刺すような寒風は到底しのげない。
小刻みに体を震わせるその姿は、ただ心細さを抱えきれなくなった子供のように見えた。
「この寒さの中で三時間も……? 」
純太は思わず眉を下げる。不慣れな村の夜道をこのまま一人で歩かせるわけにも、かといって、居づらいと言う家に今すぐ帰れと突き放すわけにもいかなかった。
少しだけ迷った後、純太は手元の洗濯物を抱え直しながら、自身の背後にある古い玄関の引き戸に手をかけ、ガラリと開けた。
「散らかってますけど、少しだけ温まっていきませんか。」
「え……でも、悪いですよ。それに……」
遠慮して寒空の下に立ち尽くすコウは、純太の背後にある傾きかけた古びた家をじっと見て、遠慮のない言葉をこぼした。
「この家、むしろ中にいる方が凍えそうなくらいボロいっすよ」
「失礼ですね。これでもちゃんとストーブは焚いてあるから大丈夫ですよ」
純太は困ったように苦笑し、「凍える生徒を見捨てるわけにはいきませんから」と手招きをした。その押し付けがましくない穏やかな声に促されるように、コウは小さく「お邪魔します」と呟き、純太の家へと足を踏み入れた。
ガラリと引き戸を閉めると、容赦なく吹き付けていた寒風が遮断された。
室内は外観の通り年季が入っており、一歩足を踏み出すたびに床板がミシッと頼りない音を立てる。決して広くはない六畳ほどの和室では、部屋の中央に鎮座する古い石油ストーブだけが、オレンジ色の炎をチロチロと揺らし、確かな熱を放っている。そのじんわりとした暖かさに、コウは思わず強張っていた肩をホッと下ろした。
「何もないところですが……せっかくなので、僕の得意料理をご馳走しますよ」
ストーブでさらに部屋を暖めながら、純太が自信満々にテーブルへコトリと置いたのは、お湯を注いだだけのカップラーメンだった。
「……お湯入れただけで得意料理って、マジかよ」
呆れ顔でツッコミを入れるコウだったが、その割り箸を割る手はどこか急いでいた。
ズルズルと麺を啜り、スープを一口飲んだ瞬間、コウの肩の力が完全に抜けた。祖母が毎日作る料理が全く口に合わず、ここ数日まともな食事をとれていなかったコウにとって、ジャンクなカップラーメンの味はひどく身に沁みたのだ。
「……美味いです。すげー美味い」
湯気を立てるカップを両手で包み込みながら、コウはぽつり、ぽつりと胸の内を話し始めた。
父親を亡くして、東京からこの村へ引っ越してきたこと。
母はコウの学費を稼ぐために海外赴任を断れず、結果的に父方の祖父母に引き取られることになったこと。
「でも、じいちゃんは昔、村を捨てて東京に出た親父のことがずっと気に入らないみたいで……顔を合わせるたびに親父の悪口言われて、言い合いになっちゃうんです。ばあちゃんも認知症気味で、全然話が通じないし……」
「……そうでしたか」
「家にいても、息が詰まるっていうか……俺、ここに居場所なんてないんだなって」
誰にも言えなかった心細さと、東京を離れた寂しさ。気難しそうな態度の裏に隠されていた、等身大の孤独。
純太は何も否定せず、安いカップラーメンをすする少年の言葉に急かすこともなく、ただ優しく頷きながら耳を傾けていた。
「……実は僕も、ここに来る少し前に、両親を亡くしているんです」
純太は、自分のカップから立ち上る湯気をじっと見つめながら、静かに口を開いた。
「え……」
麺を啜る手を止め、コウが驚いたように顔を上げる。
「突然のことで、世界に一人きりになったような……足元がすっぽり抜けてしまったような感覚は、今でも忘れられません。誰もいない家の中で、ただ時計の音だけを聞いていると、自分がこのまま消えてしまうんじゃないかと怖くなる時がありました」
純太は自嘲気味に微笑み、ストーブに当たっている自分の白い手をそっと見つめた。
「だから、コウ君の心細さは少しだけ分かる気がします。特にこの村は、雪だけじゃなく空気まで重くて、まるで村全体が大きな箱のように僕たちを閉じ込めているような気分になりますよね。」
その言葉は、誰かに頼ることを知らずに強がっていたコウの、一番柔らかい場所にスッと入り込んだ。
純太はゆっくりと視線を上げ、真っ直ぐにコウの目を見た。
「ですから、もしまた家が苦しくなったら、いつでもここに来てください。ここには嫌なことを言う家族も、村のしがらみもありません。……ご覧の通り、お出しできるのはカップラーメンくらいしかありませんが。」
純太の穏やかな、けれど確かな響きを持った提案に、コウは小さく鼻を啜り、視線をカップの中へと戻した。
「……カップラーメン、もう一つ食ってもいいっすか」
照れ隠しのようなその言葉に、純太は今日一番の晴れやかな笑顔を見せた。
「ええ、もちろん。今、お湯を沸かし直しますね」
純太が仮住まいしている古いあばら家の軒先で、すっかり冷たくなった洗濯物を取り込もうとしていた時のことだ。ふと顔を上げると、家の前を見覚えのある人影が通り過ぎていく。日が落ちて薄暗くなり始めた道端で、ぽつりと点灯した古い街灯が、オレンジ色の頼りない光を凍てついたアスファルトの上に落としていた。
その光の下を、マフラーに深く顔を埋めたコウが歩いていた。足取りは重く、どこへ向かうでもなく、ただふらふらと所在なさげに歩みを進めている。街灯の暖かな光に照らされて浮かび上がったその背中は、教室で見せる刺々しさとは裏腹に、ひどく小さく、孤独に見えた。
深入りしてはいけない、と自分に言い聞かせた。
どうせ数週間も経てば、自分はこの教室からも、彼らの記憶からも消える存在だ。生徒たちとは一定の距離を保ち、無害な傍観者として過ごすのが、この村に縛られた自分にとっても、これからを生きる彼らにとっても、最善の選択だと決めていたはずだった。
しかし、雪の夜の静寂に溶け込んでしまいそうな、そのあまりに脆い背中を見つめているうちに、気づけば、抑えていたはずの言葉が口をついて出ていた。
「コウ君? 家、この辺りなんですか?」
純太が抱えていた洗濯物を片手に声をかけると、コウはビクッと肩を揺らし、バツが悪そうに視線を逸らした。
「いや……なんか、家居づらくて。三時間くらい適当に歩いてたら、迷子になっちゃいました」
コウは強がるように肩をすくめて見せたが、その鼻の頭は寒さで赤く染まり、マフラーの隙間から漏れる吐息は白く震えていた。指定の薄いコートだけでは、この村の刺すような寒風は到底しのげない。
小刻みに体を震わせるその姿は、ただ心細さを抱えきれなくなった子供のように見えた。
「この寒さの中で三時間も……? 」
純太は思わず眉を下げる。不慣れな村の夜道をこのまま一人で歩かせるわけにも、かといって、居づらいと言う家に今すぐ帰れと突き放すわけにもいかなかった。
少しだけ迷った後、純太は手元の洗濯物を抱え直しながら、自身の背後にある古い玄関の引き戸に手をかけ、ガラリと開けた。
「散らかってますけど、少しだけ温まっていきませんか。」
「え……でも、悪いですよ。それに……」
遠慮して寒空の下に立ち尽くすコウは、純太の背後にある傾きかけた古びた家をじっと見て、遠慮のない言葉をこぼした。
「この家、むしろ中にいる方が凍えそうなくらいボロいっすよ」
「失礼ですね。これでもちゃんとストーブは焚いてあるから大丈夫ですよ」
純太は困ったように苦笑し、「凍える生徒を見捨てるわけにはいきませんから」と手招きをした。その押し付けがましくない穏やかな声に促されるように、コウは小さく「お邪魔します」と呟き、純太の家へと足を踏み入れた。
ガラリと引き戸を閉めると、容赦なく吹き付けていた寒風が遮断された。
室内は外観の通り年季が入っており、一歩足を踏み出すたびに床板がミシッと頼りない音を立てる。決して広くはない六畳ほどの和室では、部屋の中央に鎮座する古い石油ストーブだけが、オレンジ色の炎をチロチロと揺らし、確かな熱を放っている。そのじんわりとした暖かさに、コウは思わず強張っていた肩をホッと下ろした。
「何もないところですが……せっかくなので、僕の得意料理をご馳走しますよ」
ストーブでさらに部屋を暖めながら、純太が自信満々にテーブルへコトリと置いたのは、お湯を注いだだけのカップラーメンだった。
「……お湯入れただけで得意料理って、マジかよ」
呆れ顔でツッコミを入れるコウだったが、その割り箸を割る手はどこか急いでいた。
ズルズルと麺を啜り、スープを一口飲んだ瞬間、コウの肩の力が完全に抜けた。祖母が毎日作る料理が全く口に合わず、ここ数日まともな食事をとれていなかったコウにとって、ジャンクなカップラーメンの味はひどく身に沁みたのだ。
「……美味いです。すげー美味い」
湯気を立てるカップを両手で包み込みながら、コウはぽつり、ぽつりと胸の内を話し始めた。
父親を亡くして、東京からこの村へ引っ越してきたこと。
母はコウの学費を稼ぐために海外赴任を断れず、結果的に父方の祖父母に引き取られることになったこと。
「でも、じいちゃんは昔、村を捨てて東京に出た親父のことがずっと気に入らないみたいで……顔を合わせるたびに親父の悪口言われて、言い合いになっちゃうんです。ばあちゃんも認知症気味で、全然話が通じないし……」
「……そうでしたか」
「家にいても、息が詰まるっていうか……俺、ここに居場所なんてないんだなって」
誰にも言えなかった心細さと、東京を離れた寂しさ。気難しそうな態度の裏に隠されていた、等身大の孤独。
純太は何も否定せず、安いカップラーメンをすする少年の言葉に急かすこともなく、ただ優しく頷きながら耳を傾けていた。
「……実は僕も、ここに来る少し前に、両親を亡くしているんです」
純太は、自分のカップから立ち上る湯気をじっと見つめながら、静かに口を開いた。
「え……」
麺を啜る手を止め、コウが驚いたように顔を上げる。
「突然のことで、世界に一人きりになったような……足元がすっぽり抜けてしまったような感覚は、今でも忘れられません。誰もいない家の中で、ただ時計の音だけを聞いていると、自分がこのまま消えてしまうんじゃないかと怖くなる時がありました」
純太は自嘲気味に微笑み、ストーブに当たっている自分の白い手をそっと見つめた。
「だから、コウ君の心細さは少しだけ分かる気がします。特にこの村は、雪だけじゃなく空気まで重くて、まるで村全体が大きな箱のように僕たちを閉じ込めているような気分になりますよね。」
その言葉は、誰かに頼ることを知らずに強がっていたコウの、一番柔らかい場所にスッと入り込んだ。
純太はゆっくりと視線を上げ、真っ直ぐにコウの目を見た。
「ですから、もしまた家が苦しくなったら、いつでもここに来てください。ここには嫌なことを言う家族も、村のしがらみもありません。……ご覧の通り、お出しできるのはカップラーメンくらいしかありませんが。」
純太の穏やかな、けれど確かな響きを持った提案に、コウは小さく鼻を啜り、視線をカップの中へと戻した。
「……カップラーメン、もう一つ食ってもいいっすか」
照れ隠しのようなその言葉に、純太は今日一番の晴れやかな笑顔を見せた。
「ええ、もちろん。今、お湯を沸かし直しますね」
