2225日後

 ドアが開いた。振り向くと、暖がいた。自分でも驚いたが、暖の姿が目に入った瞬間、ほっとしていた。父親でなかったことに安堵したのだろうが、それにしても、暖がきてうれしいと、一瞬でも思うとは。笑える。
 暖が無言で抱きついてきた。昨日とおなじように強い力だったが、その種類がちがっていた。母親に縋る子どものような無心さがあった。
「暖……」
「終わった」
 おれに言葉を発する隙を与えまいとするかのように、暖はいった。
「あいつはもうおまえになにもできない。おれにも」
 暖がおれの肩口に顔を埋め、言葉が直接骨に響くようだった。
「どういう意味だよ、それ」
「おまえは知らなくていい」
「知らなくていいって、だって……」
 おれは暖の肩に手を張って引き離した。暖の目を見つめ、聞いた。
「おまえ、なにしたの」
「おまえには関係ない」
 暖は表情を変えなかった。体の芯から凍えるような寒気を感じた。
「まさか……殺してないよな?」
「まさか。そんなことするわけない」
「だって……」
 あのときはあの男を車で轢き殺しただろう。言葉に出そうとしたが、音にならなかった。
「とにかく、おまえはもうなにも心配しなくていい。全部解決した」
 暖が早口にいう。もうなにも答えないという強い意思表示だった。
「俊介」
 混乱しているおれの手をつかんで、暖が静かに囁く。
「あいつがきたことは忘れろ。おまえがなにか思うようなことじゃない」
「でも……」
 暖がどんな方法で父親を黙らせたのか。考えずにはいられない。頭のなかを駆け巡る想像はどれも吐き気を催すような陰惨なものばかりだった。
「あの男がどうなっても、それはおまえには関係ない。自分が蒔いた種だ」
 暖の声は冷たかった。暖の父親の声や眼差しに似ていた。
「おまえだって……」
 襲いかかる恐怖を振り切ろうとして、おれはあえて作為的に強い言葉を選んだ。
「おまえだって、ひとのこといえないだろ」
「おれ?」
「父親と変わらないことしてる。おまえもおなじだと思わないのかよ」
 暖の表情がわずかに強ばる。しかし狼狽したのは一瞬だけで、すぐに表情から消えた。
「たしかに、おれも罰を受けるべきだな」
 おれの手を離して、暖はいった。乱暴な手つきで自分の髪に指を入れ、頭を振った。セットが乱れ、前髪が垂れて、暖の表情を隠した。
「わかってる。おれは死んだほうがいい人間だって」
「……なんだそれ」
 おれはうなだれる暖を冷ややかに見た。自分がしたことを忘れて被害者ぶるような態度に、無性に腹が立った。
「高校3年の夏休み、ここにいたときから思ってた」
 暖は下を向いたまま独白のように続けた。
「ずっと死にたいと思ってた。でもおまえが……」
「なんだよ」
 暖は動かない。唇をかすかに震わせて、いった。
「おれが死んだらおまえに食事を持ってくやつがいなくなる」
「はあ?」
 おれは呆れてため息をついた。
「馬鹿か。おれを解放してから死ねばいいだけの話だろ」
「それはできない」
「なんでだよ」
 暖は答えない。表情の見えない男を見つめて、おれはもう一度、今度はさらに深く息をついた。
「おれはべつにおまえが死んだほうがいいとは思ってないよ。おれを外に出して、死ぬか生きるかはそのあと考えればいいじゃん」
 暖が小さく笑う音がした。笑うような話をしたつもりはなかった。
「笑ってんじゃねえよ、おまえ……」
 言葉が途切れた。暖がしがみついてきたからだ。おれの腹に両腕を巻きつけ、股の付け根あたりに頬を押しつけてくる。
「おい……」
「なにもするつもりないから」
 静かな声だった。威圧感はない。しかし、なぜか抵抗する手の力は緩んだ。
「頼むよ。ちょっとだけこのまま……」
 背中に回された手が震えている。おれは言葉を失っていた。暖が泣いていることに気づいたからだ。
 おれの体に縋りつき、胎児のように体を丸めて、暖は啜り泣いていた。暖が泣いているのを見るのははじめてだった。
 泣きたいのはこっちのほうだ。心のなかで呟いた。それでも、おれは拒絶しなかった。なにもいわず、されるがままになっていた。
 暖の肩も小刻みに振動していた。背中が小さく見えて、思わず掌を置いた。暖の体温を感じた。
 暖のいうとおりだった。もし暖が死んだらおれはここでだれにも見つけられずに衰弱死するだろう。それなら、逆はどうか。もしおれが死んだら?
 嗚咽をころして泣く暖の背中に手をあてながら、触れた掌の皮膚が溶け、肉が裂けて暖の血肉と絡みあう幻想が過ぎった。不思議なものだ。性的な密着よりもなおひとつになっている感覚があった。
 まるで手を離したとたんに湖底に沈んで二度と浮上できないかのように、暖はおれのシャツを強くつかんでいた。溺れる人間を救いだそうとするかのように、おれは暖のシャツを握った。
「おい……」
 暖の頭頂部に向けて息を吐いた。腰の辺りにある暖の指先が動いたからだ。
「なにもしないっていわなかったか」
「なにもするつもりないとはいったけどしないとはいってない」
 いつもの屁理屈をこねて、暖はおれの背骨の隙間に爪を立てた。痺れるような痛みに腰が浮き上がる。
「さっきまでそんなつもりなかったけど、おまえが……」
「またおれかよ……」
 荒く息を継ぐ。接着している皮膚が熱い。いつの間にか、おれの呼吸も熱を孕んでいた。
「おまえ、いつもおれのせいにするじゃん。全部おまえがやってることなのに……」
「……そうだな」
 暖は素直に頷いた。甘える猫のようにおれの下腹部に頭を擦り寄せてくる。もう泣いていなかったが、手を離せばたちまち消えてしまいそうで、おれはなにもできなかった。
「俊介」
 暖が頭を持ち上げた。顔が近づいてくる。無意識に目を閉じた。予想していたことはなにも起きなかった。再び目を開けると、鼻先が触れあいそうな距離に暖の顔があった。
「なに……」
「キスしろよ」
「はあ?」
 暖の意図を図りかね、眉を顰めた。
「嫌なのかよ」
「嫌に決まってんだろ」
「いつもしてるのに」
「だから、いつもみたいに勝手にすればいいだろ」
「おまえのほうからしてほしいんだよ」
 ふざけている様子もなく、真剣そのものといった表情の暖に気圧された。
「……命令かよ」
「ちがう。したくないならしなくていい」
「……したくない」
「わかった」
 いったとたんに、唇が襲ってきた。舌を差しこまれ、歯列をなぞられる。
 なぜ回りくどいことをするのか、理解不能だった。おれはまた暖に振り回されている現実に悔しさを感じながらも、暖の動きに合わせて舌を絡ませた。
 長いキスだった。永遠に続くのではないかと思うほどだった。唇が離れたときには、おれはかなり息を荒くしていた。
 暖の右手がシャツの裾をたくし上げ、直接肌に触れる。左手がおれの後頭部に添えられ、マットレスの上に寝かされた。この男が犯罪者で監禁されてなければ、愛情めいたものがあるのではないかと勘違いしてしまいそうなほどやさしい手つきだった。
 考えてみれば、暴れて拒絶しない限り、これまでもていねいに扱われてきた。受け容れる準備ができるまで粘り強く体を解し、行為が終わった後は手ずから処理をしていた。すこし鬱陶しいほど甲斐甲斐しかった。監禁、強姦に手を染めているわけだから、根本的にはサディストなのだろうが、抱くときはいつもやさしかった。
「……悪かったよ」
「え? なに?」
 おれの服を脱がせ、胸元に顔を埋めていた暖が視線を上げた。おれは視線を逸らして、いった。
「おまえ、最悪ではあるけど、父親とはちがうよ」
 暖はしばらく黙って、その後で微笑んだ。嘲笑ではない、自然な笑顔だった。
 暖の手が再びおれの肌を這い回る。舌が胸の突起を転がし、膝が股の内側を圧して体をひらかせる。それだけの動きで、おれの体はすぐに反応した。
 考えてみれば、最後にこんなふうに触れられたのは1か月以上前のことだ。一昨日は予告もされていて、こちらもそのつもりでいたが、父親が現れたためにそれどころではなくなった。待っていたわけではないのに、全身がすでに迎え入れる準備をしていた。おれは裸に剥かれ、暖の下で体をのたうたせていた。
 暖の頭が徐々に下降していく。臍の窪みに唾液を含ませ、脚の付け根に歯を立てる。そして痛みを感じるほど脈打っている中心の部分へ。暖に追い立てられ、おれはあっけなく達した。マットレスの上で全身を弾ませ、声を上げる。暖は息も絶え絶えといった状態のおれを抱え上げ、膝の上に乗せた。臀部を指でまさぐられ、暖の首に縋りついていなければ崩れ落ちそうだった。
「ちょっと待っ……」
 羞恥に顔が燃えるような摩擦音を聞きながら、おれは首を振った。
「なんか、やばい……待って待ってなあ待てって」
「だめ、待てない、もう入れる」
 舌を縺れさせるおれとおなじくらい余裕を失った声。指が入っていたところに暖の硬直が圧しあてられる。暖がおれの膝を持ち上げ、支えを失ったおれの体が重力に負けて落下する。いきなり深い部分を抉られ、おれは絶叫した。暖が下から突き上げてきて、強烈な圧迫感に涙が滲んだ。
「俊介……気持ちいい?」
「ん……気持ちい……」
 そんなことを口にするのははじめてだった。問われるがままについ答えてしまった。後悔したが、遅かった。暖が体勢を変え、おれの体は再び仰向けにされた。烈しい動きで何度も圧しこまれ、背中がマットレスに擦れる。暖もほとんど我を失っているように見えた。汗が飛び散っておれの顔や胸に滴る。
 再び限界が近づいていた。暖の動きがさらに烈しくなる。振り落とされないように首に腕を回してしがみついた。
 暖の咆哮とともに、動きが止まった。内臓の奥でびくびくと蠢く熱を感じる。
 暖がおれの上に倒れこんだ。弛緩した体の重みを受け止めた。おれも口を大きく開けて酸素を吸っていたが、暖はもっと烈しく息を継いでいた。溺れていた人間が陸に上がって急激に酸素を取り込んでかえって呼吸困難に陥るように喉をひゅうひゅういわせている。
「暖……」
「だいじょうぶ」
 おれの胸に頬を圧しつけて、暖は頷いた。なんとなく、背中に手を触れさせた。暖の肌は汗ばんで湿っていた。その手ざわりが生命を実感させた。
 おれたちはそのまま何時間もただ呼吸していた。まるで残りの息が消えかけているかのように酸素を求めていた。