上條さんが着いてくれてからの特訓は順調に進んだ。基本的にどのレッスンにも上條さんが他の業務をしながらも、つきっきりで同行してくれた。
どうしても他の打ち合わせなどで席を外す時には、代わりに居灘さんや他のマネージャーを着けてくれて、逐一情報を共有しているようだった。たまに山本さんが差し入れを持ってきてくれた。研修生の頃から知ってくれているので、俺たちがデビュー組になった事を、めちゃくちゃに喜んでくれた。
本社会議室の机や椅子は全て取っ払われ、フローリングの半分もステージと同じ床材が貼り直されていた。実戦的なダンスの練習のためだ。靴もダンスシューズではなく衣装用のブーツと同じ素材の靴を履かされる。仮衣装として長いコートや固い生地のズボンも穿いて踊る。動きやすい服や靴で踊るのと、衣装やブーツで踊るのでは、やはり勝手が違った。身体の筋肉の使い方がかなり変わってくる。そうして、どんな衣装になっても踊り切れるように、身体に振り付けの感覚を覚え込ませていく。
歌唱の指導も始まった。発声や呼吸法の基礎的な訓練、体力作りのためのトレーニングも増えていく。別場所の音楽スタジオで、マイクを使った歌唱チェックや修正が入る。メンバーごとのパートも振り分けられ、一つずつ磨き上げていく。俺はみんなで合わせて歌うのがすごく好きだ。こんなに楽しくていいのだろうか。
上條さんからは、食事メニューのチェックも入った。日々の生活の食事の内容を報告し、栄養バランスの評価が入る。とはいえ、ほぼ優星が食事メニューを考え、鬼のように厳しい指導が入るのでたまに食べるカップ麺に注意が入る程度だった。
デビューメンバーに昇格したことにより、生活費の工面もする必要がなくなった。事務所から渡されたタブレットから、大手通販サイトで食品を注文する。支払いは全て事務所が持ってくれた。正宗も心置きなくバイトを休業し、こちらに専念できているようだった。俺はその事にも安堵した。夜中に一人で無茶なトレーニングはもう二度とさせたくない。
こいつらと一緒に前に進んでいる。自分達のレベルアップも感じ、共有できるのが何よりも心強かった。
そんなある日、事務所で練習前のアップをしていると、俺とミコトは上條さんに呼び止めれる。ついに、この日が来たか、と四人で顔を見合わせる。
〝映画〟の撮影が始まるのだ。出演者は三井堂監督の指名で、俺とミコトの二人になったことを事前に伝えられていた。
「今日は、あなた達と別行動になるわ」
と正宗に告げ、俺とミコトは上條さんに別室へ連れて行かれた。練習着から、事務所が用意したそれなりに整った服装に着替えさせられ、髪型もスタイリストさんにささっと整えられる。
「最初はスタイリストさん付けるけど、こういうのも追々勉強してね。オシャレはあなた達の最強の武器よ」
準備が終わると早速、上條さんの車に乗せられる。
渋谷から首都高速道路を走って、30分ほどで郊外の映画撮影所に到着した。
撮影所では映画関係者と三井堂監督が出迎えてくれた。監督はにこやかにミコトの方へ近寄り、ミコトの両肩に手を置きながら、
「よろしくね、香川くん」
と言った。
(かがわ?)
その名前を聞いた瞬間、俺たちの隣に控えていた上條さんが息を呑んだような気がした。助監督と思われる人が監督に「それは前の…この子は香神さんです」と耳打ちするのが聞こえた。
監督は「ああ、そうかそうか、ごめんねぇ」とミコトに向き直る。ミコトも気を悪くした風もなく、にこやかにしている。監督ともなれば、たくさんの人と交流があるから、新人まで全員名前を覚えるのも大変なのだろう。俺も自分の名前を覚えてもらえるように監督の前へ進み挨拶した。
その後、俺たちはアシスタントディレクターの誘導で大きな会議室に通された。ロの字に組まれた長机が設置されており、監督の真正面の席に俺とミコトは並んで座るよう指示された。
「今日は台本読みだけだから、気楽にね」
台本が渡される。タイトルを見て、少し前に話題になった小説だと気付く。
表紙を開くと、1ページ目に配役と出演者の名前が並んでいる。一番右端に主役の名前、次に主要な役、左に進むにつれて脇役の出番の順で記載されるのだが、俺たち二人の名前は、真ん中辺りに載っていた。主演は、朝ドラにも抜擢された別の事務所の若手女優だ。
俺は自分の役にペンで印をつけていく。俺とミコトは兄弟の役だった。
「え、俺、ミコトの弟なの?」
「ピッタリじゃん」
などと脚本を読み進めながら談笑していると、他の出演者達が続々と部屋に入ってきた。俺たちは立ち上がって挨拶する。最後に主演の女優さんが入ってきた。俺たちの挨拶にもキラキラとした眩しい笑顔で返してくれた。可愛い。デレデレしそうになった瞬間、ミコトに裏モモを思いっきり蹴られた。強めに。
一通りのメンバーが揃うと、簡単な自己紹介を終え、早速台本の読み合わせが始まった。台本の頭から順に、シーン名やト書やは助監督さんが、台詞は各々の役者が読み上げていく。
作品は戦時下の日本が舞台で、目の見えないヒロインとそれを支える二人の兄弟の物語だった。ヒロインと兄は婚約者同士だったが、出兵した兄は戦死する。それを隠し、弟は兄の身代わりとしてヒロインの元に戻る。声で正体がバレないように、戦争で口がきけなくなったと偽りつつ、ヒロインに献身する弟の悲恋の物語だ。俺の役は、台詞は少ないが、指でヒロインの手に文字を書いて会話したり、気持ちを表情で伝えたりと、なかなかの演技力が必要な役だ。
とはいえ、俺の台詞はほぼミコトとのかけ合いで、俺たちのシーンもそんなに多くない。最初から見知った顔と芝居ができるのが救いだ。台詞が俺たちのシーンに差しかかった。俺とミコトと交互にかけ合いしていく。読み合わせとはいえ、その時感じた感情を台詞に込めながら読んだ。読みながら、俺はどうしても監督や他の出演者の反応が気になって、周りの様子を伺うために目を上げた。
目の前に座っている三井堂監督の表情が、段々と険しくなっていく。俺は焦って台詞を噛んでしまった。そのまま言い直して続ければいいものの、次の台詞を読む事ができない。さらに焦りが募る。ああ、俺はなんて浅はかな事をしてしまったんだと後悔する。
その時、ミコトが人差し指でトントンと俺の手の甲を叩いた。振り向くと、ミコトが柔らかな目で安心させるように目配せしてきた。そうだ、俺にはミコトがいる。そして、ミコトを支えるのも俺しかいない。
俺は自分に叱咤して気を取り直す。意を決して台詞に戻ろうとした時、監督が手を挙げた。
「ちょっとごめんね、少しいいかな」
助監督とアシスタントディレクターを呼び、何か耳打ちを始めた。助監督は、え?っと驚いた様子を見せる。そのうちに、アシスタントディレクターは駆け足で部屋の外へ出て行った。
監督はまた正面を向き、俺たちの方を見て少し間を開けた後、話し始める。
「やっぱりねぇ、前の脚本《ほん》に戻したいよねぇ」
は?と声があがる。他の共演者達もざわつきはじめる。
「いやね、元々は香川く…いや、おたくの事務所の子を主演で企画された映画だったでしょう。それがあんな事になって、新しい代理の子は新人でまだお芝居も勉強中だからと、脚本をヒロインがメインになるように書き換えたけどもさ。筋(話の流れ)も前の方が良かったし、いいシーンもこっちは削ってしまっているしさ。前の脚本のほうが作品としては面白いと思うんだ」
それに、と俺たちに向かって話し続ける。
「悪くないよ、悪くない。君もせっかくなんだから主役にチャレンジしたいだろう。俺は前の脚本でこの子達を撮りたいねぇ」
今度は主役のヒロインに向かって話しかけた。
「…監督、さすがです。私は、私個人はその案に大賛成ですよ」
主演女優さんは監督にそう答えると、満面の笑みでこちらに笑いかけてきた。俺はこれほどまでに恐ろしい笑顔を見たことがない。美しく整った顔全体から〝NO〟の意思が噴出している。美しい顔と怨嗟が具現化した蛇の髪の毛を持つメドゥーサ。彼女を一眼見て、石化した人間の最後の感情はこんなだったんだろうなと漠然と思った。
「だ、ダブル主演という形態も取れますしね…っ」
焦った様子で助監督が取りなす。その時、アシスタントディレクターが大量の台本が入ったと思われる段ボール箱を抱えて部屋に戻ってきたと思ったら元気よく言った。
「監督〜!前の脚本ありましたよ!配りますか!」
それはもう、なんとも言いようのない恐ろしい空気になる。室内に一気に暗雲が立ち込め、豪雨と共に大洪水に巻き込まれ、落雷に被弾しそうな勢いだ。俺はまだ石化中だ。
「まあ、今日は読み合わせだからね。せっかくだから両方読んでみて決めてもいいんじゃないですか」
同席していたベテラン俳優が助け船を出してくれた。主演女優はまた笑顔で、
「そうですね、そうしましょう。こちらの件は一旦マネージャーに持ち帰らせます」
と返した。
(…どんな感情で続ければいいんだよ…)
俺は顔を引き攣らせながら、ミコトの方を見てみると、あろうことかミコトは実に楽しそうに事の成り行きを笑顔で見ていた。そして俺に微笑みかける。俺にはあの女優さんのような強い信念も、ミコトのような図太い包容力もまだまだ全然足りない。俺はなんだか一人負けしたような感情に陥った。
読み合わせが終わり、さっきの空気が嘘だったかのように、今日のところは和やかに解散した。
結局、台本は初回バージョンのものが使われる事になったと後日連絡が入り、大幅に俺とミコトの出演シーンが増える事になった。そのため、俺たち二人は歌のレッスンを中断し、お芝居の稽古のスケジュールの日程が大量に新たに追加され、次の日から、てんやわんやの日々が再開した。
結局、かの主演女優さんの事務所から自主降板の申し出があったそうで、代わりに居灘さん預かりの女優が登板する事になったようだ。居灘さんからよくわからないお礼を言われて知った。
事務所の先輩の俳優が呼ばれ、基礎的な演技指導を受けたり、台本に即した演技プランを考えたりする時間に充てられた。とはいえ、勝手に演出を付けるわけにもいかないので、台詞を覚える時間に使ったり、立ち位置の確認や動きの動機付けの勉強、映像に映った時の所作の確認などが主だった稽古内容だった。先輩には、台本を読んでそのまま台詞を読むのではなく、背景に何があるのか、人物の性格からどうキャラクターを構築していくのかなど、いわゆる〝行間の読み方〟を勉強させてもらった。お芝居の楽しさにどんどん嵌っていった。
それと同時に、一抹の不安もあった。俺たち以外の出演者は既にクランクインしており、撮影はもう始まっている。自分達のシーン撮りまでにちゃんと見せられるお芝居を完成させなければならない。
その日は撮影所にて監督に稽古の成果を見てもらったあと、都内の音楽スタジオでライブ曲のレコーディングが予定されていた。俺とミコトは音楽スタジオに向かう。思ったより演出に熱が入り終了時間がオーバーした上、事故の影響で道が混雑していて、既に3時間遅刻していた。
スタジオ内の一部屋の扉を開けると前室のような6畳ほどの部屋があり、待機できるソファが並んでいる。先に来ている正宗と優星の荷物が置いてある。その部屋の奥に左右に一つずつ別々の部屋があり、片方はミキサーなど機械が置いてある部屋、もう片方はマイクが備え付けられている収録用のブースだ。二つの部屋の間にはガラス張りの二重窓で隔たれていてお互いの部屋の様子が見れるように繋がっている。
ミキサーさんがいる方の部屋を先にノックし、「お疲れ様です、遅くなりました!」とディレクターさんやスタッフさんに詫びを入れる。
もう一つの部屋、録音ブース側は音漏れがしないよう、出入り口は重厚な扉になっている。ガッチャと大きな取っ手があがり、ゆっくりと扉が開き、中から優星が出てきた。
「遅いよ!」
優星はかなり不貞腐れている。正宗が優星の後ろからついて出てきた。
「今日は俺たち、朝からずっと歌ばっかりだからな。何回も歌わされて飽きてきたみたいで」
悪いと言わんばかりに正宗が言ってきた。迷惑をかけてしまっているのはこっちの方だ。
「ごめん」
俺は謝ると荷物や上着をソファに置き、四人で改めて録音ブースに入る。重厚な扉は二枚あり、両方ともを締め切ると、無音の世界が訪れる。壁には一面に吸音材が敷き詰められているため、自分達の声も吸音され、少し離れるとお互いの声も遠くに聞こえる。空気の音が耳に張り付き、キーンという耳鳴りがうるさく聞こえてくる。
広々とした部屋の中には等間隔でマイクが並んでいた。マイクの横にはそれぞれヘッドホンが備え付けられている。早速、ヘッドホンを装着すると、ミキサー室側にいるディレクターさんの声が入ってきた。
「はい、では早速ですが一回通して歌ってみましょう。それから、全員のハモリ部分を録って、最後は個別のパートを別録りします」
四人で返事する。個人パートの別録りは、既に正宗と優星は録り終えているのだろう。俺とミコトのパートを録る間は、正宗と優星はブースを出て、休憩したり先に帰ったりできるだろうから、この順番で録音するのだ。だが二人は、多分俺たちの収録が終わるまで待っていそうな気もするが。
ブース内の〝ON AIR〟のランプが点き、曲が流れ始める。まずはデビューライブ用の曲だ。ポップで明るいイントロが流れてくる。まずはAメロ。最初は俺のパートだ。子気味よく歌い始める。ミコトがハモってくる。次は正宗のパート、優星のパート…Bメロに入るとそれぞれのパートが入り乱れ、歌のかけ合いになる。サビに入り、いよいよ歌の佳境。全員フルで出番である。歌にも力が入る。最高に盛り上がったところで、違和感があった。1コーラスが終わり、間奏に入ったところで曲が止められた。ディレクターから指示が出る。
「和泉くんのメロディラインがみんなと違うね。間違って覚えちゃってる?」
え、そんなはずはないと思い返す。サンプルの入ったCD-ROMを渡されてから何十回も聴き直したし、歌唱レッスンの時にだって歌えたはずだ。だが最近は映画の事で頭がいっぱいで、歌の練習から離れてしまっていたのも事実だ。その間にインプットされていた曲が頭の中で捻れて定着してしまったかもしれない。
「…すみません」
「え、嘘でしょ!蒼、歌入ってないの?」
「すまん…」
俺は何を言っても言い訳になるので、みんなに頭を下げるしかなかった。
「まあ、蒼は映画で忙しいからな」
正宗がそう言うと、何か言いたげではあったが優星はそれ以上責める事を辞めた。
「じゃあ、今日は全員のハモリのところは無理そうだから、また別日でリスケだね。こっからは蒼くん中心でパートを録って、修正しながらやっていこう」
ヘッドホンを外しながら、お疲れ様でしたと挨拶をして、正宗と優星はブースを出ていった。
レコーディングが再開される。何度も録り直しが発生し、結局終わる頃には23時を回っていた。正宗と優星はさすがにもう家に帰ったようで、俺とミコトは二人でスタジオを後にした。
〝求められれば、相手の期待を上回る成果を出し続けなければいけない〟
前に正宗が言っていた事が骨身に染みた。
夜遅くの帰宅になった。ほとんどの研修生達が退去し、ほぼ空き家となった中目黒のマンションは、大通りの喧騒とは裏腹にしんと静まり返っていた。
エントランスに入り、俺はいつもは見ない集合ポストに何となく目をやる。俺たちの部屋番号のボックスに何か入っているようで、内扉の端から少しはみ出ているのに気づく。
いつもは日中、仮事務所に詰めてくれている事務の人が郵便物を回収して、それぞれの部屋に個別に届けてくれるようになっていた。
俺はその紙を引っ張り出す。つられて複数枚のA4サイズの紙が床に落ちた。それには赤い文字で〝アイドルの成りそこない〟〝エコひいき組〟〝早く辞めろ〟などの文字と共に、俺たちメンバーの名前が書かれていた。
俺は強い悲しみと同時に怒りが湧いてくる。俺たちのデビューやメンバーの名前は、勿論まだ公になっていない。さらにここに住んでいる事を知っているのは、落選した研修生の誰かとしか考えられない。
俺は選考オーディションより前に訪問してくれた三井堂監督に注目されたりダンスレッスンを好成績で爆進するミコトに対し、俺たち以外の研修生達が無視をしたこと、ケータリングの弁当がミコトだけ無くなったりした事を思い出した。もしかしたら、あれも同じ犯人によるものかもしれない。
俺はすぐさま全ての紙を拾い上げ、自分達の部屋へ戻ろうとした。
「やめよう、蒼」
俺から紙の束を取り上げ、ミコトはその紙をくしゃくしゃにした。
「正宗達はきっともう知ってる。知ってて、僕たちに負担をかけないよう隠してくれてるんだ。その気持ちを台無しにしてはいけないよ。…もし、知らなかったとしたら、それこそわざわざ教える必要ない」
俺は本当に自分が情けなくなって、泣けてきた。
「大丈夫だよ。僕がついてる」
ミコトは両手で俺の頬を包み、額を重ね合わせてきた。
「心配しないで。蒼には、僕がついているからね」
どうしても他の打ち合わせなどで席を外す時には、代わりに居灘さんや他のマネージャーを着けてくれて、逐一情報を共有しているようだった。たまに山本さんが差し入れを持ってきてくれた。研修生の頃から知ってくれているので、俺たちがデビュー組になった事を、めちゃくちゃに喜んでくれた。
本社会議室の机や椅子は全て取っ払われ、フローリングの半分もステージと同じ床材が貼り直されていた。実戦的なダンスの練習のためだ。靴もダンスシューズではなく衣装用のブーツと同じ素材の靴を履かされる。仮衣装として長いコートや固い生地のズボンも穿いて踊る。動きやすい服や靴で踊るのと、衣装やブーツで踊るのでは、やはり勝手が違った。身体の筋肉の使い方がかなり変わってくる。そうして、どんな衣装になっても踊り切れるように、身体に振り付けの感覚を覚え込ませていく。
歌唱の指導も始まった。発声や呼吸法の基礎的な訓練、体力作りのためのトレーニングも増えていく。別場所の音楽スタジオで、マイクを使った歌唱チェックや修正が入る。メンバーごとのパートも振り分けられ、一つずつ磨き上げていく。俺はみんなで合わせて歌うのがすごく好きだ。こんなに楽しくていいのだろうか。
上條さんからは、食事メニューのチェックも入った。日々の生活の食事の内容を報告し、栄養バランスの評価が入る。とはいえ、ほぼ優星が食事メニューを考え、鬼のように厳しい指導が入るのでたまに食べるカップ麺に注意が入る程度だった。
デビューメンバーに昇格したことにより、生活費の工面もする必要がなくなった。事務所から渡されたタブレットから、大手通販サイトで食品を注文する。支払いは全て事務所が持ってくれた。正宗も心置きなくバイトを休業し、こちらに専念できているようだった。俺はその事にも安堵した。夜中に一人で無茶なトレーニングはもう二度とさせたくない。
こいつらと一緒に前に進んでいる。自分達のレベルアップも感じ、共有できるのが何よりも心強かった。
そんなある日、事務所で練習前のアップをしていると、俺とミコトは上條さんに呼び止めれる。ついに、この日が来たか、と四人で顔を見合わせる。
〝映画〟の撮影が始まるのだ。出演者は三井堂監督の指名で、俺とミコトの二人になったことを事前に伝えられていた。
「今日は、あなた達と別行動になるわ」
と正宗に告げ、俺とミコトは上條さんに別室へ連れて行かれた。練習着から、事務所が用意したそれなりに整った服装に着替えさせられ、髪型もスタイリストさんにささっと整えられる。
「最初はスタイリストさん付けるけど、こういうのも追々勉強してね。オシャレはあなた達の最強の武器よ」
準備が終わると早速、上條さんの車に乗せられる。
渋谷から首都高速道路を走って、30分ほどで郊外の映画撮影所に到着した。
撮影所では映画関係者と三井堂監督が出迎えてくれた。監督はにこやかにミコトの方へ近寄り、ミコトの両肩に手を置きながら、
「よろしくね、香川くん」
と言った。
(かがわ?)
その名前を聞いた瞬間、俺たちの隣に控えていた上條さんが息を呑んだような気がした。助監督と思われる人が監督に「それは前の…この子は香神さんです」と耳打ちするのが聞こえた。
監督は「ああ、そうかそうか、ごめんねぇ」とミコトに向き直る。ミコトも気を悪くした風もなく、にこやかにしている。監督ともなれば、たくさんの人と交流があるから、新人まで全員名前を覚えるのも大変なのだろう。俺も自分の名前を覚えてもらえるように監督の前へ進み挨拶した。
その後、俺たちはアシスタントディレクターの誘導で大きな会議室に通された。ロの字に組まれた長机が設置されており、監督の真正面の席に俺とミコトは並んで座るよう指示された。
「今日は台本読みだけだから、気楽にね」
台本が渡される。タイトルを見て、少し前に話題になった小説だと気付く。
表紙を開くと、1ページ目に配役と出演者の名前が並んでいる。一番右端に主役の名前、次に主要な役、左に進むにつれて脇役の出番の順で記載されるのだが、俺たち二人の名前は、真ん中辺りに載っていた。主演は、朝ドラにも抜擢された別の事務所の若手女優だ。
俺は自分の役にペンで印をつけていく。俺とミコトは兄弟の役だった。
「え、俺、ミコトの弟なの?」
「ピッタリじゃん」
などと脚本を読み進めながら談笑していると、他の出演者達が続々と部屋に入ってきた。俺たちは立ち上がって挨拶する。最後に主演の女優さんが入ってきた。俺たちの挨拶にもキラキラとした眩しい笑顔で返してくれた。可愛い。デレデレしそうになった瞬間、ミコトに裏モモを思いっきり蹴られた。強めに。
一通りのメンバーが揃うと、簡単な自己紹介を終え、早速台本の読み合わせが始まった。台本の頭から順に、シーン名やト書やは助監督さんが、台詞は各々の役者が読み上げていく。
作品は戦時下の日本が舞台で、目の見えないヒロインとそれを支える二人の兄弟の物語だった。ヒロインと兄は婚約者同士だったが、出兵した兄は戦死する。それを隠し、弟は兄の身代わりとしてヒロインの元に戻る。声で正体がバレないように、戦争で口がきけなくなったと偽りつつ、ヒロインに献身する弟の悲恋の物語だ。俺の役は、台詞は少ないが、指でヒロインの手に文字を書いて会話したり、気持ちを表情で伝えたりと、なかなかの演技力が必要な役だ。
とはいえ、俺の台詞はほぼミコトとのかけ合いで、俺たちのシーンもそんなに多くない。最初から見知った顔と芝居ができるのが救いだ。台詞が俺たちのシーンに差しかかった。俺とミコトと交互にかけ合いしていく。読み合わせとはいえ、その時感じた感情を台詞に込めながら読んだ。読みながら、俺はどうしても監督や他の出演者の反応が気になって、周りの様子を伺うために目を上げた。
目の前に座っている三井堂監督の表情が、段々と険しくなっていく。俺は焦って台詞を噛んでしまった。そのまま言い直して続ければいいものの、次の台詞を読む事ができない。さらに焦りが募る。ああ、俺はなんて浅はかな事をしてしまったんだと後悔する。
その時、ミコトが人差し指でトントンと俺の手の甲を叩いた。振り向くと、ミコトが柔らかな目で安心させるように目配せしてきた。そうだ、俺にはミコトがいる。そして、ミコトを支えるのも俺しかいない。
俺は自分に叱咤して気を取り直す。意を決して台詞に戻ろうとした時、監督が手を挙げた。
「ちょっとごめんね、少しいいかな」
助監督とアシスタントディレクターを呼び、何か耳打ちを始めた。助監督は、え?っと驚いた様子を見せる。そのうちに、アシスタントディレクターは駆け足で部屋の外へ出て行った。
監督はまた正面を向き、俺たちの方を見て少し間を開けた後、話し始める。
「やっぱりねぇ、前の脚本《ほん》に戻したいよねぇ」
は?と声があがる。他の共演者達もざわつきはじめる。
「いやね、元々は香川く…いや、おたくの事務所の子を主演で企画された映画だったでしょう。それがあんな事になって、新しい代理の子は新人でまだお芝居も勉強中だからと、脚本をヒロインがメインになるように書き換えたけどもさ。筋(話の流れ)も前の方が良かったし、いいシーンもこっちは削ってしまっているしさ。前の脚本のほうが作品としては面白いと思うんだ」
それに、と俺たちに向かって話し続ける。
「悪くないよ、悪くない。君もせっかくなんだから主役にチャレンジしたいだろう。俺は前の脚本でこの子達を撮りたいねぇ」
今度は主役のヒロインに向かって話しかけた。
「…監督、さすがです。私は、私個人はその案に大賛成ですよ」
主演女優さんは監督にそう答えると、満面の笑みでこちらに笑いかけてきた。俺はこれほどまでに恐ろしい笑顔を見たことがない。美しく整った顔全体から〝NO〟の意思が噴出している。美しい顔と怨嗟が具現化した蛇の髪の毛を持つメドゥーサ。彼女を一眼見て、石化した人間の最後の感情はこんなだったんだろうなと漠然と思った。
「だ、ダブル主演という形態も取れますしね…っ」
焦った様子で助監督が取りなす。その時、アシスタントディレクターが大量の台本が入ったと思われる段ボール箱を抱えて部屋に戻ってきたと思ったら元気よく言った。
「監督〜!前の脚本ありましたよ!配りますか!」
それはもう、なんとも言いようのない恐ろしい空気になる。室内に一気に暗雲が立ち込め、豪雨と共に大洪水に巻き込まれ、落雷に被弾しそうな勢いだ。俺はまだ石化中だ。
「まあ、今日は読み合わせだからね。せっかくだから両方読んでみて決めてもいいんじゃないですか」
同席していたベテラン俳優が助け船を出してくれた。主演女優はまた笑顔で、
「そうですね、そうしましょう。こちらの件は一旦マネージャーに持ち帰らせます」
と返した。
(…どんな感情で続ければいいんだよ…)
俺は顔を引き攣らせながら、ミコトの方を見てみると、あろうことかミコトは実に楽しそうに事の成り行きを笑顔で見ていた。そして俺に微笑みかける。俺にはあの女優さんのような強い信念も、ミコトのような図太い包容力もまだまだ全然足りない。俺はなんだか一人負けしたような感情に陥った。
読み合わせが終わり、さっきの空気が嘘だったかのように、今日のところは和やかに解散した。
結局、台本は初回バージョンのものが使われる事になったと後日連絡が入り、大幅に俺とミコトの出演シーンが増える事になった。そのため、俺たち二人は歌のレッスンを中断し、お芝居の稽古のスケジュールの日程が大量に新たに追加され、次の日から、てんやわんやの日々が再開した。
結局、かの主演女優さんの事務所から自主降板の申し出があったそうで、代わりに居灘さん預かりの女優が登板する事になったようだ。居灘さんからよくわからないお礼を言われて知った。
事務所の先輩の俳優が呼ばれ、基礎的な演技指導を受けたり、台本に即した演技プランを考えたりする時間に充てられた。とはいえ、勝手に演出を付けるわけにもいかないので、台詞を覚える時間に使ったり、立ち位置の確認や動きの動機付けの勉強、映像に映った時の所作の確認などが主だった稽古内容だった。先輩には、台本を読んでそのまま台詞を読むのではなく、背景に何があるのか、人物の性格からどうキャラクターを構築していくのかなど、いわゆる〝行間の読み方〟を勉強させてもらった。お芝居の楽しさにどんどん嵌っていった。
それと同時に、一抹の不安もあった。俺たち以外の出演者は既にクランクインしており、撮影はもう始まっている。自分達のシーン撮りまでにちゃんと見せられるお芝居を完成させなければならない。
その日は撮影所にて監督に稽古の成果を見てもらったあと、都内の音楽スタジオでライブ曲のレコーディングが予定されていた。俺とミコトは音楽スタジオに向かう。思ったより演出に熱が入り終了時間がオーバーした上、事故の影響で道が混雑していて、既に3時間遅刻していた。
スタジオ内の一部屋の扉を開けると前室のような6畳ほどの部屋があり、待機できるソファが並んでいる。先に来ている正宗と優星の荷物が置いてある。その部屋の奥に左右に一つずつ別々の部屋があり、片方はミキサーなど機械が置いてある部屋、もう片方はマイクが備え付けられている収録用のブースだ。二つの部屋の間にはガラス張りの二重窓で隔たれていてお互いの部屋の様子が見れるように繋がっている。
ミキサーさんがいる方の部屋を先にノックし、「お疲れ様です、遅くなりました!」とディレクターさんやスタッフさんに詫びを入れる。
もう一つの部屋、録音ブース側は音漏れがしないよう、出入り口は重厚な扉になっている。ガッチャと大きな取っ手があがり、ゆっくりと扉が開き、中から優星が出てきた。
「遅いよ!」
優星はかなり不貞腐れている。正宗が優星の後ろからついて出てきた。
「今日は俺たち、朝からずっと歌ばっかりだからな。何回も歌わされて飽きてきたみたいで」
悪いと言わんばかりに正宗が言ってきた。迷惑をかけてしまっているのはこっちの方だ。
「ごめん」
俺は謝ると荷物や上着をソファに置き、四人で改めて録音ブースに入る。重厚な扉は二枚あり、両方ともを締め切ると、無音の世界が訪れる。壁には一面に吸音材が敷き詰められているため、自分達の声も吸音され、少し離れるとお互いの声も遠くに聞こえる。空気の音が耳に張り付き、キーンという耳鳴りがうるさく聞こえてくる。
広々とした部屋の中には等間隔でマイクが並んでいた。マイクの横にはそれぞれヘッドホンが備え付けられている。早速、ヘッドホンを装着すると、ミキサー室側にいるディレクターさんの声が入ってきた。
「はい、では早速ですが一回通して歌ってみましょう。それから、全員のハモリ部分を録って、最後は個別のパートを別録りします」
四人で返事する。個人パートの別録りは、既に正宗と優星は録り終えているのだろう。俺とミコトのパートを録る間は、正宗と優星はブースを出て、休憩したり先に帰ったりできるだろうから、この順番で録音するのだ。だが二人は、多分俺たちの収録が終わるまで待っていそうな気もするが。
ブース内の〝ON AIR〟のランプが点き、曲が流れ始める。まずはデビューライブ用の曲だ。ポップで明るいイントロが流れてくる。まずはAメロ。最初は俺のパートだ。子気味よく歌い始める。ミコトがハモってくる。次は正宗のパート、優星のパート…Bメロに入るとそれぞれのパートが入り乱れ、歌のかけ合いになる。サビに入り、いよいよ歌の佳境。全員フルで出番である。歌にも力が入る。最高に盛り上がったところで、違和感があった。1コーラスが終わり、間奏に入ったところで曲が止められた。ディレクターから指示が出る。
「和泉くんのメロディラインがみんなと違うね。間違って覚えちゃってる?」
え、そんなはずはないと思い返す。サンプルの入ったCD-ROMを渡されてから何十回も聴き直したし、歌唱レッスンの時にだって歌えたはずだ。だが最近は映画の事で頭がいっぱいで、歌の練習から離れてしまっていたのも事実だ。その間にインプットされていた曲が頭の中で捻れて定着してしまったかもしれない。
「…すみません」
「え、嘘でしょ!蒼、歌入ってないの?」
「すまん…」
俺は何を言っても言い訳になるので、みんなに頭を下げるしかなかった。
「まあ、蒼は映画で忙しいからな」
正宗がそう言うと、何か言いたげではあったが優星はそれ以上責める事を辞めた。
「じゃあ、今日は全員のハモリのところは無理そうだから、また別日でリスケだね。こっからは蒼くん中心でパートを録って、修正しながらやっていこう」
ヘッドホンを外しながら、お疲れ様でしたと挨拶をして、正宗と優星はブースを出ていった。
レコーディングが再開される。何度も録り直しが発生し、結局終わる頃には23時を回っていた。正宗と優星はさすがにもう家に帰ったようで、俺とミコトは二人でスタジオを後にした。
〝求められれば、相手の期待を上回る成果を出し続けなければいけない〟
前に正宗が言っていた事が骨身に染みた。
夜遅くの帰宅になった。ほとんどの研修生達が退去し、ほぼ空き家となった中目黒のマンションは、大通りの喧騒とは裏腹にしんと静まり返っていた。
エントランスに入り、俺はいつもは見ない集合ポストに何となく目をやる。俺たちの部屋番号のボックスに何か入っているようで、内扉の端から少しはみ出ているのに気づく。
いつもは日中、仮事務所に詰めてくれている事務の人が郵便物を回収して、それぞれの部屋に個別に届けてくれるようになっていた。
俺はその紙を引っ張り出す。つられて複数枚のA4サイズの紙が床に落ちた。それには赤い文字で〝アイドルの成りそこない〟〝エコひいき組〟〝早く辞めろ〟などの文字と共に、俺たちメンバーの名前が書かれていた。
俺は強い悲しみと同時に怒りが湧いてくる。俺たちのデビューやメンバーの名前は、勿論まだ公になっていない。さらにここに住んでいる事を知っているのは、落選した研修生の誰かとしか考えられない。
俺は選考オーディションより前に訪問してくれた三井堂監督に注目されたりダンスレッスンを好成績で爆進するミコトに対し、俺たち以外の研修生達が無視をしたこと、ケータリングの弁当がミコトだけ無くなったりした事を思い出した。もしかしたら、あれも同じ犯人によるものかもしれない。
俺はすぐさま全ての紙を拾い上げ、自分達の部屋へ戻ろうとした。
「やめよう、蒼」
俺から紙の束を取り上げ、ミコトはその紙をくしゃくしゃにした。
「正宗達はきっともう知ってる。知ってて、僕たちに負担をかけないよう隠してくれてるんだ。その気持ちを台無しにしてはいけないよ。…もし、知らなかったとしたら、それこそわざわざ教える必要ない」
俺は本当に自分が情けなくなって、泣けてきた。
「大丈夫だよ。僕がついてる」
ミコトは両手で俺の頬を包み、額を重ね合わせてきた。
「心配しないで。蒼には、僕がついているからね」
