オクシモロンの恋

俺はいつの間にかレッスンスタジオにいた。蛍光灯は煌々と点灯しているものの、閉鎖的なこの空間は相変わらず昼か夜かわからないなと思った。
しかし俺は、見慣れているはずのその光景に違和感を覚える。俺以外には、4人の人物しかいない。彼らは俺たちが散々踊りまくったあの曲に合わせて、完璧なフォーメーションで踊っている。だが、4人とも知らない顔だ。
レッスンスタジオもなんだか雰囲気が違うような気がする。全体的に古びていて、フローリングも、ワックス感のない古い教室の床のようだと思った。
曲の途中で、後列の1人が突如、前列の1人を後ろから思いっきり突き飛ばした。突き飛ばされた人物は仰け反り、鏡にぶつかってその場に倒れ伏した。
(何すんだ…!?)
俺は駆け寄って止めようとした。だが、体が石にでもなってしまったかのように動かない。
(…止めなきゃ、止めなきゃ……!!)
気持ちばかりが焦るが、指先ひとつ動かせず、さらに焦りが募る。
その間にも、倒れた人物は執拗に殴られ、蹴られ、蹲っている。
曲が、歪む。不穏な旋律が流れる中、床がぐにゃぐにゃと歪み始める。フローリングに板の間から、ドロドロとした赤黒い液体が染み出し、レッスンスタジオの空間を汚していく。これは、血だ。鉄臭い匂いが充満し、頭痛を催す。瞬く間に4人を飲み込み、空間全部が赤に染まり、徐々に俺の方へ浸食し始める。ドロっとした粘度強めな液体が、脚を腹を胸を這い上り、喉元から顎へ到達し、頬にまで迫ってきた時には不気味な温《ぬる》さを感じた。全身を覆い尽くした液体は生毛を蹂躙し、下睫毛を乗り越え、とうとう俺の眼球にまで到達した。眼前が赤以外何も見えなくなった。

はっと目を覚ます。時計を見ると午前4時を過ぎた頃合いだった。
いつもの寝室だ。カーテンから外を覗くとようやく明るくなり始める頃だった。ガラス越しに外の冷気が頬に触れ、先程の嫌な感触を洗い流してくれるようだった。なんとなく外の空気を吸いたくなって、俺は上着を着込んで部屋を抜け出した。
目黒川の桜並木は可憐な花弁を散らし尽くしており、いつの間にかほぼ葉桜になっていた。
(らしくなく緊張してるんだな、俺…。今日が選考の日だからか)
変な夢を見てしまった。
あの蹴られていた人物。俺は知らないはずなのに、何故か、なにがなんでも助けなければと強い焦燥感に駆られてしまった気がする。
(……あの人、死んだのか?)
嫌な血の匂いが蘇る。
(まさか、あそこで大量出血して…血の跡を隠すために床だけ張り替えてたりして…)
古い作りに対し、極端に真新しいピカピカに磨き上げられたレッスンスタジオの床を思い出した。
いやいや、くだらない。余計なことを考えるな。俺は弱気になっている自分を顧みて、不穏な思考を掻き消すように努めた。

しばらく散歩した後、俺はマンションに戻った。
エントランスに入る。エレベーターの前まで進み、上の階へのボタンを押そうとして、ふと気付く。エレベーターの表示がB1で点灯している。
(誰か、レッスンスタジオを使ってるのか?こんな時間に?)
時刻はまだ5時だ。

〝ゴウン…〟

エレベーターが突然、動き出す。またあの血の底から響き湧き立つような呻き声と、ひゅるひゅるひゅるという音が響いてきた。靴底がビリビリと振動する。俺は…また動けない。
鏡の中の古い祠。血の滴るレッスンスタジオの光景が脳裏を掠める。ゆっくりと、得体の知れないものが昇ってくる。ざわざわと総毛★立つ。時間が無限に感じる。

チン

エレベーターの到着音がエントランスに響く。この前はあんなにふざけた音に聞こえたのに、今はまるで鋭い切っ先を喉元に突きつけられたかのように冷たい音だった。息ができない。
一階で止まったエレベーターがゆっくりと扉を開き始めた。

ギ、ギギギ、ギギギギ…ギギギギギギギ…

普段よりゆっくりとした動きのように感じた。エレベーター内のあの独特な照明の光が漏れ出てくる。エレベーターの中の人物が、徐々に顕になる。

俺は、目を見開いた。

「うお…!びっくりした〜」
エレベーターの中には、俺に驚いた正宗が乗っていた。俺は大きく息を吐いた。心臓が一気に鼓動を思い出したかのように激しく脈打つ。
「何してんの、こんな時間に」
「お前こそ…」
喉かがひりついて、ようやっとそれだけ言えた。
「オレは自主練だ。この時間なら誰も使ってないだろ。自主練の時間がみんなより少ないからな。補習だ補習」
「まさか…」
毎日、バイトが終わってから夜中に帰ってきて、空いている時間に一人で自主練習していたというのか、正宗は…。もしかして、毎日?正宗のTシャツの首回りがしとどに汗で濡れていた。そのストイックさに舌を巻く。
ふらふらとエレベーターに乗り込み、自分達の部屋の階へ向かう。
「大丈夫か?お前、顔青いぞ」
「いや、おばけかと思って…」
はあ?と半ば笑いながら正宗はスポーツドリンクを煽った。
また、チンと到着の音が鳴り、エレベーターが住居階で停まった。さっきとは全然違う音に聞こえた。2人してエレベーターを降りる。
「あれ?」
俺はふと廊下の途中で立ち止まる。
「どうした?」
「正宗、一階に何か用があったんじゃないのか?」
「?いや?」
という事は、正宗は地下からエレベーターに乗り込んだ後、自室のフロアの階のボタンを押したはずだ。俺は、エントランスでエレベーターのボタンは押していない。しかし、エレベーターは一階のエントランスフロアで停まった…。
俺は、そこで考えるのをやめた。正宗の腕を引っ張って、急ぎ足で自室へ戻った。


俺とミコトと正宗は朝の自主トレーニングを終え、軽く朝食を終えた後、レッスンスタジオに向かった。優星は俺たちとは別行動で先に部屋を出ていた。
先週話に出ていた肺活量や体幹を鍛えるメニューを俺たちは3人で毎朝実践していた。ちょうど身体も温まっており、万全の状態だ。
レッスンスタジオの扉を開け、中に入ると既に他の研修生達がダンスの振り返りをしていた。部屋全体に中々の気迫と熱気が充満しているような気がした。
レッスン開始までまだ30分ほどある。俺たちも適当なスペースに陣取り、準備運動を始めた。
ミコトが何か思い立ったように、手に何か文字を書いてパクリと口の中に放り込む仕草をした。よくある緊張をほぐすおまじないだろう。ダンスもソツなくこなし、なんなら他のメンバーとの動きの調整まで余裕でしてしまうような男なのに、それでも緊張するもんなんだなと思った。
俺の視線に気づいたミコトが、また自分の手に何か書き始めた。そしてその手の平を突然、俺の口元に押しつけてきた。
「ふぁにふふんだひょ…!(何するんだよ)」
「緊張解れた?」
俺の抗議に悪びれた風もなくミコトは笑いかけてきた。
意趣返しに、俺も急いで自分の手に人人人と書いた。そして…そのままその手をを正宗の口元に押し付ける。
「回ってきた」
「ふぁんで?(なんで?)」
おい、いちゃいちゃすんなーと近くにいた他の研修生からヤジが飛んで来る。俺はそいつにもおまじないを投げるそぶりをしてちょけてみせた。その間も、俺は心の中で呟く。〝俺たちなら大丈夫〟と繰り返し呟いた。何度も何度も何度も、骨身に染み込むほど、繰り返し繰り返し念じた。

瞬く間に選考会開始の時刻になる。上條さんとダンス講師が入ってくる。研修生全員が立ち上がって整列する。その頃には体調不良などの理由で、離脱した研修生がいたようで、その場にいたのは17人までに減っていた。中には呪いがどうのと言っていた者もいたらしい。
「お疲れ様です〜」
上條さんに続いて、数人のサブマネージャーが10人ほどのスーツ姿の大人たちを引き連れてレッスンスタジオに入ってきた。
(プレスの人かな?)
事務所のホームページの記事にしたり、広報用の記録係なのかもと思った。数名が大層なカメラを担いでいたからだ。しかし、それにしては人数が多いか?
ジロジロと見過ぎないように目の端で確認すると、何名かは青い紐の付いたネックストラップを首から下げている事に気付く。ネームホルダーにはTV番組らしきロゴとSTAFFの文字が入っていた。少なくとも2つの番組の関係者、事務所広報のカメラマン達であるようだった。デビュー後、特番が組まれたりするのかもしれない。別の意味で研修生達に緊張が走る。
彼らは入口近くに陣取る形で事務所が用意したパイプ椅子に腰掛けた。
「おはようございます」
上條さんが俺たちの前に立ち、挨拶した。俺たちも挨拶をかえす。
「実質、今日がデビュー組のメンバー選考会になります。ダンスレッスンの様子も拝見してきましたが、みんな誰になってもおかしくないくらい研鑽を積んできたかと思います。見ての通り、取材の方も来てくれています。みんな、自分を信じて存分に成果を発揮してください」
この後の流れの説明があり、俺たちは1人ずつナンバリングされた名札が配られ、それぞれ胸につける。
TV番組のビデオカメラが回され、1人ずつ自己紹介と意気込みのコメントを撮られた。中には唐突な事で甘くコメントできていない研修生もいた。突発的な振りへの対応力も見られているのだろう。
俺たちのメンバーは、自分達の順番が回ってくるとお互いにエールを送り合った。別のカメラがその様子も撮影していたようだ。コメント撮りも卒なくこなせた。
他のグループの撮影が終わるのを待ちながら、ミコトと正宗と一緒にダンスの振りの再確認をする。槇のグループの番がきているようだ。ディレクターと思われる女性が熱心にインタビューしている。槇や優星は他の研修生より長くコメント撮りに時間がかけられているようだった。
優星の番が終わり、次は佐伯のコメント撮りが始まった。
「あれ、大丈夫なのか?」
佐伯は見る影もないほど窶れている。顔も青白く、覇気がない。ようやっとコメントを話せてはいるようだが、辿々しい。
その時、ふと俺の頭を脈絡もなく、あの鏡の中の祠の映像が過ぎった。そして思い出した。レッスン初日、佐伯はぶつかってその祠を壊してしまった事を。
「…いや、自分達の事に集中しよう」
自分に言い聞かせるように正宗に言った。


全員のコメント撮りが終わり、研修生達は名札の数字の順番通りに整列させられる。横一列に大体5〜6人、前後に三列で配置される形だ。俺とミコトと正宗は最前列だった。
鏡越しにお互いアイコンタクトで健闘を送り合う。何気なく後ろの列を見ると、二列目の俺の斜め後ろのカメラが近い位置に優星、さらにその後ろの三列目に槇と佐伯が配置されていた。
(今日は全員同時に踊るのか?)
連日の稽古の時とは違い、4人組ごとの選考ではないようだ。他の研修生達も戸惑っているようだった。しかし、逆にこの方が平等に審査してもらえるというものだ。もし各グループに番号が振られ、順にダンスを披露するなら、どうしたって何番目に当たったかという事自体が評価に影響を及ぼす。トップバッターと最後はどうしても不利になる傾向があるからだ。
フロアの端の方からTVクルーがカメラを回して俺たちを狙っている。全員ダンスの様子を撮りたいのだろう。いわゆる撮れ高というやつか。
「では、始めます」
ダンス講師が開始の宣言をする。
心なしか息苦しくなってきた。体温が上昇する。研修生全員の緊張がピークまで達した。

曲が開始した。

俺は無我夢中で踊り始める。何度も練習したステップを軽やかに踏む。表情は固くならないように、意識を集中する。まずまず好調な滑り出しだった。
17人の研修生が同時に踊る光景は圧巻だった。キュッキュッという靴底がフローリングに擦れる音が音楽に合わせて空間に弾ける。みんながみんな、今自分の最善最高のダンスをこの場にぶつけている。相乗効果となり、一つの大きな作品の一部になったような感覚になる。俺はなんだかこの場に来て、無性に楽しくなって仕方がなかった。自然に笑みがこぼれる。
レッスンスタジオのカーテンは全て解放されていた。四方の壁の鏡が俺たちを映し出して、迫力に拍車をかけていた。

その時は急に訪れた。曲も終盤に差しかかる頃だ。数人の研修生達の動きが、曲とずれてきている。動きが緩慢になっていく。
(え?こんな演出あったっけ…?)
じっくりと観察する余裕はなかったが、それでも彼らの目が虚ろになっているのがわかった。明らかに彼らはリズムが狂ってきている。俺は釣られないよう、意識を自分の踊りに集中させる。しかし、異変はそれだけではなかった。

曲が終わらない。

本来、4分42秒で終わるはずの曲がまたサビからリピートを始める。不自然にならないよう、そのパートの振り付けに戻り、みんな踊り続ける。鏡越しに、他の研修生達の戸惑いが感じられた。みんな同じように感じているようだ。正宗とミコトとも目が合う。ミコトはそれでも涼しげな顔で踊り続ける。俺と正宗は気合いを入れ直すように目配せし、腹を括って踊り続ける覚悟を決めた。
だが……
(テンポアップしてないか…?)
曲のテンポが速くなってきている気がする。
(くそ…っ、死んでも、遅れない…!!)
顔が強張ってきたかもしれない。それでも苦しい顔は見せられない。意識を表情と耳に集中させる。必死で曲に合わせて踊り続ける。
さすがに息が上がってきた。頬が熱くなり、涙腺が緩む。涙か汗かわからないものが目頭を伝った。
研修生の中には大々的に息が上がってきた者、腕が上がらなくなってきた者が出てき始めた。
(……まだ、……まだだ…!まだやれる)
頭痛がする。少し目が霞む。振り付けに合わせて首を振り、なんとか正気を保つ。

「…えっ」
「うを…っ!」
後ろの研修生達から戸惑いの声が飛んできた。今度はなんだ?余裕はないながらも鏡越しに後方の様子に目を向けた。

(……な、なんだ、あれ…)
ざわついていたのは三列目、佐伯の周りだった。目の端に一瞬映ったのは、尋常ではない様子で踊り狂う佐伯の姿だった。
俺はしこたまギョッとして、一瞬、ダンスを止めて振り返りそうになるのを堪える。

佐伯は青白さを通り越した緑色の顔で、白目を剥きながら一心不乱にダンスを続けている。今や大きく立ち位置をずれ、三列目の後ろにまで大きく下がり、俺の位置からは、二列目、三列目で踊り続ける研修生達の複数の腕の振りや身体に見え隠れしながら、不安定に移動しているのが見えた。

俺は自分のパートのターンのタイミングで一回転すると同時に、佐伯を目で追う。
佐伯は足がもつれ、千鳥足のようになりながらも、辛うじて倒れず、ふらふらと踊り続けている。同時に手足が操り人形のように、四方八方へとバラバラに、ぐんにゃりゆがんでいる。心なしか異様に手脚が伸びている様にもみえる。まるで〝ゾンビ〟だ。
見ていられなくて、俺は咄嗟に目を逸らした。しかしそれでも、ターンするたびに不気味な佐伯のダンスが目の端に飛び込んでくる。更には、佐伯の首は人間ではありえない角度に上下180度回転しているではないか…!
(…嘘だ!)
胃液が上がってくる。堪えるために奥歯を噛み締める。これは、踊っている場合なのか…?そんな思いがふっと脳裏を過ぎっても、シナプスが意志決定する細胞に到達する前に途中で掻き消えてしまったかの様に思考が霧散する。判断力は今や完全に無力化していた。

俺もみんなも、ただただ何かに操られるかの様に踊り続ける。
レッスンスタジオの奥側で踊っていた研修生が倒れた音がした。でももう気にかける余裕が全然ない。
正面を向いて意識を保とうとするも、鏡には異様な肢体で手脚を振り回す佐伯が映りこむ。
佐伯の隣で踊っていた槇が「ひっ」と声を上げた。
しかし、ダンス講師も上條さんも何も言わない。
曲も止まらない。エンドレスでサビをリピートし続ける。
俺たちも止まれない。
さすがに研修生全員ともに息があがってきた。踊り続ける事で熱くなった身体から迸る汗と冷や汗が同時に吹き出す。
頭の中はもうすでにぐちゃぐちゃである。正しい思考ができない。どこをどう踊っているのかわからない。
心拍数はあがっているのに、鼓動を許さない何かに、雁字搦めに心臓を鷲掴みにされたみたいに無茶苦茶に苦しい。肺に空気がはいらない。
それでも、俺たちは踊り続ける。
バタバタと何人かの研修生が倒れる。
「ぎゃ……!」
遂に、佐伯が大きく振りかぶった身体で周りの研修生達を巻き込み、泡をふきながら倒れた。

そこで漸く曲が止まった。

(やっと、終わっ…)
そう思うものの、身体が全く止まらない。振り付けを繰り返しながら、俺はその場にへたり込む。周りも同じ様な有様で、正宗も膝をついている。意識が朦朧とする。「どういう事なの!?」と叫ぶ上條さんの声が遠くの方から聞こえる。
徐々に、目の前が暗くなってきた。頬に冷たさを感じ、それがフローリングなのだと気づくか気づかないかのうちに周囲の音が聞こえなくなってきた。意識を手放す直前、眼球だけ正面の鏡に映ったものを認識していた。
鏡には、最後に1人立ちつくすミコトの姿が映っていた。