ぼくらの恋には込み入った事情が。

 漆原がバイトをしていた書店に行き、雑誌を購入した。レジを担当したのは漆原をかわいがっていた店長で、おれのことをおぼえていた。漆原のことを聞かれたが、なにも答えられなかった。店長は会計を通した雑誌の巻頭に掲載されている小説が漆原が書いたものだとは夢にも思っていないようだった。
 漆原の勤務終了時間を待っていた向かいのファストフード店に入り、アイスコーヒーを飲みながら雑誌をひらいた。
 スマホの画面で時間を確認する。そろそろ式典がはじまる時間だ。最後の最後にさぼってしまった。クリスマスイブにカラオケボックスで親を呼び出されてからは、真面目に受験勉強に取り組んでいたのだが。両親はまた激怒し、落胆するだろうが、しかたない。今はただ自分の感情の赴くままに行動したかった。卒業式に出席したところで、小説のつづきが気になって集中できないのは明らかだ。それならいっそ行かないほうがいい。
 コーヒーを口に含み、ゆっくりと飲み下した。周囲の喧噪が耳に入らなくなり、奇妙な緊張感に包まれた。小さく息をついてから、ページを捲った。

 風間に告白された。
 もしかすると好意を持たれているのかもしれないと感じたことはこれまでに何度もあった。キスされたし、バイト先にも頻繁に会いにきていた。でも直接はっきりといわれたことはなかったから、驚いたし、正直、戸惑った。
 ぼくの手を握る風間の顔は真剣で、冗談をいっているようには思えなかった。男同士だからという理由だけで断ることはできなかった。実際に、ぼくのほうも、風間といる時間を心地よく感じはじめていたし、触れられることにも拒否感はなかった。ふつうは、男に体を触られたら、それだけで嫌悪をおぼえるものではないか。すくなくとも、性別を理由に拒絶することはなかった。
 だけど、付き合ってほしいといわれて、すぐには頷けなかった。高校を卒業したら遠くに行くことが決まっていたし、なによりも、自分の気持ちに自信が持てなかった。だれかを好きになるのも、好きだといわれるのもはじめてだったから……

 漆原がおれの告白を真摯に受け止めていてくれたことをあらためて実感し、たまらない気持ちになった。無下に突き放すことも曖昧に濁すこともしない漆原の態度を優柔不断だと思う人間もいるかもしれない。しかし、中途半端なことを嫌う漆原の性格もまたよくわかっていた。
 コーヒーを飲むことも忘れ、夢中で読みすすめた。家族と離れていっしょに暮らしてほしいというおれの頼みを真剣に考え、それぞれの将来や家族のことも考えて、悩んでいた。
 クリスマスイブにデートに誘われたときの胸の高鳴りや、その日がくるまでの緊張もていねいに書きこまれていた。バイト先の店長に頼みこんでシフトを調整し、数年ぶりに新しい服を買いに出かけた。無機質な文字を目で追いながら、思わず口元が緩んだ。すこしは楽しみにしてくれていればと思っていたが、期待以上だったようだ。

 イルミネーションを見て、渋谷の街を散歩した。飲食店はどこも満席で、夕食を取りそびれたせいで空腹だったけれど、不満はなかった。正直なところ、ひとごみも満員電車も苦手だったけど、風間とふたりでいるだけで楽しかった。電車のなかで体が密着して、ドキドキした。そのときに、風間のことが好きなんだとはっきりわかった。ぼくにとっても、いつの間にか風間は大切でかけがえのない存在になっていた。風間と付き合いたい。風間の恋人になりたいと思った。

 思わず声を漏らした。鼻の奥が熱くなり、慌てて顔を伏せた。隣の席でハンバーガーを頬張っていた中年男が怪訝な眼差しを向けてきた。
 漆原もおれを好きだとあらためて確信し、いてもたってもいられなくなった。今すぐ漆原に会いたかった。
 逸る気持ちを抑えて、さらにページを捲った。そこから先の展開はあまり直視したくない現実だ。おれたち……いや、「風間健太郎」と「ぼく」はカラオケボックスで互いの気持ちを確かめあい、二度目のキスをする。おれは漆原の肌に触れ、首にも肩にも胸にもキスをした。あのときの興奮は今でも鮮明に頭のなかに甦らせることができた。
 そこまではよかった。問題はそのあとだ。個室に乱入してきた店主に邪魔をされ、おれたちは幸福の絶頂から一気に地獄に叩き落とされた。

 その先はおれも知らない事実だった。「ぼく」は父親に風間とのことを正直に話した。風間と真剣に付き合いたいということ。引っ越しはせず、ひとり残って、風間とふたりで関東近郊に部屋を借りていっしょに暮らしたいということを打ち明けた。
 真面目で反抗することもなかった長男の突然の告白に、父親は激怒した。深夜徘徊で問題を引き起こしたことも重なり、印象は最悪だった。同意できるはずがない。相手が男であることも、古い価値観の持ち主である父親には耐えがたかった。父親は「ぼく」を連れて県外へ住まいを移し、スマホやパソコンも取りあげた。「ぼく」にとってはつらい選択だった。風間とおなじくらい、父親や兄弟を大切に思っていた。天秤にかけるものではない。
 しかし、「ぼく」は諦めなかった。それから約2か月の間、懸命に父親を説得し、最終的に、難攻不落に見えた父親を陥落することに成功した。

 文字が揺れはじめた。ページを捲る指先が震えていた。
 クリスマスイブの夜に別れてから今までの間、おれは漆原を恋しく思い、小説を読み耽ることで現実から逃げようとしていた。しかし、おれがめそめそしている間に、漆原はふたりの未来のためにできることをすべてやっていた。だれも頼らず、だれも責めずに、やってのけた。
 最後のページを読みはじめて、おれは手を止めた。体が硬直し、動けなくなった。次の瞬間、鞄をつかみ、店を飛び出していた。

 卒業式を終えたばかりの高校は、卒業生や在校生、家族たちの姿で溢れ、そこかしこで記念撮影が行われていた。ひとの群れを掻き分けるように校舎内に入り、教室に向かった。おれのクラスでなく、漆原のクラスの教室だ。
 4組の教室では卒業証書を手にした卒業生がいくつもの塊をつくって写真撮影に興じていた。元野球部の美馬がおれに気づいて手を振ってきた。
「風祭!」
 大きな声にほかの連中も振り返る。
「あれ? 風祭じゃん」
「おまえ、なんで卒業式こなかったんだよ」
「漆原は?」
 質問は無視して、聞き返した。おれの表情はかなり切迫していただろう。同級生たちが不思議そうに顔を見合わせる。
「漆原?」
「ああ、おまえの彼女か」
 下世話な笑いが起きる。おれは笑わなかった。美馬の制服の襟をつかみ、もう一度いった。
「漆原どこにいる? 卒業式にきてただろ」
 さすがに不穏な空気を感じたのか、美馬が眉間に皺を寄せる。おれから目を逸らし、仲間たちに視線を向けた。
「さあ。きてたか?」
「そういえばいたような気もするけど」
「あいつ影薄いからな」
 最後まで聞かずに教室を出た。また噂になるかもしれないが、どうでもよかった。どうせ二度と足を踏み入れることもない場所だ。
 式典会場の体育館にも職員室にも漆原の姿はなかった。おれは校舎を後にした。一度も振り返ることなく、次に向かう場所へと走った。

 アパートの1階に漆原の姿を見つけたときのおれの気持ちを文字にすることは、漆原でさえできないだろうと思った。
 漆原は制服姿で、半開きのリュックの隙間から卒業証書の筒が覗いていた。すこし猫背の特徴的な立ち方で、後ろ姿でもすぐに漆原だとわかった。郵便受けを開け、急な引越のせいで溜まりに溜まった郵便物を確認している。
 名前を呼び、振り向かせて、顔を見たいと思った。なのに声が出ない。学校から漆原の住んでいたアパートまで全速力で走ってきたために息が荒くなっていたこともあるが、声が喉に絡みついて外に出てこなかった。
 ゆっくりと、漆原が振り返った。おれの気配を察したわけではないだろうが、まるでおれがそこにいることを知っていたかのように、体の向きを変えてこちらを向いた。おれに気づくと、微笑んだ。
「風祭」
「漆原……」
 互いに名字で呼んだのは、距離が離れていたからではなく、はじめて会ったときの記憶が一瞬で甦ったからだ。
 しばらくの間、ふたりともなにもいえなかった。数メートルの距離をおいて、おれたちは見つめあっていた。ドラマや小説なら、駆け寄って力いっぱい抱きしめ、顔じゅうにキスをして愛情を確かめあうのだろう。しかし、現実はフィクションとはちがうのだ。
「……なんで卒業式にいなかったの?」
「……おまえがいると思わなかった」
 鞄のなかから小説雑誌を取り出した。漆原の瞳が一瞬揺らめいた。
「ここに書いてあるの見て……」
 小説のなかで、「ぼく」はひとりで新幹線に乗り、卒業式に出席する。そこで3か月ぶりに最愛の相手と再会するのだ。
「おまえこそ、なんで連絡しなかったんだよ」
 もう一度漆原に会えたらどんな言葉を渡すか、ずっと考えていた。候補はいろいろだったが、これでないことは確かだった。
「嫌われたのかと……」
「本当に?」
 漆原の眼がまっすぐにおれを見る。澄んだきれいな眼だった。この眼差しが好きだった。
「ぼくに嫌われたって本当に思った?」
「いや……」
 雑誌を持つ手に力をこめた。漆原の作品は私小説でありながら、おれへの手紙でもあった。
「思わなかった」
 おれが答えると、漆原はにっこり微笑んだ。
「風祭は?」
 大量の郵便物を両手に持って、漆原はいった。
「ぼくのことまだ好き?」
「好きだ」
 即答した。言葉にしたとたん、気持ちが渦を巻いて沸き上がってきた。高波に押し寄せられるように、おれは駆け出した。渾身の力で漆原を抱きしめた。3分前にすべきことだった。おれはいつもぼんやりしていて、空回りばかりで、情けない男だ。けれど漆原が好きだといってくれるなら、それら全部含めたおれを許容できる。
 漆原の手から郵便物が落ちて地面に散らばった。漆原の首に顔を埋めると、懐かしい匂いがした。
「風祭」
 耳のすぐ近くで漆原が囁いた。おれの口から声とも息ともつかない音が漏れた。漆原の匂い、漆原の声、漆原の感触。
「これ見て」
 漆原が屈んで、散らばった郵便物のなかから1通を拾い上げた。白い封筒にA4サイズの薄い紙が1枚に、厚みのある細長い紙が2枚。
「映画の無料券」
 鮮やかな黄色のチケットを摘まみ上げ、おれの前にかざす。
「映画館で会員登録したときに応募したやつ、当たったみたい」
 渋谷の映画館の会員証を思い出した。直後のキスの記憶が鮮明すぎて、かき消されてしまっていたが、確かに応募用紙に名前を書いた。おれには通知がなかった。ふたりのうち漆原だけが当選したのだろう。
「ぼくね、こういうのは当たらないひとだって、自分のこと思ってた」
 映画のチケットを見つめて、漆原はいった。
「でも、これからは、自分はこうだって決めつけるの、やめようと思う」
 胸がいっぱいになって、言葉が出ない。漆原と出会っておれが変わったのとおなじように、漆原も変わったのかもしれない。そう思うと、形容しがたい喜びで全身が熱くなった。
「いっしょに観に行ってくれる?」
「あたりまえだろ」
 もう一度、漆原を抱きしめて、いった。
「いつ行く?」
「いつ?」
 おれの言葉に、漆原は笑った。
「いつでもいいよ」
 漆原の肩越しに、郵便受けの前で持ち主から離れて寂しげに佇んでいるキャリーケースが見えた。かなり大きなサイズだった。卒業式に出席するだけの荷物にしては大きすぎる。
 参った。泣きそうだ。どうしてこんなことができるのか。
「顕」
 漆原は両手でおれの顔を包んだ。おれの額に自分の額を擦りつけ、いった。
「小説だとここでキスする」
 おれは笑った。泣き笑いの表情はそうとう情けなかっただろう。でも気にならなかった。漆原を抱きしめ、フィクションの世界とひとつになった。