これまで漆原がサイト上に公開してきた小説はすべて三人称で書かれていた。一人称は今回がはじめてだった。
物語は平凡な男子高校生の「ぼく」が、同級生の風間健太郎にキスされたことからはじまる。突然変化した関係に「ぼく」は戸惑いながらもすこしずつ風間を意識するようになっていく。思春期の少年の心の動きがこまかい描写とともに瑞々しく書かれており、連載1話目からすでに話題を呼んでいるようだった。
URUのSNSアカウントのフォロワー数はドラマ放映時よりもさらに増加し、10万人に迫る勢いだった。前年放送された連続ドラマ「ラブコミ」の続編制作が発表されたことも重なり、URUの知名度は限られた趣味のコミュニティだけにとどまらず急激に拡大していった。
漆原のSNSは編集担当者が引き継いでいるのか、連載やドラマの宣伝がほとんどで、もとともとすくなかった日常的な投稿は皆無になっていた。おれのアカウントはブロックされたままで、こちらからコンタクトを取ることはできない。
漆原は電話番号を変えてしまったのか、LINEのアカウントは12月に別れたときからずっと未読のままだった。おれのSNSアカウントを検索すれば向こうから連絡を取ることは可能なはずだが、メッセージが届くことはなかった。
それでも、漆原の気持ちが変わっていないことを信じられたのは、書店で偶然見つけた専門誌の小説があったからだ。1月に発刊された雑誌に掲載されたということは、小説を書いたのはもっと前だろう。クリスマスにデートするよりずっと前、おそらく夏頃ではないか。おれと離れたあとで執筆を中断し掲載を差し止めることも難しいだろうが不可能ではないはずだ。小説が掲載され世のなかに出ていることが、漆原のおれに対するメッセージだというのはあまりに都合がよすぎる考えだろうか。
2月に発売された号に掲載された第2話では、駅前の公園で待ち合わせたときのことが書かれていた。待ちびとは一向に姿をあらわさず、深夜の公園でひとり待ちつづける「ぼく」の傷ついた心が雨に濡らされていく描写が涙を誘った。多くの読者が心を動かされただろうが、おれにとっては過去の後悔が甦り、心臓を搾り切られるようだった。おれは何度も漆原を傷つけてきたのに、小説のなかで「ぼく」が風間を責めることはなかった。
はじめのうち、風間の態度に困惑していた「ぼく」も、いっしょの時間を過ごすうちにすこしずつ警戒を解き、風間とのなにげない会話に心地よさをおぼえるようになっていった。風間は強引にキスしてしまったことを反省し、気持ちを圧しつけるようなことはしなかったが、それでも言動の端々に「ぼく」への好意がはっきりと感じられた。
はじめて向けられる明確な恋愛感情に、「ぼく」は躊躇いながらも徐々に心を揺らしていく。そんなとき、風間に彼女ができたと聞かされ、烈しく動揺する。忘れようと距離を置いたが、気持ちは高まるばかりだった。好意を持たれていると意識しはじめたことで相手に惹かれ、勘違いだったと知っても後に退くことができない気持ちはよくわかった。おれも漆原も互いに劣等感を抱え、だれかに必要とされること、だれかの特別な存在になることに強烈に執着していた。おれたちは似たもの同士だったということかもしれない。自分にない部分に惹かれたのではなく、似ているからこそ互いを求めた。極寒の雪山で身を寄せあうように、互いを必要とした。
おれは何度も繰り返し小説を読んだ。一文字一文字に漆原の体温がこもっているかのようで、紙の表面に指を這わせて行間をなぞった。無機質なパルプの感触は、ずっと前に触れた漆原の肌を思い出させた。もう一度漆原に触れたかった。声を聞き、匂いを嗅ぎたかった。
クリスマスデートの約束を交わしたところで、2話目は終わっていた。3月に発売される号で話のつづきが読めるようになっていたが、おれの心中は複雑だった。クリスマスイブに起きることを知っていたからだ。読者が期待しているようなロマンティックな夜にはならない。
ベッドの上に仰向けになり、雑誌のページを捲る手を止めた。胸の上に雑誌を置き、天井を見上げる。ほかの小説に出てくる主人公たちもどことなく漆原に似ていたが、相手の「風間健太郎」とはちがい、共通のモデルがいると漆原が明言することはなかった。しかし、この「ぼく」が漆原であることは明白で、「ぼく」の心境はすなわち漆原のものといえる。
そして「風間健太郎」にももはやモデルはいない。風間健太郎はおれ自身だった。小説を読みながら、ドラマを見ながら、複雑な気持ちを抱いていたのは、理想の王子様のような風間健太郎に気後れのようなものを感じていたからだ。無意識に劣等感を抱き、架空の「風間健太郎」に近づこうと無理に格好をつけていた。漆原の関心を引くためではない。自分自身を納得させるために背伸びをしていた。架空の人物を相手に対抗心を燃やしていた。まったく愚かな話で、笑えてくる。
もう自分を偽る必要はない。風間健太郎とおれはひとつの存在だった。
これを書いているとき、漆原はおれのことを考えていたはずだ。今この瞬間にも、おれを思っているだろうか。おれが漆原の匂いや声や笑顔を思い出しているのとおなじように。
目を覚ましてすぐにスマホを確認することを毎朝の習慣にしているのは、おれだけでなく、現代の高校生のほとんどがそうだろう。この日は朝から大量のLINEが届いていた。
卒業式の朝だ。クラスの生徒たちが集まるグループでは式典の内容や終了後の卒業パーティについての話題で持ちきりだった。
とはいえ、おれを含め、大学受験の合否がまだ判明しない者も多い。全員が羽を伸ばせるわけでもなかった。それがなくても、パーティに参加するつもりはなかった。今日はURUの小説が連載されている雑誌の最新号の発売日だ。式典を終えたら書店に直行するつもりだった。
担任教師へのサプライズプレゼントの演出について、クラスの目立つ数人がLINE上で盛り上がっている。漆原がいなくなってからは、イブの夜に起きたことなど忘れてしまったかのようにだれもその話を口にしなくなり、やがて漆原の名前を聞くこともなくなった。
学校で、何度か漆原のクラスの前を通ったが、窓際の漆原の席にはべつの生徒が座っていた。靴箱にもロッカーにも漆原の痕跡は残っていなかった。漆原の記憶を呼び起こすものはなにひとつなく、喪失感が増すだけだった。
制服を着て1階に降りる。リビングで姉の日沙乃が朝食を取っていた。仕事が休みなのか、スウェット姿で、化粧もしていない。トーストを囓りながら新聞を広げている。
「おはよう」
「おう」
「パン焼く?」
「いらない」
冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出す。食欲はない。朝食はこれでじゅうぶんだ。
「今日はゆっくりだね。あ、卒業式か」
新聞の紙面に目を落としたまま、日沙乃が話しかけてくる。
「ドラマの続編制作、公式発表出たね」
「ああ」
「原作者の友達、だいじょうぶそう?」
「たぶんな」
どんな契約を交わしたのかは知らないが、プロデューサーは今のところ約束を守っているようだ。前作に引き続きイケメン俳優がキャスティングされていたが、前作のようなカップルを装ったプロモーション展開は行われていなかった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
玄関で靴を履いていると、姉がわざわざ見送りに出てきた。腕を組み、壁に凭れて末弟を見つめる。
「なんだよ」
「べつに」
眉を上げて、いった。
「卒業おめでとう」
「……ありがとう」
「自分の信じる道を行きな」
それだけをいって、再びリビングにもどっていく。賑やかなグループLINEを面倒に感じ、沈んでいた気持ちがいくらか軽くなっていた。
ドアを開け、家を出た。快晴だった。空には雲ひとつなく、春の澄んだ空気が漂っている。漆原に会いたい。強烈に思った。信じる道。日沙乃の言葉が頭のなかを駆け巡っていた。
鞄を持ちなおし、体の向きを変えた。学校とは真逆の方向へと、おれは歩き出した。
物語は平凡な男子高校生の「ぼく」が、同級生の風間健太郎にキスされたことからはじまる。突然変化した関係に「ぼく」は戸惑いながらもすこしずつ風間を意識するようになっていく。思春期の少年の心の動きがこまかい描写とともに瑞々しく書かれており、連載1話目からすでに話題を呼んでいるようだった。
URUのSNSアカウントのフォロワー数はドラマ放映時よりもさらに増加し、10万人に迫る勢いだった。前年放送された連続ドラマ「ラブコミ」の続編制作が発表されたことも重なり、URUの知名度は限られた趣味のコミュニティだけにとどまらず急激に拡大していった。
漆原のSNSは編集担当者が引き継いでいるのか、連載やドラマの宣伝がほとんどで、もとともとすくなかった日常的な投稿は皆無になっていた。おれのアカウントはブロックされたままで、こちらからコンタクトを取ることはできない。
漆原は電話番号を変えてしまったのか、LINEのアカウントは12月に別れたときからずっと未読のままだった。おれのSNSアカウントを検索すれば向こうから連絡を取ることは可能なはずだが、メッセージが届くことはなかった。
それでも、漆原の気持ちが変わっていないことを信じられたのは、書店で偶然見つけた専門誌の小説があったからだ。1月に発刊された雑誌に掲載されたということは、小説を書いたのはもっと前だろう。クリスマスにデートするよりずっと前、おそらく夏頃ではないか。おれと離れたあとで執筆を中断し掲載を差し止めることも難しいだろうが不可能ではないはずだ。小説が掲載され世のなかに出ていることが、漆原のおれに対するメッセージだというのはあまりに都合がよすぎる考えだろうか。
2月に発売された号に掲載された第2話では、駅前の公園で待ち合わせたときのことが書かれていた。待ちびとは一向に姿をあらわさず、深夜の公園でひとり待ちつづける「ぼく」の傷ついた心が雨に濡らされていく描写が涙を誘った。多くの読者が心を動かされただろうが、おれにとっては過去の後悔が甦り、心臓を搾り切られるようだった。おれは何度も漆原を傷つけてきたのに、小説のなかで「ぼく」が風間を責めることはなかった。
はじめのうち、風間の態度に困惑していた「ぼく」も、いっしょの時間を過ごすうちにすこしずつ警戒を解き、風間とのなにげない会話に心地よさをおぼえるようになっていった。風間は強引にキスしてしまったことを反省し、気持ちを圧しつけるようなことはしなかったが、それでも言動の端々に「ぼく」への好意がはっきりと感じられた。
はじめて向けられる明確な恋愛感情に、「ぼく」は躊躇いながらも徐々に心を揺らしていく。そんなとき、風間に彼女ができたと聞かされ、烈しく動揺する。忘れようと距離を置いたが、気持ちは高まるばかりだった。好意を持たれていると意識しはじめたことで相手に惹かれ、勘違いだったと知っても後に退くことができない気持ちはよくわかった。おれも漆原も互いに劣等感を抱え、だれかに必要とされること、だれかの特別な存在になることに強烈に執着していた。おれたちは似たもの同士だったということかもしれない。自分にない部分に惹かれたのではなく、似ているからこそ互いを求めた。極寒の雪山で身を寄せあうように、互いを必要とした。
おれは何度も繰り返し小説を読んだ。一文字一文字に漆原の体温がこもっているかのようで、紙の表面に指を這わせて行間をなぞった。無機質なパルプの感触は、ずっと前に触れた漆原の肌を思い出させた。もう一度漆原に触れたかった。声を聞き、匂いを嗅ぎたかった。
クリスマスデートの約束を交わしたところで、2話目は終わっていた。3月に発売される号で話のつづきが読めるようになっていたが、おれの心中は複雑だった。クリスマスイブに起きることを知っていたからだ。読者が期待しているようなロマンティックな夜にはならない。
ベッドの上に仰向けになり、雑誌のページを捲る手を止めた。胸の上に雑誌を置き、天井を見上げる。ほかの小説に出てくる主人公たちもどことなく漆原に似ていたが、相手の「風間健太郎」とはちがい、共通のモデルがいると漆原が明言することはなかった。しかし、この「ぼく」が漆原であることは明白で、「ぼく」の心境はすなわち漆原のものといえる。
そして「風間健太郎」にももはやモデルはいない。風間健太郎はおれ自身だった。小説を読みながら、ドラマを見ながら、複雑な気持ちを抱いていたのは、理想の王子様のような風間健太郎に気後れのようなものを感じていたからだ。無意識に劣等感を抱き、架空の「風間健太郎」に近づこうと無理に格好をつけていた。漆原の関心を引くためではない。自分自身を納得させるために背伸びをしていた。架空の人物を相手に対抗心を燃やしていた。まったく愚かな話で、笑えてくる。
もう自分を偽る必要はない。風間健太郎とおれはひとつの存在だった。
これを書いているとき、漆原はおれのことを考えていたはずだ。今この瞬間にも、おれを思っているだろうか。おれが漆原の匂いや声や笑顔を思い出しているのとおなじように。
目を覚ましてすぐにスマホを確認することを毎朝の習慣にしているのは、おれだけでなく、現代の高校生のほとんどがそうだろう。この日は朝から大量のLINEが届いていた。
卒業式の朝だ。クラスの生徒たちが集まるグループでは式典の内容や終了後の卒業パーティについての話題で持ちきりだった。
とはいえ、おれを含め、大学受験の合否がまだ判明しない者も多い。全員が羽を伸ばせるわけでもなかった。それがなくても、パーティに参加するつもりはなかった。今日はURUの小説が連載されている雑誌の最新号の発売日だ。式典を終えたら書店に直行するつもりだった。
担任教師へのサプライズプレゼントの演出について、クラスの目立つ数人がLINE上で盛り上がっている。漆原がいなくなってからは、イブの夜に起きたことなど忘れてしまったかのようにだれもその話を口にしなくなり、やがて漆原の名前を聞くこともなくなった。
学校で、何度か漆原のクラスの前を通ったが、窓際の漆原の席にはべつの生徒が座っていた。靴箱にもロッカーにも漆原の痕跡は残っていなかった。漆原の記憶を呼び起こすものはなにひとつなく、喪失感が増すだけだった。
制服を着て1階に降りる。リビングで姉の日沙乃が朝食を取っていた。仕事が休みなのか、スウェット姿で、化粧もしていない。トーストを囓りながら新聞を広げている。
「おはよう」
「おう」
「パン焼く?」
「いらない」
冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出す。食欲はない。朝食はこれでじゅうぶんだ。
「今日はゆっくりだね。あ、卒業式か」
新聞の紙面に目を落としたまま、日沙乃が話しかけてくる。
「ドラマの続編制作、公式発表出たね」
「ああ」
「原作者の友達、だいじょうぶそう?」
「たぶんな」
どんな契約を交わしたのかは知らないが、プロデューサーは今のところ約束を守っているようだ。前作に引き続きイケメン俳優がキャスティングされていたが、前作のようなカップルを装ったプロモーション展開は行われていなかった。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
玄関で靴を履いていると、姉がわざわざ見送りに出てきた。腕を組み、壁に凭れて末弟を見つめる。
「なんだよ」
「べつに」
眉を上げて、いった。
「卒業おめでとう」
「……ありがとう」
「自分の信じる道を行きな」
それだけをいって、再びリビングにもどっていく。賑やかなグループLINEを面倒に感じ、沈んでいた気持ちがいくらか軽くなっていた。
ドアを開け、家を出た。快晴だった。空には雲ひとつなく、春の澄んだ空気が漂っている。漆原に会いたい。強烈に思った。信じる道。日沙乃の言葉が頭のなかを駆け巡っていた。
鞄を持ちなおし、体の向きを変えた。学校とは真逆の方向へと、おれは歩き出した。



