ぼくらの恋には込み入った事情が。

 はじめてのキスはゲロの味がした。そういったら、馬鹿にされるか同情されるかのどちらかだろう。ぼくもこんな経験は想像していなかった。それほど夢見がちなわけではないが、人並みに、好きな相手と心を通わせてするものだと思っていた。現実には胸の高鳴りもあたたかい余韻もなく、ただ驚きと戸惑いだけを残して、あっという間に終わった。
 友達ともいえない、ただ学校がおなじだけの同級生が、なぜ突然キスなんかしてきたのか、ぼくには理解できなかった。それも同性だ。以前に彼女がいたことは知っていたし、ぼくはとくに美少年というわけでもなければ女の子と間違われたこともない。そんなことになるとは想像もしていなかった。
 はじめは悪趣味な悪戯だと思った。恋愛経験がなく、学校でも浮いているぼくを揶揄っているのだろうと。思いがけない状況でキスをされたことよりもそちらのほうが悲しかった。恋愛感情でなくとも、風間といるのは楽しかったし、映画に誘われて嬉しかったからだ。ここ数カ月ほどは学校の外で会うことも増えて、友情のような気持ちも生まれていた。相手にもおなじ感情を求めていたわけではないが、どうやら関係性への認知にずれが生じていたらしい。
 たとえ友情とはべつの興味をぼくに対して抱いていた場合でも、了解も得ずにいきなりキスするのは人権を無視した利己的な行為だし、そういう意識の有無にかかわらず、ぼくを下に見ているとも考えられた。なによりもつらいのはそのことだった。嫌われるよりも見下されるほうが悲しい。
 翌日、学校で、風間が教室にきたが、顔を合わせることはできなかった。怒りよりも戸惑いのほうが大きく、冷静に話をするのは難しかった。
 その日の夜、風間が自宅にきた。学校では避けられたが、家にこられたら逃げるわけにもいかない。しかたなく、アパートの外で話すことにした。
「家まできてごめん」
 街灯の下で向かいあうと、風間は開口一番に謝った。表情が強張り、目線が下に向いている。
「こないだのこと、謝りたくて」
 伏せられていた目が遠慮がちにぼくを見た。
「本当に悪かった。おまえの気持ちも考えないで……」
 まっすぐにぼくを見る目は真剣そのものといった色で、悪戯のようには見えなかった。
「ゆるしてもらえるとは思わないけど……」
「風間は」
 遮るようにいった。
「なんでぼくにキスしたの?」
 昨日からずっと聞きたかったこと。直接ぶつけるのには勇気が必要だった。風間に見られないよう、背中に回した右手の拳を握り締めた。
「なんでって……」
「気まぐれ?」
「ちがう」
 即座に否定したが、代わりになる言葉が見つからないようで、せわしなく瞳を左右に揺らしている。慌てた表情を見ていると、怒りが消えて、もはやどうでもよくなった。
「もういい」
 気まずい沈黙を振り払うように首を振った。
「もういいって……」
「反省してるのはわかったから」
 ぼくの本心をはかりかねているのか、風間は口を半開きにしたままでじっとこちらを見ている。なんとなく、笑ってしまった。ここ数カ月いっしょに過ごして、風間のことがすこしずつわかってきた。不良ぶってはいても、根は気が小さくて、やさしいところもある。あれは一時の感情に流されたというか、衝動的なものだったのだろう。おなじことは二度と起きないはずだし、ぼくも忘れたほうがいい。
 すべて忘れ、なにもなかったことにすべきだ。わかってはいたが、すこし苦い舌の味と、想像よりやわらかい唇の感触は、簡単には消えなかった。

「顕?」
 通信がつながっても無言でいるおれを訝しんだのか、スマホの画面のなかで一澄が眉を顰めた。
「だいじょうぶか?」
「ああ。聞いてる」
 自室のベッドに寝そべって、気の抜けた返事をする。ビデオ通話に応じたのはほとんど気まぐれだった。最近のおれの様子を心配した両親が兄に連絡したせいで、何度も電話やLINEが送られていた。問題ないことを納得させなければ、永遠につづくだろう。
「調子よくなったか?」
「最初から悪くないよ」
 素っ気ない態度になったが、それはもとからだ。気にすることなく、兄はつづけた。
「あの子と会えてるのか」
「あの子って?」
 誤魔化そうとしたが、難しいだろうと考えなおした。ため息を飲みこんで、いった。
「会ってない。引っ越した」
「引っ越すのは3月じゃなかったか?」
「早まったらしい。学校で担任がいってた」
「それじゃ……」
 スマホの小さな画面のなかで、一澄が口を噤んだ。弟を気遣う言葉を探すように視線を巡らせる。
「べつに平気だよ」
「平気じゃないだろ」
 一澄が声のボリュームを上げる。背景は自室のようだが、だれかがいる気配がした。すこし声を落として、いった。
「会えなくてつらくないのか。本気で好きだったんだろ」
「過去形じゃない。今も好きだ」
「なら……」
「諦めたわけじゃない。答え合わせしてんだよ」
「答え合わせ?」
 兄の背後を人影が通り過ぎる。兄が振り返り、英語で二言三言言葉を交わした。女の声だった。
「彼女?」
「ああ……」
 失恋したばかりの弟に仲睦まじい様子を見せるのは憚られたのか、一澄は躊躇を見せた。しかし、背後の彼女は微妙な空気に気づかず、画面に顔を近づけた。
「顕、おれの彼女のローラ」
 隣の彼女にも英語でおれを紹介する。おれの英語の成績は悲惨なものだが、挨拶くらいはできる。黒縁眼鏡をかけたローラは拙い日本語で「こんにちは」といった。こちらに向かって軽く手を振る。風呂上がりなのか、肩にタオルをのせ、化粧はしていない。
 意外な気がした。兄の口ぶりから、勝ち気な美女を想像していた。実際の彼女は小柄で印象が薄く、手入れされていない眉の横に皰が浮いていた。中学、高校時代の兄はよく付き合っている相手を自宅に連れてきたが、どの女も美人でスタイルがよく、センスも抜群だった。これまでのどの相手よりも兄が深く惚れこみ、心酔している女は、皺だらけのTシャツに厚いレンズの眼鏡をかけ、すくなくとも一般的に魅力のある女性には見えなかった。
「……なんかちょっと想像とちがった」
 出かける支度をするという彼女が画面のなかから消えると、おれは正直にいった。
「かわいいだろ」
 兄は堂々と惚気ている。心底惚れているのだとすぐにわかった。
「うん、かわいい」
 嘘をついたわけではなかった。スーパーモデルのような美しい顔やスタイルがなくても、画面に映る笑顔はさわやかであたたかみがあり、対面する相手を穏やかな気持ちにさせる慈愛が見えた。
「ほんとに好きなんだな」
「彼女がすべてだよ」
 兄の言葉には羞恥も遠慮もなかった。
「今ふたりで住む部屋探してる」
「そっか。羨ましいな」
 自然と言葉が口をついて出た。
「顕、元気出せよ。おまえの好きな子も……」
「わかってる。向こうもおれのこと忘れてない」
「そうだな。きっと……」
「きっとじゃない。絶対だ」
 画面のなかで一澄が頷く。おれが確信を持っている本当の理由を兄は知らない。
 通話を終えると、おれは起き上がり、ベッドの枕元に置いてあった雑誌を手に取った。
 カラフルな装飾が施された表紙の中央に、見つめあう男ふたりのイラストが描かれている。いわゆるボーイズラブがテーマになった小説や漫画が掲載された専門誌だ。大きな字で「本誌初登場!URU先生連載開始!」と書かれている。
 「URU」が漆原のことだというのは、その下に追記された「大ヒットBLドラマ原作」の文字でわかる。雑誌で連載をはじめることになったという話は漆原から聞いていたが、書店で雑誌を見つけたときは心臓が跳ね上がった。中身を読んで、もっと驚くことになった。読者の期待を集めている話題の新人作家の商業誌デビュー作は、はじめての恋に戸惑いながらも成長していく男子高校生が主人公の青春小説で、漆原が小説を書いていることや家族、学校などのこまかい描写を除き、物語の展開はすべて去年の夏から今にかけておれたちふたりが経験したこととまったくおなじだった。