向きあったまま、おれたちは黙っていた。両側の部屋の騒音とテレビ画面のタレントの声が混じって室内に響き渡っている。
「……キスする?」
漆原が俯き、ほとんど口を動かさずに呟いた。
「なに?」
幻聴かと思い、聞き返した。漆原がおれを見上げた。薄明りのなか、テレビ画面が発する人工的な光が漆原の頬に斑模様を刻んでいた。
「……本気でいってんのか?」
漆原が顎を震わせて頷く。
「これも誕生日プレゼント?」
「そんな太っ腹じゃないよ」
漆原が唇の端を持ち上げる。膝に引っ掛けた指の付け根を弄りながら、いった。
「……したくなったらいえって、風祭がいったんじゃん」
漆原にはいつも驚かされる。小説やドラマなどよりもはるかに奇想天外で予測不能だ。だから夢中にならずにいられない。今すぐおれのものにしなければ。他のだれかが気づく前に。
ソファの上に膝を立て、顔を近づけた。肩に触れると、掌の下で漆原の筋肉が震えた。ぎゅっと目を瞑っておれを待っている。
首を伸ばし、素早く頬にキスをした。軽い音を立てて、すぐに離れる。漆原は拍子抜けしたような顔になり、直後、不服げに眉を顰めた。
「そこじゃ……」
「わかってる」
ニットの背中に両腕を回し、抱き寄せた。プールでも電車でも密着したが、こんなふうにするのははじめてだった。
きつく抱きしめられても、漆原は拒まなかった。おれに協力するようにソファの上で腿をずらし、身を預けてきた。厚いニット生地を通してでも、漆原の鼓動をはっきりと感じる。おれの心臓も跳ね上がり、うるさいほどだった。間違いなく、漆原も感じている。
漆原の両手が躊躇いがちにおれの背に触れる。細い首に鼻先を擦りつけ、大きく深呼吸した。漆原の匂いで鼻腔が満たされ、漆原の体温で体の熱が急上昇する。
「綴……」
耳朶の裏に唇を圧しあてて囁くと、腕のなかの体がびくっと震えた。
「名前やだ……」
「なんで?」
うなじの薄い皮膚を擦り、髪の束を指先に巻きこみながらいった。
「おれのことも名前で呼べよ。苗字長いだろ、お互い」
首から顎へと移動させ、額同士を擦りあわせる。漆原は縋るような眼でおれを見ていた。皮膚が汗ばんですこし湿っている。体温も上がりつづけている。こわいほどだ。
「呼べよ、綴」
「……顕」
切望していた言葉。口のなかに吸い取った。厚めの唇を塞ぎ、角度を変えて舌を差し入れた。前にしたときは衝動的で、一瞬のできごとだった。漆原にとっても事故のようなものだった。いや、事件かもしれない。いずれにしても、今日はちがう。あのときとはまるでべつのものだった。
漆原にとっては2度目のキスだ。おれも経験豊富というわけではないが、漆原は緊張で全身を強張らせていた。おれの舌をぎこちなく迎え入れ、遠慮がちに舌を絡める。背中に回された手に力がこもり、セーターの生地をつよく握る動きを感じた。
いとおしさが渦を巻いて全身を駆け巡った。唇を離し、大きく息を吐く。漆原も呼吸を荒くしていた。うまく力が入らないのか、おれの肩にしがみついてくる。
「好きだ」
声が掠れた。気持ちが込み上げて、自分ではどうすることもできなかった。
「……ぼくも好き」
おれの鎖骨にこめかみを圧しあて、背中を上下させながら、漆原が呟いた。今度こそ、幻聴だと思った。現実だとは思えない。思わず体を離したおれをまっすぐ見つめ、漆原はもう一度、はっきりといった。
「顕のこと好き」
すぐには言葉が出なかった。口中に溜まった唾液を飲みこんで、派手に噎せた。
「だいじょうぶ?」
「全然……」
咳き込みながらいって、もう一度漆原の両腕をつかむ。
「ほ、ほんとに?」
情けなくも、声が引っ繰り返った。漆原は嗤わなかった。真剣な表情で頷いた。
「じゃあ……おれたち両思い?」
漆原はもう一度、はっきり頷いた。流されているわけでも同情でもなく、ここにくる前から、すでに心を決めていたのではないかと思った。勘違いでもいい。流されていようが同情だろうが、なんでもいい。おれは全力で漆原を抱きしめた。恰好をつける余裕もなかった。
もう一度、今度はさらに深くくちづける。体重を乗せると、漆原の上半身が傾いだ。そのままソファに圧し倒す。帽子が滑り落ち、床に落下した。漆原は抵抗することなく、おれの首に腕を絡ませてきたが、ニットの裾から手を滑りこませると、緩んでいた体が強張った。
「ちょ……」
重なる唇の隙間から、困惑の息が漏れる。気づかないふりをして、さらに上まで掌を移動させた。腰を撫で、胸をまさぐる。わずかに汗ばんだ漆原の肌の感触がおれの理性を吹き飛ばした。
「ちょっと待って、待って……」
身を捩って逃げようとする漆原の腰をつかむ。下腹を圧しつけると、漆原の表情が変わった。プールで密着したときよりもさらに興奮し猛りきった部分で脚の付け根を圧迫され、慌てておれの胸に両手を張った。
「だめだって……」
「なんで」
圧し返される力に負けないつよさで漆原の腰を抱き、覆いかぶさる。おれの頭で照明を遮ると、漆原の表情は見えにくくなったが、困惑し、逃げたがっているのはわかった。
「こういうのは付きあってから……」
「じゃ付きあおう、今から」
逸る気持ちを抑えられそうになかった。思いが通じあったという事実がおれから冷静さを奪っていた。
「綴、おれたち付きあお」
「待ってってば。まだ……」
「なんでだよ。おれのこと好きっていったじゃん」
「いったけど……」
漆原が不自然に言葉を切った。胸元を撫でるおれの指先が小さく尖った感触をおぼえた瞬間だった。
「や……風祭!」
「名前で呼べって」
我慢できそうになかった。漆原の腰に跨り、下半身の動きを奪って、両手をつかんだ。漆原の手首は細く、腕力では相手にならないことがすぐにわかった。両手を拘束したまま、浮き上がったニットの裾を鼻先でずらす。プールではラッシュガードで隠されていた漆原の胸が露になり、さらに興奮が高まった。
漆原の胸は薄く、日焼けしていない肌には染みひとつなかった。胸の中心部分に舌を這わせると、漆原の腰が大きく跳ねた。なめらかな肌の表面で産毛が逆立ち、さらさらとした感触と汗ばんだ肌の熱さが、唇や顎や額を通して伝わってくる。
「綴……」
いとおしさを体のなかに閉じこめておくのが難しかった。おれは両腕を漆原の体に巻きつけ、がむしゃらに胸に舌を這わせ、舐めた。
「綴、好きだ。大好き……」
「顕……」
乳首を口に含むと、抵抗する力が弱まった。感じているのだとわかると、ますます自制が効かなくなった。おれは一度唇を離し、漆原の下腹に手を伸ばした。デニムのベルトをはずすと、漆原は慌てて上半身を起こした。
「待って待ってだめ!」
肩を圧されたが、体勢が悪いこともあり、ほとんど効果はなかった。スニーカーの踵がテーブルに衝突し、衝撃でプラスチックのコップやポテトフライが盛られた木籠が落下した。
漆原はおれの体の下から逃げ出そうと必死にもがいていたが、腿の上におれの全体重が乗っているためにろくに身動きもできない。漆原が動けないのをいいことに、おれは慌ただしい手つきで漆原のデニムのファスナーを下ろした。デニムの隙間から藍色の下着が覗けた。おれほどではないが、たしかに膨張している。掌を圧しつけると、漆原は声を上げた。煽情的な声だった。
下着のなかに手を入れようとして、漆原の体が小刻みに震えていることに気づいた。手を止め、顔を上げる。漆原は両腕を顔の前で交差していた。わずかに覗ける唇が濡れて震えている。頬も濡れていた。
「……泣いてんの」
声を掛けると、上半身を捩ってソファにこめかみを圧しつける。おれの視線を避けるように腕で顔を隠し、漆原は啜り泣いていた。
「ごめん……」
我を失っていたとはいえ、漆原を傷つけたいわけではなかった。漆原の両腕ごと腕のなかに抱きこんだ。
「ごめんな。こわかったよな」
顎の下で漆原が何度も頷く。
「ほんとにごめん。もうしない」
何度も詫びると、漆原は静かに視線を上げた。潤んだ瞳がおれを見上げた。罪悪感で圧し潰されそうだった。
「……嫌なわけじゃないよ」
空気に滲んで消えそうなほどかすかな声でいった。
「ただ心の準備が……」
「わかってる」
「もうすこし時間がほしい」
頷いて、やわらかい髪にくちづけた。おれたちの時間は有限だ。しかし、無理を強いることはできない。おれは自己中心的な男だが、漆原を泣かせたくなかった。
「我慢させてごめん」
「謝んな。おまえは全然悪くない」
子どもをあやすように髪を撫でて、いった。
「好きっていってくれただけでじゅうぶんだから」
頬に唇を圧しつけ、涙の雫を啜った。
「本気なんだよな?」
「冗談でこんなこといわない」
漆原が手を持ち上げ、おれの顔を両掌で包んだ。あたたかい手だった。
「大好き」
誘われるように上半身を落とし、漆原にキスをした。さっきまでのように荒々しいものではなく、ていねいに、いとおしさを噛みしめるように何度も啄んだ。
「顕……」
漆原がなにかいおうと唇を薄くひらいたとき、突然個室のドアがノックされ、直後に外側から勢いよく開けられた。
「はい、失礼しますよ」
店のロゴの刺繍が入った古いエプロンを身に着けた初老の男が許可も得ずに部屋に入りこんできた。店のオーナーであることを示すネームタグを胸につけている。おれは慌てて身を起こし、漆原はたくしあげられていたニットの裾を引きもどした。
「ちょっ……勝手に入ってくんなよ!」
「声が外に漏れてたんで」
おれたちを交互に見て、床に落ちた帽子や眼鏡の奥の目が鋭く光っているように見えた。こういうことは珍しくないのだろう。とくに驚くこともなく、冷静に部屋を見渡して状況を把握しようとしていた。
「なにしてたんですかね?」
「べつに……」
口ごもるおれを冷ややかな目つきで見下ろし、いった。漆原は店主の視線を避けるように身を縮めて、顔を逸らしている。
「うちラブホじゃないんですよね」
「だからなにもしてないって……」
「きみ、だいじょうぶ?」
おれの抗議は無視し、漆原の前にしゃがみこむ。俯いている漆原の顔を覗きこむ。
「なにかされたなら……」
「なにもされてません」
漆原は即座に否定したが、相手は納得していない様子だった。ベルトがはずれ、下着を覗かせて、泣き顔を床に向けている漆原を見て、ただごとではないと感じたのだろう。
「きみ、いくつ?」
おれは無言で天井を仰いだ。漆原の幼い顔立ちと小柄な体躯は中学生にさえ見える。嘘に慣れていない漆原はなにも答えられずに黙りこんでしまった。
「ちょっときなさい。身分証確認させてもらう」
店主に腕を取られて、漆原がよろけながら立ち上がる。怯えた目がおれを見た。
「ちょっと待てよ。なんもないっていってんだろ!」
「きみはここで待ってなさい。未成年なら親に連絡する」
おれに向ける視線と言葉は漆原を相手にしているときとはまったく異なる厳しさだった。ソファの上で折り重なった体勢に、着衣を乱して泣いている漆原。誤解されてもしかたない状況ではある。弁解しようとするおれを制して、店主は漆原を引きずるように個室を出ていった。
狭い個室の中央で、おれはひとり呆然と立ち尽くしていた。さっきまでは両思いになった高揚と誕生日の祝福、抱きあい、唇を吸いあって互いの気持ちを確かめた興奮で身が火照るほどあたたかかった室内が急激に冷えて、凍えるようだった。テレビ画面のなかで小学生のような女性アイドルと中年MCがはしゃぐ声をどこか遠くに聞きながら、おれは身震いした。
「……キスする?」
漆原が俯き、ほとんど口を動かさずに呟いた。
「なに?」
幻聴かと思い、聞き返した。漆原がおれを見上げた。薄明りのなか、テレビ画面が発する人工的な光が漆原の頬に斑模様を刻んでいた。
「……本気でいってんのか?」
漆原が顎を震わせて頷く。
「これも誕生日プレゼント?」
「そんな太っ腹じゃないよ」
漆原が唇の端を持ち上げる。膝に引っ掛けた指の付け根を弄りながら、いった。
「……したくなったらいえって、風祭がいったんじゃん」
漆原にはいつも驚かされる。小説やドラマなどよりもはるかに奇想天外で予測不能だ。だから夢中にならずにいられない。今すぐおれのものにしなければ。他のだれかが気づく前に。
ソファの上に膝を立て、顔を近づけた。肩に触れると、掌の下で漆原の筋肉が震えた。ぎゅっと目を瞑っておれを待っている。
首を伸ばし、素早く頬にキスをした。軽い音を立てて、すぐに離れる。漆原は拍子抜けしたような顔になり、直後、不服げに眉を顰めた。
「そこじゃ……」
「わかってる」
ニットの背中に両腕を回し、抱き寄せた。プールでも電車でも密着したが、こんなふうにするのははじめてだった。
きつく抱きしめられても、漆原は拒まなかった。おれに協力するようにソファの上で腿をずらし、身を預けてきた。厚いニット生地を通してでも、漆原の鼓動をはっきりと感じる。おれの心臓も跳ね上がり、うるさいほどだった。間違いなく、漆原も感じている。
漆原の両手が躊躇いがちにおれの背に触れる。細い首に鼻先を擦りつけ、大きく深呼吸した。漆原の匂いで鼻腔が満たされ、漆原の体温で体の熱が急上昇する。
「綴……」
耳朶の裏に唇を圧しあてて囁くと、腕のなかの体がびくっと震えた。
「名前やだ……」
「なんで?」
うなじの薄い皮膚を擦り、髪の束を指先に巻きこみながらいった。
「おれのことも名前で呼べよ。苗字長いだろ、お互い」
首から顎へと移動させ、額同士を擦りあわせる。漆原は縋るような眼でおれを見ていた。皮膚が汗ばんですこし湿っている。体温も上がりつづけている。こわいほどだ。
「呼べよ、綴」
「……顕」
切望していた言葉。口のなかに吸い取った。厚めの唇を塞ぎ、角度を変えて舌を差し入れた。前にしたときは衝動的で、一瞬のできごとだった。漆原にとっても事故のようなものだった。いや、事件かもしれない。いずれにしても、今日はちがう。あのときとはまるでべつのものだった。
漆原にとっては2度目のキスだ。おれも経験豊富というわけではないが、漆原は緊張で全身を強張らせていた。おれの舌をぎこちなく迎え入れ、遠慮がちに舌を絡める。背中に回された手に力がこもり、セーターの生地をつよく握る動きを感じた。
いとおしさが渦を巻いて全身を駆け巡った。唇を離し、大きく息を吐く。漆原も呼吸を荒くしていた。うまく力が入らないのか、おれの肩にしがみついてくる。
「好きだ」
声が掠れた。気持ちが込み上げて、自分ではどうすることもできなかった。
「……ぼくも好き」
おれの鎖骨にこめかみを圧しあて、背中を上下させながら、漆原が呟いた。今度こそ、幻聴だと思った。現実だとは思えない。思わず体を離したおれをまっすぐ見つめ、漆原はもう一度、はっきりといった。
「顕のこと好き」
すぐには言葉が出なかった。口中に溜まった唾液を飲みこんで、派手に噎せた。
「だいじょうぶ?」
「全然……」
咳き込みながらいって、もう一度漆原の両腕をつかむ。
「ほ、ほんとに?」
情けなくも、声が引っ繰り返った。漆原は嗤わなかった。真剣な表情で頷いた。
「じゃあ……おれたち両思い?」
漆原はもう一度、はっきり頷いた。流されているわけでも同情でもなく、ここにくる前から、すでに心を決めていたのではないかと思った。勘違いでもいい。流されていようが同情だろうが、なんでもいい。おれは全力で漆原を抱きしめた。恰好をつける余裕もなかった。
もう一度、今度はさらに深くくちづける。体重を乗せると、漆原の上半身が傾いだ。そのままソファに圧し倒す。帽子が滑り落ち、床に落下した。漆原は抵抗することなく、おれの首に腕を絡ませてきたが、ニットの裾から手を滑りこませると、緩んでいた体が強張った。
「ちょ……」
重なる唇の隙間から、困惑の息が漏れる。気づかないふりをして、さらに上まで掌を移動させた。腰を撫で、胸をまさぐる。わずかに汗ばんだ漆原の肌の感触がおれの理性を吹き飛ばした。
「ちょっと待って、待って……」
身を捩って逃げようとする漆原の腰をつかむ。下腹を圧しつけると、漆原の表情が変わった。プールで密着したときよりもさらに興奮し猛りきった部分で脚の付け根を圧迫され、慌てておれの胸に両手を張った。
「だめだって……」
「なんで」
圧し返される力に負けないつよさで漆原の腰を抱き、覆いかぶさる。おれの頭で照明を遮ると、漆原の表情は見えにくくなったが、困惑し、逃げたがっているのはわかった。
「こういうのは付きあってから……」
「じゃ付きあおう、今から」
逸る気持ちを抑えられそうになかった。思いが通じあったという事実がおれから冷静さを奪っていた。
「綴、おれたち付きあお」
「待ってってば。まだ……」
「なんでだよ。おれのこと好きっていったじゃん」
「いったけど……」
漆原が不自然に言葉を切った。胸元を撫でるおれの指先が小さく尖った感触をおぼえた瞬間だった。
「や……風祭!」
「名前で呼べって」
我慢できそうになかった。漆原の腰に跨り、下半身の動きを奪って、両手をつかんだ。漆原の手首は細く、腕力では相手にならないことがすぐにわかった。両手を拘束したまま、浮き上がったニットの裾を鼻先でずらす。プールではラッシュガードで隠されていた漆原の胸が露になり、さらに興奮が高まった。
漆原の胸は薄く、日焼けしていない肌には染みひとつなかった。胸の中心部分に舌を這わせると、漆原の腰が大きく跳ねた。なめらかな肌の表面で産毛が逆立ち、さらさらとした感触と汗ばんだ肌の熱さが、唇や顎や額を通して伝わってくる。
「綴……」
いとおしさを体のなかに閉じこめておくのが難しかった。おれは両腕を漆原の体に巻きつけ、がむしゃらに胸に舌を這わせ、舐めた。
「綴、好きだ。大好き……」
「顕……」
乳首を口に含むと、抵抗する力が弱まった。感じているのだとわかると、ますます自制が効かなくなった。おれは一度唇を離し、漆原の下腹に手を伸ばした。デニムのベルトをはずすと、漆原は慌てて上半身を起こした。
「待って待ってだめ!」
肩を圧されたが、体勢が悪いこともあり、ほとんど効果はなかった。スニーカーの踵がテーブルに衝突し、衝撃でプラスチックのコップやポテトフライが盛られた木籠が落下した。
漆原はおれの体の下から逃げ出そうと必死にもがいていたが、腿の上におれの全体重が乗っているためにろくに身動きもできない。漆原が動けないのをいいことに、おれは慌ただしい手つきで漆原のデニムのファスナーを下ろした。デニムの隙間から藍色の下着が覗けた。おれほどではないが、たしかに膨張している。掌を圧しつけると、漆原は声を上げた。煽情的な声だった。
下着のなかに手を入れようとして、漆原の体が小刻みに震えていることに気づいた。手を止め、顔を上げる。漆原は両腕を顔の前で交差していた。わずかに覗ける唇が濡れて震えている。頬も濡れていた。
「……泣いてんの」
声を掛けると、上半身を捩ってソファにこめかみを圧しつける。おれの視線を避けるように腕で顔を隠し、漆原は啜り泣いていた。
「ごめん……」
我を失っていたとはいえ、漆原を傷つけたいわけではなかった。漆原の両腕ごと腕のなかに抱きこんだ。
「ごめんな。こわかったよな」
顎の下で漆原が何度も頷く。
「ほんとにごめん。もうしない」
何度も詫びると、漆原は静かに視線を上げた。潤んだ瞳がおれを見上げた。罪悪感で圧し潰されそうだった。
「……嫌なわけじゃないよ」
空気に滲んで消えそうなほどかすかな声でいった。
「ただ心の準備が……」
「わかってる」
「もうすこし時間がほしい」
頷いて、やわらかい髪にくちづけた。おれたちの時間は有限だ。しかし、無理を強いることはできない。おれは自己中心的な男だが、漆原を泣かせたくなかった。
「我慢させてごめん」
「謝んな。おまえは全然悪くない」
子どもをあやすように髪を撫でて、いった。
「好きっていってくれただけでじゅうぶんだから」
頬に唇を圧しつけ、涙の雫を啜った。
「本気なんだよな?」
「冗談でこんなこといわない」
漆原が手を持ち上げ、おれの顔を両掌で包んだ。あたたかい手だった。
「大好き」
誘われるように上半身を落とし、漆原にキスをした。さっきまでのように荒々しいものではなく、ていねいに、いとおしさを噛みしめるように何度も啄んだ。
「顕……」
漆原がなにかいおうと唇を薄くひらいたとき、突然個室のドアがノックされ、直後に外側から勢いよく開けられた。
「はい、失礼しますよ」
店のロゴの刺繍が入った古いエプロンを身に着けた初老の男が許可も得ずに部屋に入りこんできた。店のオーナーであることを示すネームタグを胸につけている。おれは慌てて身を起こし、漆原はたくしあげられていたニットの裾を引きもどした。
「ちょっ……勝手に入ってくんなよ!」
「声が外に漏れてたんで」
おれたちを交互に見て、床に落ちた帽子や眼鏡の奥の目が鋭く光っているように見えた。こういうことは珍しくないのだろう。とくに驚くこともなく、冷静に部屋を見渡して状況を把握しようとしていた。
「なにしてたんですかね?」
「べつに……」
口ごもるおれを冷ややかな目つきで見下ろし、いった。漆原は店主の視線を避けるように身を縮めて、顔を逸らしている。
「うちラブホじゃないんですよね」
「だからなにもしてないって……」
「きみ、だいじょうぶ?」
おれの抗議は無視し、漆原の前にしゃがみこむ。俯いている漆原の顔を覗きこむ。
「なにかされたなら……」
「なにもされてません」
漆原は即座に否定したが、相手は納得していない様子だった。ベルトがはずれ、下着を覗かせて、泣き顔を床に向けている漆原を見て、ただごとではないと感じたのだろう。
「きみ、いくつ?」
おれは無言で天井を仰いだ。漆原の幼い顔立ちと小柄な体躯は中学生にさえ見える。嘘に慣れていない漆原はなにも答えられずに黙りこんでしまった。
「ちょっときなさい。身分証確認させてもらう」
店主に腕を取られて、漆原がよろけながら立ち上がる。怯えた目がおれを見た。
「ちょっと待てよ。なんもないっていってんだろ!」
「きみはここで待ってなさい。未成年なら親に連絡する」
おれに向ける視線と言葉は漆原を相手にしているときとはまったく異なる厳しさだった。ソファの上で折り重なった体勢に、着衣を乱して泣いている漆原。誤解されてもしかたない状況ではある。弁解しようとするおれを制して、店主は漆原を引きずるように個室を出ていった。
狭い個室の中央で、おれはひとり呆然と立ち尽くしていた。さっきまでは両思いになった高揚と誕生日の祝福、抱きあい、唇を吸いあって互いの気持ちを確かめた興奮で身が火照るほどあたたかかった室内が急激に冷えて、凍えるようだった。テレビ画面のなかで小学生のような女性アイドルと中年MCがはしゃぐ声をどこか遠くに聞きながら、おれは身震いした。



