改札の前に立って、スマホの画面を確認する。この1時間で何度も繰り返してきた動作。約束の時間までまだすこし時間があったが、どうにも落ち着かない。
駅に併設された百貨店のショーウインドウに映る自分の姿を確認する。これももう何度目かわからない。ずっとおれを観察している人間がいたら、かなりのナルシストだと思われるだろう。
兄のクローゼットから拝借した濃いブラウンのコーデュロイジャケットにタートルネックセーター、ワイドパンツとレザーブーツは今日のために買った。気温からすればマフラーもほしいところだが、お気に入りのマフラーはすこし前に漆原のバイト先の前で待っていた日にどこかへ置き忘れていたようだった。
LINEの通知音。漆原かと思ったがちがった。一澄だった。「頑張れ」という激励のスタンプ。一澄には服のコーディネートの相談とともに、今日また告白するつもりだと伝えていた。
指先でニットの裾のよれを伸ばし、前髪の乱れをなおす。兄のようなイケメンではないが、おれにしては悪くない。昨日の夜、緊張して寝つけなかったために目元の張りがいまいちだったが、それを除けば、まあ及第点といえる。
上半身を屈めてショーウインドウの鏡を覗きこんでいると、背後に漆原の姿が見えた。慌てて振り向くと、おれの姿に気づいた漆原が手を振った。
「待たせてごめん」
「いいよ。遅れてないだろ」
スマホのディスプレイを見ると、約束の時間を5分ほど過ぎていた。
「準備に時間かかっちゃって……」
漆原はグレーのオーバーサイズニットにライトブルーのデニム、スニーカーという服装だった。ファーがついた深緑色のニットキャップから細い髪がこぼれている。背中に背負ったリュック以外はすべてはじめて見るものだった。倹約家で自分の持ち物に金をつかわない漆原が今日のために買いそろえたのだとしたら、かなり衝撃的だ。
「今日の格好、すげえかわいい」
一歩後退して漆原の全身を眺め、感嘆の息を漏らした。これから死ぬまで毎日姉の肩を揉んでもいいと思った。
「世界一かわいい」
「そういうのいいから……」
漆原は顔をしかめたが、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「行くか」
駅に向かって歩きながら、さりげなく隣の漆原を見る。バルーンスリーブの袖から覗く指先に手を伸ばしかけ、ぐっと抑える。クリスマスイブだ。手を繋いで歩きたいと思ったが、いきなり漆原を警戒させたくはなかった。
「バイト、よく休めたな」
「なんか気を遣われた」
「え?」
「デートだと思われた」
寒さのせいか、それともおれの期待がそう見せているのか、漆原の顔は赤かった。
「デートじゃねえの?」
「デートじゃないだろ」
漆原は強調したが、クリスマスイブにふたりでいられれば、おれにはそれでよかった。それも、誕生日の前日だ。
「おうちで誕生日パーティとかしないの?」
「するかよ。18だぞ」
姉はシングル仲間の女友達と飲み会、両親は仲良くディナーに出かけていた。
「漆原のとこは? 譲たち、留守番してくれてんだろ?」
「お父さん、いるから」
「帰ってきてんのか?」
漁船に乗って長期間海に出ていた父親が帰ってきているとは初耳だった。
「いつ?」
「先週」
「漁、終わったのか?」
「うん。借金も全額返済できたし、こっちでいろいろ準備とかもあるから」
準備というのは引っ越す準備のことだろう。漆原はあえてはっきりいわなかったが、察することは簡単だった。3か月後には漆原は東北へ引っ越してしまう。離れ離れになることを互いに意識していたが、口に出すことはなかった。
なんとなく、ふたりとも黙りこんだ。
「今日はどこ行くの?」
空気を切り替えるかのように、明るい口調で漆原が尋ねてくる。サプライズのつもりで生き先は知らせていなかった。
「イルミネーション見に行こう」
「定番だね」
「こういうのは定番がいいんだよ」
「そうだね。イルミネーションはじめてだ、ぼく。楽しみ」
漆原が笑って、すこし空気が和んだ。目を背けていられない問題はあるが、今日くらいは忘れていたかった。
改札を出て、電車に乗る。都心に向かう車両は混雑していて、自然と互いの体が密着する。漆原の髪からはかすかにヘアオイルの香料の匂いがした。
「だいじょうぶか、漆原」
「うん」
緊張しているのか、笑顔がぎこちない。電車が揺れると、乗客の波が押し寄せ、密着が濃くなった。漆原のニットキャップのファーが鼻先を擽る。
今日、漆原の顔を見るまで、不安だった。テレビ局のおとなたちとおなじように、おれも自分の気持ちを一方的に押しつけて、漆原を悩ませているのかもしれないと思った。半ば強引に今日の約束を取りつけたのも、弱みに付けこんだようで、罪悪感があった。しかし、漆原はバイトの休みを捥ぎ取ってくれた。約束を果たすためだけなら、おれの話に適当に相槌を打ち、時間を消費して、帰れば済む話だ。わざわざ服を新調して髪をセットする必要はない。おれの半分以下でも、この日がくるのを楽しみにしてくれていたのではないか。何度も調子に乗ってそのたびに失敗しているのに、つい期待してしまう。
渋谷駅に到着すると、ひとの群れが一気に電車を降り、それぞれの目指す出口へ向けて人の波が渦を巻く。
袖を引かれる感覚に振り向くと、すぐ後ろで漆原がおれのコートの袖をぎゅっと握りしめていた。
「はぐれそうだからつかんでていい?」
「……ああ、うん、いいよ。つかんでろよ」
前に渋谷にきたときは、漆原への気持ちを自覚していなかった。あのときも胸が高鳴っていたが、今ほどではない。
ひとごみに紛れ、身を寄せ合うように改札を出る。渋谷の街は信じられないほど混んでいて、足元も見えないほどだった。
毎年クリスマスの時期に色とりどりのイルミネーションで彩られる公園通りから代々木公園までの道のりはとくにひとが多く、ほとんどが男女のカップルだった。男ふたりの組み合わせは極端にすくない。
ネットで見つけた情報のとおり、イルミネーションは見事だったが、ひとが多すぎてゆっくり眺めている余裕はなかった。名物の巨大なクリスマスツリーの前にはカップルが密集していて、写真も撮れなかった。ベルトコンベアに乗せられて自動的に移動していくように、人の波に流されていくだけだ。公園までたどり着いた頃にはふたりとも疲労困憊だった。
「平気か、漆原」
「うん」
隣を歩く漆原が笑顔を見せたが、慣れない人混みにあきらかに体力を消耗していた。
入念に下調べをしたつもりだったが、クリスマスイブの混雑状況は予想をはるかに超えていた。
近隣のレストランやカフェもすべて予約で満席になっていて、ファストフード店にさえ長蛇の列ができていた。
あちこち回ったが、けっきょく、夕食にはありつけなかった。座って休憩することもできず、空腹と疲労で重くなった体を引きずるようにして都心を離れた。地元に帰ってきたときには夜10時近くなっていた。
「なんかごめん」
小さな街の駅は、さすがに人通りもすくなく、パーティ帰りらしい若者の集団や泥酔した背広姿の会社員の姿は見られるが、渋谷の街ほどの賑わいはなかった。駅構内を歩きながら、いった。
「あんなひと多いと思わなかった。都会舐めてた」
ため息が深くなる。こんなはずではなかった。もっと慎重にプランを練るべきだった。
「楽しくなかっただろ」
「そんなことない。楽しかった」
「嘘つくなよ。やさしさでいってんだろ」
コートのポケットに両手を突っ込んで歩きながら、駅の天井を仰ぐ。
「おれマジで毎回やらかしてるわ」
「なんで? そんなことないって」
派手に反省しているおれを見て、漆原が笑う。
「漆原の理想にちかづけたいのに、全然うまくいかねえ」
「理想なんて……」
並んで歩きながら、漆原はいった。
「ないよ、そんなの」
「あるだろ」
「ないって。あんな小説書いてるからそう思うかもしれないけど、実際、ぼくはわりと現実主義だと思う」
穏やかな声で自己分析する。
「どっちかというと、風祭のほうが理想主義じゃない?」
否定しかけたが、冷静に考えれば、漆原のいうとおりかもしれない。おれは自分の理想を追求するために他人を利用している。年上のマネージャーも漆原のことも、本質的には変わらないのかもしれない。そういうおれの弱さや狡さを、漆原はわかっているのだ。
「来年は都会はやめとこう」
さりげなくいったが、漆原は曖昧に頷いただけだった。来年、もう一度やり直せるかはわからない。
改札を出たところで、どちらからともなく足を止めた。見つめあったが、言葉が出てこない。
「あ、そうだ」
数秒措いて、漆原がリュックを開け、なかから紙袋を取り出した。
「渡すの忘れるとこだった。はい、これ」
「なに」
「なか、見て」
促されて袋を開く。入っていたのは焦げ茶色のマフラーだった。
「クリスマスプレゼントと誕生日プレゼント兼用」
恥ずかしそうに漆原が首を窄める。おれが黙っているのを見て、おずおずといった。
「気に入らなかった?」
「あ、ごめん。ちがう」
手のなかのマフラーのあたたかさを実感するように、袋ごと胸に圧しつけた。プレゼントそのもの以上に、マフラーを紛失したことや色の好みをわかったうえで、おれのためにプレゼントを選んでくれた漆原の気持ちに、胸が熱くなった。
「うれしすぎてリアクション忘れてた」
「また大袈裟……」
拳を噛むように笑うと、冷気で息が白くなる。漂う息の間をすり抜けるように、漆原がおれに近づいた。
「巻いてみて」
「うん」
首を一周させ、両端を前に垂らす。
「前のほうでクロスさせるといいって、お店のひといってた」
「クロス?」
ファッションには疎い。だらしなくマフラーの端をぶらぶらさせていると、漆原が手を伸ばしてきた。
「ちょっと貸して」
マフラーの両端をつかみ、慣れた手つきで巻きなおす。漆原の髪の匂いを嗅ぎながら、おれはされるがままだった。
「できた」
胸の前で重ねるようにマフラーを巻いて、表面を掌でぽんと軽く叩く。満足げな表情がおれを見上げる。
「じゃあ……」
咄嗟に、漆原の肘をつかんだ。漆原が言葉を切る。
「まだ帰んなよ」
「え?」
「もうすこしいっしょにいたい」
予想以上に切迫した声になった。漆原の表情に戸惑いと躊躇いが混じる。
「でも……10時過ぎてるし、親が心配する」
「頼むよ、あとすこしだけ」
肘をつかむ手に力をこめ、嘆願した。
「家に帰ってもだれもいないし、ひとりで誕生日迎えんの寂しいだろ」
おれの狡さは相変わらずで、漆原もまた、流されていると知りながらも、あえておれの腕を振りほどかずにいた。
「……わかった」
すぐに根負けして、困ったような笑顔を見せる。
「あとちょっとだけ」
「やった」
拳を握りしめると、漆原がまた笑う。大袈裟だと思われている。
「なんか食いに行こう」
「うん。おなか空いた」
再び並んで歩き出す。渋谷の中心ほどではないが、クリスマスイブの夜、駅前は多くの通行人が行き交っている。
「つかんでなくて平気か?」
「そんなにひと多くないから」
「そっか」
隣を歩く漆原の腰に腕を回し、デニムに巻かれたベルトを摘まんだ。
「おれがつかむわ」
漆原がなにかいう前に、いった。
「迷子になったら困るから」
「迷子?」
漆原は笑った。正面を向いたまま、いった。
「歩きにくい」
おれの手を避けるように身をよじる。人通りのすくない裏通りに入ったところで再び体を近づけた。掌にあたたかい体温を感じ、おれは漆原を見た。ほぼ同時に、相手も視線を向けてきた。
「……手、いいの?」
「クリスマスだし……」
街頭に照らされた漆原の顔が朱に染まっている。勘違いではなかった。
漆原の手はやわらかく、あたたかかった。指を絡ませ、親指の腹で皮膚の表面を確認するように擦る。
漆原のいうとおり、おれは夢見がちの理想主義者だ。そう知ったうえで、おれの夢をひとつひとつ叶えてくれる漆原が好きだった。
「マジで腹減ったな」
「なんも食べてないもんね」
ほぼ同時に、腹が鳴った。胃が収縮する感覚に咄嗟に腹に手をやると、隣で漆原もまったくおなじ動作をしていた。視線が合い、いっしょに笑った。
クリスマスだからといえば、そうなのかもしれない。奇跡と思えるような幸せな時間が流れていた。しかし、この瞬間がずっとつづけばいいのにと考えずにはいられなかった。
駅に併設された百貨店のショーウインドウに映る自分の姿を確認する。これももう何度目かわからない。ずっとおれを観察している人間がいたら、かなりのナルシストだと思われるだろう。
兄のクローゼットから拝借した濃いブラウンのコーデュロイジャケットにタートルネックセーター、ワイドパンツとレザーブーツは今日のために買った。気温からすればマフラーもほしいところだが、お気に入りのマフラーはすこし前に漆原のバイト先の前で待っていた日にどこかへ置き忘れていたようだった。
LINEの通知音。漆原かと思ったがちがった。一澄だった。「頑張れ」という激励のスタンプ。一澄には服のコーディネートの相談とともに、今日また告白するつもりだと伝えていた。
指先でニットの裾のよれを伸ばし、前髪の乱れをなおす。兄のようなイケメンではないが、おれにしては悪くない。昨日の夜、緊張して寝つけなかったために目元の張りがいまいちだったが、それを除けば、まあ及第点といえる。
上半身を屈めてショーウインドウの鏡を覗きこんでいると、背後に漆原の姿が見えた。慌てて振り向くと、おれの姿に気づいた漆原が手を振った。
「待たせてごめん」
「いいよ。遅れてないだろ」
スマホのディスプレイを見ると、約束の時間を5分ほど過ぎていた。
「準備に時間かかっちゃって……」
漆原はグレーのオーバーサイズニットにライトブルーのデニム、スニーカーという服装だった。ファーがついた深緑色のニットキャップから細い髪がこぼれている。背中に背負ったリュック以外はすべてはじめて見るものだった。倹約家で自分の持ち物に金をつかわない漆原が今日のために買いそろえたのだとしたら、かなり衝撃的だ。
「今日の格好、すげえかわいい」
一歩後退して漆原の全身を眺め、感嘆の息を漏らした。これから死ぬまで毎日姉の肩を揉んでもいいと思った。
「世界一かわいい」
「そういうのいいから……」
漆原は顔をしかめたが、本気で嫌がっているわけではなさそうだった。
「行くか」
駅に向かって歩きながら、さりげなく隣の漆原を見る。バルーンスリーブの袖から覗く指先に手を伸ばしかけ、ぐっと抑える。クリスマスイブだ。手を繋いで歩きたいと思ったが、いきなり漆原を警戒させたくはなかった。
「バイト、よく休めたな」
「なんか気を遣われた」
「え?」
「デートだと思われた」
寒さのせいか、それともおれの期待がそう見せているのか、漆原の顔は赤かった。
「デートじゃねえの?」
「デートじゃないだろ」
漆原は強調したが、クリスマスイブにふたりでいられれば、おれにはそれでよかった。それも、誕生日の前日だ。
「おうちで誕生日パーティとかしないの?」
「するかよ。18だぞ」
姉はシングル仲間の女友達と飲み会、両親は仲良くディナーに出かけていた。
「漆原のとこは? 譲たち、留守番してくれてんだろ?」
「お父さん、いるから」
「帰ってきてんのか?」
漁船に乗って長期間海に出ていた父親が帰ってきているとは初耳だった。
「いつ?」
「先週」
「漁、終わったのか?」
「うん。借金も全額返済できたし、こっちでいろいろ準備とかもあるから」
準備というのは引っ越す準備のことだろう。漆原はあえてはっきりいわなかったが、察することは簡単だった。3か月後には漆原は東北へ引っ越してしまう。離れ離れになることを互いに意識していたが、口に出すことはなかった。
なんとなく、ふたりとも黙りこんだ。
「今日はどこ行くの?」
空気を切り替えるかのように、明るい口調で漆原が尋ねてくる。サプライズのつもりで生き先は知らせていなかった。
「イルミネーション見に行こう」
「定番だね」
「こういうのは定番がいいんだよ」
「そうだね。イルミネーションはじめてだ、ぼく。楽しみ」
漆原が笑って、すこし空気が和んだ。目を背けていられない問題はあるが、今日くらいは忘れていたかった。
改札を出て、電車に乗る。都心に向かう車両は混雑していて、自然と互いの体が密着する。漆原の髪からはかすかにヘアオイルの香料の匂いがした。
「だいじょうぶか、漆原」
「うん」
緊張しているのか、笑顔がぎこちない。電車が揺れると、乗客の波が押し寄せ、密着が濃くなった。漆原のニットキャップのファーが鼻先を擽る。
今日、漆原の顔を見るまで、不安だった。テレビ局のおとなたちとおなじように、おれも自分の気持ちを一方的に押しつけて、漆原を悩ませているのかもしれないと思った。半ば強引に今日の約束を取りつけたのも、弱みに付けこんだようで、罪悪感があった。しかし、漆原はバイトの休みを捥ぎ取ってくれた。約束を果たすためだけなら、おれの話に適当に相槌を打ち、時間を消費して、帰れば済む話だ。わざわざ服を新調して髪をセットする必要はない。おれの半分以下でも、この日がくるのを楽しみにしてくれていたのではないか。何度も調子に乗ってそのたびに失敗しているのに、つい期待してしまう。
渋谷駅に到着すると、ひとの群れが一気に電車を降り、それぞれの目指す出口へ向けて人の波が渦を巻く。
袖を引かれる感覚に振り向くと、すぐ後ろで漆原がおれのコートの袖をぎゅっと握りしめていた。
「はぐれそうだからつかんでていい?」
「……ああ、うん、いいよ。つかんでろよ」
前に渋谷にきたときは、漆原への気持ちを自覚していなかった。あのときも胸が高鳴っていたが、今ほどではない。
ひとごみに紛れ、身を寄せ合うように改札を出る。渋谷の街は信じられないほど混んでいて、足元も見えないほどだった。
毎年クリスマスの時期に色とりどりのイルミネーションで彩られる公園通りから代々木公園までの道のりはとくにひとが多く、ほとんどが男女のカップルだった。男ふたりの組み合わせは極端にすくない。
ネットで見つけた情報のとおり、イルミネーションは見事だったが、ひとが多すぎてゆっくり眺めている余裕はなかった。名物の巨大なクリスマスツリーの前にはカップルが密集していて、写真も撮れなかった。ベルトコンベアに乗せられて自動的に移動していくように、人の波に流されていくだけだ。公園までたどり着いた頃にはふたりとも疲労困憊だった。
「平気か、漆原」
「うん」
隣を歩く漆原が笑顔を見せたが、慣れない人混みにあきらかに体力を消耗していた。
入念に下調べをしたつもりだったが、クリスマスイブの混雑状況は予想をはるかに超えていた。
近隣のレストランやカフェもすべて予約で満席になっていて、ファストフード店にさえ長蛇の列ができていた。
あちこち回ったが、けっきょく、夕食にはありつけなかった。座って休憩することもできず、空腹と疲労で重くなった体を引きずるようにして都心を離れた。地元に帰ってきたときには夜10時近くなっていた。
「なんかごめん」
小さな街の駅は、さすがに人通りもすくなく、パーティ帰りらしい若者の集団や泥酔した背広姿の会社員の姿は見られるが、渋谷の街ほどの賑わいはなかった。駅構内を歩きながら、いった。
「あんなひと多いと思わなかった。都会舐めてた」
ため息が深くなる。こんなはずではなかった。もっと慎重にプランを練るべきだった。
「楽しくなかっただろ」
「そんなことない。楽しかった」
「嘘つくなよ。やさしさでいってんだろ」
コートのポケットに両手を突っ込んで歩きながら、駅の天井を仰ぐ。
「おれマジで毎回やらかしてるわ」
「なんで? そんなことないって」
派手に反省しているおれを見て、漆原が笑う。
「漆原の理想にちかづけたいのに、全然うまくいかねえ」
「理想なんて……」
並んで歩きながら、漆原はいった。
「ないよ、そんなの」
「あるだろ」
「ないって。あんな小説書いてるからそう思うかもしれないけど、実際、ぼくはわりと現実主義だと思う」
穏やかな声で自己分析する。
「どっちかというと、風祭のほうが理想主義じゃない?」
否定しかけたが、冷静に考えれば、漆原のいうとおりかもしれない。おれは自分の理想を追求するために他人を利用している。年上のマネージャーも漆原のことも、本質的には変わらないのかもしれない。そういうおれの弱さや狡さを、漆原はわかっているのだ。
「来年は都会はやめとこう」
さりげなくいったが、漆原は曖昧に頷いただけだった。来年、もう一度やり直せるかはわからない。
改札を出たところで、どちらからともなく足を止めた。見つめあったが、言葉が出てこない。
「あ、そうだ」
数秒措いて、漆原がリュックを開け、なかから紙袋を取り出した。
「渡すの忘れるとこだった。はい、これ」
「なに」
「なか、見て」
促されて袋を開く。入っていたのは焦げ茶色のマフラーだった。
「クリスマスプレゼントと誕生日プレゼント兼用」
恥ずかしそうに漆原が首を窄める。おれが黙っているのを見て、おずおずといった。
「気に入らなかった?」
「あ、ごめん。ちがう」
手のなかのマフラーのあたたかさを実感するように、袋ごと胸に圧しつけた。プレゼントそのもの以上に、マフラーを紛失したことや色の好みをわかったうえで、おれのためにプレゼントを選んでくれた漆原の気持ちに、胸が熱くなった。
「うれしすぎてリアクション忘れてた」
「また大袈裟……」
拳を噛むように笑うと、冷気で息が白くなる。漂う息の間をすり抜けるように、漆原がおれに近づいた。
「巻いてみて」
「うん」
首を一周させ、両端を前に垂らす。
「前のほうでクロスさせるといいって、お店のひといってた」
「クロス?」
ファッションには疎い。だらしなくマフラーの端をぶらぶらさせていると、漆原が手を伸ばしてきた。
「ちょっと貸して」
マフラーの両端をつかみ、慣れた手つきで巻きなおす。漆原の髪の匂いを嗅ぎながら、おれはされるがままだった。
「できた」
胸の前で重ねるようにマフラーを巻いて、表面を掌でぽんと軽く叩く。満足げな表情がおれを見上げる。
「じゃあ……」
咄嗟に、漆原の肘をつかんだ。漆原が言葉を切る。
「まだ帰んなよ」
「え?」
「もうすこしいっしょにいたい」
予想以上に切迫した声になった。漆原の表情に戸惑いと躊躇いが混じる。
「でも……10時過ぎてるし、親が心配する」
「頼むよ、あとすこしだけ」
肘をつかむ手に力をこめ、嘆願した。
「家に帰ってもだれもいないし、ひとりで誕生日迎えんの寂しいだろ」
おれの狡さは相変わらずで、漆原もまた、流されていると知りながらも、あえておれの腕を振りほどかずにいた。
「……わかった」
すぐに根負けして、困ったような笑顔を見せる。
「あとちょっとだけ」
「やった」
拳を握りしめると、漆原がまた笑う。大袈裟だと思われている。
「なんか食いに行こう」
「うん。おなか空いた」
再び並んで歩き出す。渋谷の中心ほどではないが、クリスマスイブの夜、駅前は多くの通行人が行き交っている。
「つかんでなくて平気か?」
「そんなにひと多くないから」
「そっか」
隣を歩く漆原の腰に腕を回し、デニムに巻かれたベルトを摘まんだ。
「おれがつかむわ」
漆原がなにかいう前に、いった。
「迷子になったら困るから」
「迷子?」
漆原は笑った。正面を向いたまま、いった。
「歩きにくい」
おれの手を避けるように身をよじる。人通りのすくない裏通りに入ったところで再び体を近づけた。掌にあたたかい体温を感じ、おれは漆原を見た。ほぼ同時に、相手も視線を向けてきた。
「……手、いいの?」
「クリスマスだし……」
街頭に照らされた漆原の顔が朱に染まっている。勘違いではなかった。
漆原の手はやわらかく、あたたかかった。指を絡ませ、親指の腹で皮膚の表面を確認するように擦る。
漆原のいうとおり、おれは夢見がちの理想主義者だ。そう知ったうえで、おれの夢をひとつひとつ叶えてくれる漆原が好きだった。
「マジで腹減ったな」
「なんも食べてないもんね」
ほぼ同時に、腹が鳴った。胃が収縮する感覚に咄嗟に腹に手をやると、隣で漆原もまったくおなじ動作をしていた。視線が合い、いっしょに笑った。
クリスマスだからといえば、そうなのかもしれない。奇跡と思えるような幸せな時間が流れていた。しかし、この瞬間がずっとつづけばいいのにと考えずにはいられなかった。



