ぼくらの恋には込み入った事情が。

「風祭」
 翌日の昼休み、教室の自分の席で机に突っ伏して昼寝をしていると、隣の席の同級生に起こされた。肩を揺すられ、顔をしかめて重い頭を持ち上げる。
「なんだよ」
「呼ばれてる」
「だれに?」
 同級生が指さす先に目を向け、思わず立ち上がった。教室の外、廊下に漆原が立っていた。窓枠に手をかけ、こちらを見ている。
「どうした、漆原?」
 漆原のクラスとは階が異なる。学校では接触することがほとんどない。漆原がおれの教室を訪ねてきたのははじめてだった。
「なんかあったのか?」
 思いがけない訪問に、うれしい気持ちよりも不安のほうが勝っていた。テレビ局との交渉が悪化したのかと思ったのだ。漆原は戸惑ったような顔をしていたが、表情は昏くなかった。
「さっき、テレビ局のひとから電話があった」
 周囲の視線を気にしながら、漆原はおれの腕を引いた。廊下の隅に移動して、声を顰めていった。
「授業中だったから出られなかったんだけど、着信が残ってたから今折り返して……」
 賑やかな女子たちの一団がすぐ脇を通り過ぎて、漆原は言葉を切った。
「で、なんて?」
 甲高い声が遠ざかるのを待って、漆原はいった。
「はじめて話すプロデューサーさんだったんだけど……」
 漆原が困惑の表情で俯く。
「今までのこと、全部謝ってくれた。ぼくの意見が通らなかったこととか、勝手にプロモーションしたこととか……」
 昨日、漆原と別れてから、すぐに姉の日沙乃に電話した。おれから電話があることは滅多になく、日沙乃は驚いたが、おれの話にさらに驚いた。一世を風靡したドラマの原作者が友人であることと、原作の意図を無視した演出や広報活動、続編の許可を取るために自宅に押しかけるなどの行動で迷惑がかかっていることを話すと、日沙乃は「確認する」とだけいって電話を切った。それきり今までなんの報告もなかったが、このタイミングからして、日沙乃が上層部に話を通したと考えるのが自然だろう。
 弱者や困窮者のために世界中の紛争地域をひとりで取材して回る姉だ。無条件に雇用主に肩入れして訴えを退けるようなことはしないと踏んでいたが、これほど早く対応してくれるとはさすがに考えていなかった。しかも日沙乃が所属する報道部とドラマ制作部とはまるで畑違いの部署だ。姉はまだ30代で、キャリアからしてもベテランの域には達していないはずだが、たった半日で巨大なテレビ局を動かせるところを見ると、社内ではそれなりの影響力は持つ存在らしい。
「風祭、なにかした?」
 昨日の今日だ。漆原も、おれの関与を直感したのだろう。LINEでも済むのに、わざわざおれの教室まできたくらいだ。
「おれじゃないよ」
「でも……」
「実は、姉貴がおなじテレビ局で働いてて……」
「ぼくのこと話したの?」
「名前とか関係とかは話してない。知り合いが困ってるってだけ」
 躊躇いながら、いった。
「よけいなお世話だとは思ったんだけど」
「そんなことない」
 漆原は即座に首を振った。
「ありがとう」
 漆原の言葉におれは安堵した。互いに緊張が解れ、自然と視線が合った。
「どうにもできないとかいってごめん」
「いや、実際、おれはなんもしてないし……」
「でもお姉さんに頼んでくれた」
「状況を説明しただけだよ。あとは全部姉貴がやってくれたと思う」
「お姉さんにお礼を……」
「伝えとく」
 漆原の肩に軽く触れる。ここが学校でなければ抱きしめたいところだ。
「じゃ、続編の話はなしになったんだな?」
「ううん」
 漆原は首を振って、いった。
「OKした」
「は? なんで」
 驚いて思わず声が大きくなった。慌てて囁く。
「せっかく解決したのに」
「謝ってくれたし、次はぼくの意見を尊重して、内容も事前にちゃんと相談してくれるって約束してくれたから」
「適当に嘘つかれてんじゃねえの」
「そうかもしれないけど、一生懸命やってくれるっていうから……」
 ため息をつく。どこまでお人善しなのか。
「ごめん」
 おれの態度を怒りと勘違いしたのか、漆原はおずおずといった。
「せっかく手配してくれたのに……」
「怒ってるんじゃねえよ」
 制服の腕を擦って、いった。
「漆原がそれでいいなら、おれがなんかいうことじゃない」
「……よかった」
 不安が解消され、漆原はわずかに表情を緩めた。
「風祭にもお礼したいんだけど」
「いいよ。おれ本当になにもしてないし」
 そこまでいって、ふと思い立った。
「24日、空いてる?」
「24日?」
「クリスマスイブ、いっしょに過ごせないかと思って」
 漆原は一瞬返答に詰まった。
「翌日、おれの誕生日だし。知ってると思うけど」
 焦って舌が縺れそうになる。緊張を隠すためにあえて軽い口調でいった。
「バイト入ってるよな?」
「入ってるけど……」
 漆原は迷うように瞳を揺らして、いった。
「シフト調整してもらえるか聞いてみる」
「ほんとか?」
「うん。今日頼んでみる」
「無理しなくていいんだぞ」
「たぶんだいじょうぶ。今までシフト調整お願いしたこと一回もないし」
「そっか」
「今約束できないけど」
「いいよ。連絡待ってる」
「うん」
 午後の授業開始が迫っていることを伝える予鈴が鳴った。
「じゃ、あとで」
 漆原が離れていく。咄嗟につかまえたくなる衝動を抑えた。
「あとでな」
「LINEするね」
「ん」
 階段を下りていく漆原の姿が見えなくなると、おれは胸の高鳴りを抑えるように短い息をついた。期待しないようにと自分にいい聞かせてはいたが、クリスマスデートできるかもしれないと思うと、落ち着かなかった。
「なににやにやしてんだよ」
 教室にもどると、後ろの席の友人が訝しげな顔を向けてきた。
「廊下で話してたの、4組の漆原じゃね? 仲いいの?」
「内緒」
「なんだよ、内緒って」
 それ以上は答えず、制服のポケットからスマホを取り出した。寝ていて気づかなかったが、数十分前に日沙乃からLINEが届いていた。なにか困ったことがあったらなんでも相談するようにというメッセージに「ありがとう」のスタンプで返信した。
 姉が優秀だということは知っていたが、これほど頼りになる存在だとは思っていなかった。兄に背中を押され、姉に問題を解決してもらったことで、おれのなかで燻っていた劣等感は完全に消えていた。両親だけでなく、姉兄にも大切にされてきたのに、家族に甘えるばかりで、感謝することもなかった。
 姉がいったように、漆原と会っておれは変わった。これまで以上につよく自覚した。姉は常に正しい。