ぼくらの恋には込み入った事情が。

 翌週、兄はアメリカに帰っていった。次に帰省するのは卒業する頃だろう。
 おれも元の生活にもどった。漆原に告白してから、おれの人生は再び輝き出した。塾での勉強を終え、書店の前で漆原のバイトが終わるのを待って、弁当屋まで送る。再びはじまった1日15分の習慣。たった15分で、おれは世界一幸福な男になれる。
 この日、漆原が出てくるのはいつもより遅かった。書店の反対側のファストフード店で待っていたが、店が混雑してきたために外へ出た。冷たい風が頬を刺し、身を震わせた。夕方から降りはじめた小雨はいつの間にか雪に変わっていた。
 鞄のなかに折り畳み傘が入っていた。入れたおぼえはなかった。母が気をきかせたのだろう。傘を差して、横断歩道を渡る。漆原が書店のドアを圧して出てくるのが見えた。真っ先にファストフード店に目を向け、いつもの席におれがいないのを訝しんでか、きょろきょろと視線を巡らせる。
 横断歩道を渡り終えても、おれはすぐには漆原に近づかず、すこし離れた位置から見つめていた。漆原がおれを見つけてくれるのを待っていた。
 それほど人通りの多い場所ではない。漆原はおれの姿にすぐ気づいた。ほっとしたように表情を緩める。
 おれへの気持ちをはっきり認識できないと漆原はいう。しかし、すくなくとも、こうしてバイト先の前で待ち伏せされることを不快には思っていないようだ。
 アメリカに帰る前の夜、一澄がおれの部屋のドアをノックした。おれは兄に漆原の話をした。告白の返事はOKではなかったものの、確実に距離は近づいているという実感。漆原がどれほど才能に溢れ、人間的に優れているか。おれをどんな気持ちにさせてくれるのか。
 2歳だけしか離れていないが、兄弟ふたりでそれほど長く話したのははじめてだった。兄はクローゼットに残してあった服のなかから数着をくれた。家を出る直前、両親や姉には気づかれないようにおれだけに「諦めんなよ」と囁いた。
「傘持ってねえの」
 雪の下に立っている漆原に近づき、頭の上に傘を差し出す。
「朝バタバタしたから」
 漆原はカーキ色のコートを着ていた。厚手だが、今日のように冷える日は少々心許ない。口元の周辺に白い息が纏わりついている。年末に向けてバイトが忙しいのか、顔には疲労の色が見えた。
「入れよ。肩濡れてるぞ」
「いい、平気」
「また風邪引くぞ」
「あれは風祭のせいだろ」
「そうだった」
 顔をしかめると、漆原は笑った。久しぶりに見る楽しそうな笑顔だった。譲がいったように、ここのところ漆原は元気がなかった。おれが困らせているせいかと思っていたが、どうやらちがうらしい。
「ほら」
 肩に腕を回して身を寄せる。漆原は抗わなかった。右半身に漆原の体の重みを感じる。互いに厚いコートを着込んでいても、たしかな体温を感じる。
 漆原は押しに弱い。やさしい性格のためか、はっきり断ることが苦手だ。だからおれのことも拒絶できない。おれはそのやさしさにつけこんでいる。
「なんか悩んでることとかあんならいえよ」
「べつに……」
 おれの視線に気づき、漆原が首を窄める。
「ただちょっと……いろいろあって」
「いろいろって?」
「……最近、譲が」
「譲?」
「反抗期入っちゃったかも」
 兄への不満を露わにする中学3年生の様子を思い出す。
「対応が難しくて……」
 漆原のため息は重い。模範そのもののような兄を持つ弟の気持ちは、漆原には理解できないだろう。
「気にすんなよ。時間が解決する」
「そういうものかな……」
「おれも中学のときは兄貴と口きかなかったから」
「そうなの?」
 漆原が意外そうな顔を向けてくる。
「仲いいと思ってた」
「冗談だろ。なんでだよ」
「服を共有してる」
「あれは……おまえと約束してたから」
 渋谷の映画館に行ったときのことを思い出し、いった。
「けっきょく、ゲロまみれになったけどな」
 また漆原が笑った。以前までは自分の汚点を晒すことがなにより嫌だった。今は抵抗を感じない。漆原が笑ってくれるほうが嬉しい。
「風祭って、いつもかっこつけるよね」
「おまえの前だからだろ」
 はじめのうちは、モデルとして注目されているという意識から、必要以上に気を張っていた。そのうち、ただ単純に、漆原にいいところを見せたいと思うようになっていた。
「失敗ばっかだけどな」
「そんなことない。ちゃんとかっこいいと思ってる」
 おれが足を止めると、漆原が傘の下を出て髪が雪に濡れた。おれが隣にいないことに気づいた漆原も立ち止まって振り返った。
「どうかした?」
「ごめん。なんでもない」
 歩みを進めて、漆原に傘を差しかける。
「かっこいいっていわれて動揺した」
「……なんだよ、それ」
 なんとなく、会話が途切れた。漆原がマフラーを摘まみ上げるのを見て、自分がマフラーをしていないことに気づいた。
「やべ」
「なに?」
「マフラー忘れた」
 今朝は巻いていたマフラーがいつの間にかなくなっている。
「さっきのお店? もどる?」
「いや、いいや。学校かもしれないし」
「でも寒くない?」
「そんなでもない。ヒートテック着てるし」
 嘘だった。本当は指先まで冷えきっていた。いつもどおり、漆原の前で強がっているだけだった。
「おまえこそ寒くないか」
「だいじょうぶ」
 弁当屋に向かう道を歩きながら、漆原が笑う。
「気遣いすぎ」
「やさしさを見せようかと」
「はは」
 漆原の照れ笑いもいつもとおなじだ。おれのことをすべて受け容れてくれるわけではないが、明確な拒絶もない。
「ほかには?」
「ほかにって?」
「悩みごと。弟のこと以外にもあるんだろ」
「ああ……」
 即座に否定しないことで肯定を示していた。
「ちょっとね」
「なんだよ。いえよ」
「風祭に話してどうなるものでもないから……」
「話してみないとわからないだろ」
「わかるよ」
「決めつけんなよ」
 すこしむっとして反論する。
「解決しなくても、話すだけでも気が楽になるかもしれないだろ」
「そっか……そうかもね」
 しつこく迫ると、漆原は迷いながらも話しはじめた。
「実は、ドラマの続編の話があって」
「続編?」
 漆原が原作を手掛けたドラマは9月末に放送が終了していた。今夏放送された連続ドラマのうち平均視聴率がもっともよかったらしい。兄がアメリカにもどったあと、姉が録画していたドラマをすべて見た。若手俳優の演技力は素人のおれから見ても稚拙で、過剰な演出も目立ってはいたが、考えていたほどの不快感や違和感はなかった。
 好評に終わったからこその続編制作だろうから、原作者としても喜ばしいことのはずだが、漆原の表情は曇っていた。
「断るのか?」
「実はもう断ったんだけど、どうにか頼めないかっていわれてて……」
 漆原は自身の作品のドラマ化にあまり積極的ではなかった。放送中に行われた主演俳優たちのファンや女性層を取り込むためのプロモーション手法にも疑問を感じているようだった。続編の要請に気が向かないのも頷けた。100万前後という原作料は高校生にとっては大金だろうが、金では解決できないものがあるのだろう。漆原の気持ちは理解できた。
「広報以外にも、いろいろ気になるところがあって……担当のディレクターさんには要望出してたんだけど、うまく伝わらないし。テレビのこととかエンタメのこととかはぼくにはわからないからずっと不安だった」
 原作者の権利を持っているとはいえ、高校生の立場で百戦錬磨の業界人と渡り合うのは難しいだろう。まして漆原は主張の強い性格ではないし、出版や権利に関しても素人だ。
「それで、もうこれ以上はやれませんっていったんだけど……」
「原作者が嫌だっていえばそれで済む話なんじゃねえの」
「理屈はそうだけど、いろいろおとなの事情があるみたい」
 もう一度ため息を吐いて、漆原がいう。
「テレビ局の担当者さんが上から絶対に許可を取るようにいわれてるみたいで、ぼくがOK出さないことですごく追い詰められて、体調崩して入院してるって……」
「だからなんだよ。漆原のせいじゃないだろ」
「そうかもしれないけど……」
 テレビ局の担当者の間にどんなやりとりがあったかは知らないが、社内の問題や上司からの重圧の責任を漆原に圧しつけるのは卑怯だと思った。間に立たされた担当者の立場も理解できなくもないが、会社のなかで解決すべきであって、漆原は関係ない。これでは脅迫とおなじではないか。
「今日、局のえらいひとがいきなりうちにきて、譲にも変に思われたし、誤魔化すのもたいへんで」
 漆原は小説を書いていることを弟たちに話していない。デリケートな内容なだけに、思春期の弟たちに知られるのには抵抗があるのだろう。おとななら、相手の事情に配慮するべきではないか。おれのなかでふつふつと怒りがわき上がり、沸騰していった。
「わかった」
 考えるより先にいっていた。
「おれがなんとかする」
「なんとかって……」
 漆原の瞳に戸惑いが浮かんだ。
「風祭にはどうにもできないよ」
「なんでわかんだよ」
 抗議するおれに、漆原は噛んで含めるようにいった。
「聞いてもらえただけでだいぶ気持ちが落ち着いたから。それだけでじゅうぶんだよ。ありがとう」
 漆原が力なく笑う。おれに解決できるはずがないと思い込んでいる。逆の立場ならおれもそう思う。高校生が立ち向かうには問題が大きすぎる。
「じゃ、行くね」
 弁当屋の建物が見えてきて、漆原が傘の陰から抜け出した。おれのほうに真っ直ぐ向いていう。
「話聞いてくれてありがとう。元気出た」
 目を細めたが、無理をして笑顔をつくっているのはあきらかだった。
 手を振りながら施設内に入っていく漆原の背中を見送りながら、おれは胸に決意を抱いていた。