深夜0時を回った頃、弁当屋の建物から漆原が出てきた。おれを見て驚いたように足を止める。
「風祭……」
戸惑いの表情を浮かべて立ち竦む漆原の前に立ち、いった。
「ちょっと話せるか」
「明日早いから……」
おれの脇を通り過ぎようとする漆原の腕をつかんだ。
「いっとくけど」
咄嗟に言葉が出ていた。
「兄貴、彼女いるから」
「え?」
「彼女とすげえラブラブだし、おまえの入る隙ないから」
舌打ちを堪えた。ここにくるまでに何度も頭のなかで唱えた言葉は一言も出てこなかった。
「なんの話……」
漆原はあきらかに困惑し、警戒していた。おれの腕を振り解こうと身を捩ったが、離さなかった。
「おれにしとけよ」
もう片方の腕もつかんで、顔を近づけた。工場の窓から漏れる薄明かりの下で、漆原が何度も瞬きしながらおれを見ている。
「え、なに……?」
「兄貴じゃなくておれにしろよ。おれ、漆原のこと一番に考えるし、絶対大事にする」
「だからなんの話か全然……」
「おれじゃなくて兄貴が好きなんだろ」
「はあ?」
賑やかな笑い声がして、漆原が言葉を切る。作業を終えた職員の一団が建物から出てくるところだった。
「こっちきて」
漆原に促されて、工場の裏に移動した。
「さっきからなんの話してるんだよ」
声をひそめて、漆原がいう。
「1年のときに会ったのが風祭じゃなくてお兄さんだったってことは聞いたけど、だからってべつにお兄さんのこと好きになるわけじゃないし関係ないよ」
「けど、おまえ……」
「それに、風祭だって彼女いるじゃん」
「は?」
思いがけない展開に、おれも眉間に皺を寄せた。
「お兄さんから聞いた」
漆原の表情が歪む。おれから目を逸らして、いった。
「すごくかわいくて、真面目でやさしい彼女だって、風祭がいってたって」
一瞬、なにを聞かされているのかわからなかった。
「おまえ、マジでいってんの?」
「マジでって……」
「おまえだよ」
「ぼくがなに?」
「おまえのことだよ、馬鹿」
「え?」
漆原の戸惑いが濃くなる。おれを見つめ、いった。
「そんなわけないじゃん」
「なんでだよ」
「だって……ぼく、男だし」
「向こうが勝手に彼女だと思ったんだよ」
「かわいくないし」
「かわいいだろ。かわいくて真面目でやさしいつったらおまえしかいないだろ。わざといってんのか、おまえ」
捲し立てるようにいうと、漆原は圧倒されたように身を竦めて、また俯いた。
「付き合ってないし」
「付き合ってただろ」
「付き合ってないよ。そんなこと一言もいってなかったじゃん」
「いったよ」
「いってないってば」
記憶を掘り返す。いわれてみれば、好きだとも付き合おうと明確には口にしていなかった気がした。
「でもおれかわいいっていったろ、おまえのこと」
「それは……キスしたいからいってるのかと……」
「おまえ、おれのことなんだと思ってんの? だいたい、好きでもない男にキスしたいとかいうかよ」
漆原の両肩に手を置き、項垂れた。どうやら漆原のいう「勘違い」とは、おれと兄を間違えたことをさしてはいなかったようだ。すれ違いはかなり前から生じていた。すべておれが中途半端なせいだ。
「わかった。はっきりいうわ」
両手で漆原の顔を包み、目線を上げさせて、いった。
「好きだ。付き合ってくれ」
漆原は無言だった。暗がりのなかで、喉が震える小さな動きが見えた。
「聞いてんのか、漆原?」
「あ、うん……」
指の付け根を爪の先で引っ掻きながら、漆原が独白する。
「勘違いじゃなかったんだ……」
おれの気持ちは当然わかっていると思っていた。傲慢だった。逸る気持ちを抑え、いった。
「おれのこと嫌いじゃないっていったよな?」
「そうだけど……」
体を強張らせて口籠もる。
「付き合うとかは考えられない。男だし……」
「今さらすぎだろ、そんなの」
「付き合ってもうまくいかない」
「なんでわかんだよ」
煮え切らない態度に、抑制が効かなくなりかけていた。
「風祭と付き合っても、未来が見えないから」
「だからなんで。男同士だから? それとも引っ越すからか?」
「なんで知って……」
「譲に聞いた」
ため息が深くなる。
「てかなんで隠し通せると思ったんだよ」
「隠すつもりは……」
「行くなよ」
漆原の言葉を遮って、いった。
「おまえと離れるの無理だから、行くな」
「そんなの……」
「できるだろ。こっちで就職して、おまえだけ残ればいい」
「簡単にいうなよ……」
「簡単だろ。小説書くのも都心のほうがいろいろ便利だろうし、おれも卒業したら実家出るから、いっしょに住もう。どっかにマンション借りて……」
「だからそんな単純じゃないんだって!」
今度は漆原がおれを遮る番だった。おれの手を振り解き、距離を取る。鋭い眼差しに睨まれた。
「風祭、いつもそうじゃん。自分のことばっかで、ぼくの希望とか都合とか全然気にしてない」
「じゃあおまえの希望とか都合とかいえよ」
おれも怯まなかった。正面からぶつかることを避けてきたからすれ違いが生まれた。曖昧なまま引き下がる気はなかった。
「おまえだっていつもそうだろ。おれがしたいからとかおれがいったからとかばっかで、そっちのほうが自分勝手じゃねえか」
「そんな……」
「おまえは行きたいのか行きたくないのかどっちなんだよ。おれと離れて平気なの? 今みたいに会えなくなるんだぞ」
「それは風祭が……」
「おれじゃなくて、おまえの気持ちを聞いてんだよ」
「ぼくは……」
漆原の眼球が揺れる。
「弟たちもまだ手がかかるし、父親も……」
「それはおまえんちの事情だろ。そうじゃなくておまえの気持ちを聞いてんだよ」
手を滑らせ、漆原の指を握った。細い指がかすかに震えたが、振り放されることはなかった。
「1か月も会えなくて、マジで頭おかしくなりそうだった」
本当は手を握るだけでは足りなかったし思い切り抱きしめたかったが、かろうじて自制した。
「おまえは? 全然寂しくなかった? おれに会いたいとか一回も思わなかった?」
「そりゃ……思ったけど」
「ほんとに? おれに会いたかった?」
おれが迫ると、漆原は後ずさった。工場の壁に背中がぶつかり、それ以上後退できなくなると、泣きそうな顔で俯いた。
「もうやだ。風祭、なんかこわい……」
「あ、悪い……」
慌てて手を離す。怯えさせる気はなかった。すこし距離をつくって、いった。
「しつこくてごめん。おれ、おまえが好きで……」
「それはもうわかったから」
顎が鎖骨に埋まりそうなほど下を向いて、漆原は呟いた。
「ぼくは……」
肩にかけたコットンバッグの持ち手をきつく握り締めて、いった。
「ぼくも風祭といると楽しいし、会えないと寂しい」
「だったら……」
「でも、風祭みたいには思い切れない。自分の気持ちもまだよくわからないし……」
「それでいいよ。嫌われてなかったら、今はじゅうぶんだから」
本心でいえば、さらに攻めたかった。しかし、困らせるのは本意ではない。深呼吸して、いった。
「付き合ってくれなくてもいいから、前みたく、いっしょに勉強したりどっか行ったりしたい」
前に姉に聞いたことがある。心理学用語で「ドア・イン・ザ・フェイス」というらしい。最初に大きな要求を提示して相手に罪悪感を抱かせ、小さな要求を受け容れさせる。意図していたわけではないが、押しに弱い漆原には効果覿面だった。伏せた目に迷いが見えた。
「でも……」
何度も瞬きしながら、漆原は独白のようにいった。
「もっと好きになっちゃったらどうしよう。会えなくなるのに……」
思わず呻いた。いとおしさがこみ上げて、胸が熱くなった。
「じゃおれが東北の大学に行くわ」
「だからそんな簡単に……」
「簡単じゃないって」
手を伸ばして頬に触れる。漆原は一瞬身を固くしたが、避けなかった。漆原の肌はひんやりとしていて滑らかに指先を滑らせた。
「おれ、漆原のこと真剣だから。いっしょに考えよう」
「うん……」
「漆原、すげえ好き」
「もうわかったってば……」
漆原が顔を逸らす。大きなバッグを胸に抱え、隠れるように身を縮こまらせる。
「どういう顔していいかわかんないよ……」
整髪料もなにもつけていない黒い髪を見下ろして、おれは燃え上がるような熱意を実感していた。兄のアドバイスは正しかった。諦めきれるはずがない。もし逃げたら間違いなく後悔するだろう。
好きだ、好きだ、好きだ。
口にしないまま、胸の奥で繰り返し唱えた。漆原のようにこの先の未来や遠い将来のことまで考慮していないし、おれの考えや行動は幼稚で浅はかかもしれない。しかし、今はこの気持ちだけでじゅうぶんだと思えた。
「風祭……」
「なに?」
「どうやって帰るの?」
「あ……」
おれはやっぱり幼稚で浅はかだ。
「風祭……」
戸惑いの表情を浮かべて立ち竦む漆原の前に立ち、いった。
「ちょっと話せるか」
「明日早いから……」
おれの脇を通り過ぎようとする漆原の腕をつかんだ。
「いっとくけど」
咄嗟に言葉が出ていた。
「兄貴、彼女いるから」
「え?」
「彼女とすげえラブラブだし、おまえの入る隙ないから」
舌打ちを堪えた。ここにくるまでに何度も頭のなかで唱えた言葉は一言も出てこなかった。
「なんの話……」
漆原はあきらかに困惑し、警戒していた。おれの腕を振り解こうと身を捩ったが、離さなかった。
「おれにしとけよ」
もう片方の腕もつかんで、顔を近づけた。工場の窓から漏れる薄明かりの下で、漆原が何度も瞬きしながらおれを見ている。
「え、なに……?」
「兄貴じゃなくておれにしろよ。おれ、漆原のこと一番に考えるし、絶対大事にする」
「だからなんの話か全然……」
「おれじゃなくて兄貴が好きなんだろ」
「はあ?」
賑やかな笑い声がして、漆原が言葉を切る。作業を終えた職員の一団が建物から出てくるところだった。
「こっちきて」
漆原に促されて、工場の裏に移動した。
「さっきからなんの話してるんだよ」
声をひそめて、漆原がいう。
「1年のときに会ったのが風祭じゃなくてお兄さんだったってことは聞いたけど、だからってべつにお兄さんのこと好きになるわけじゃないし関係ないよ」
「けど、おまえ……」
「それに、風祭だって彼女いるじゃん」
「は?」
思いがけない展開に、おれも眉間に皺を寄せた。
「お兄さんから聞いた」
漆原の表情が歪む。おれから目を逸らして、いった。
「すごくかわいくて、真面目でやさしい彼女だって、風祭がいってたって」
一瞬、なにを聞かされているのかわからなかった。
「おまえ、マジでいってんの?」
「マジでって……」
「おまえだよ」
「ぼくがなに?」
「おまえのことだよ、馬鹿」
「え?」
漆原の戸惑いが濃くなる。おれを見つめ、いった。
「そんなわけないじゃん」
「なんでだよ」
「だって……ぼく、男だし」
「向こうが勝手に彼女だと思ったんだよ」
「かわいくないし」
「かわいいだろ。かわいくて真面目でやさしいつったらおまえしかいないだろ。わざといってんのか、おまえ」
捲し立てるようにいうと、漆原は圧倒されたように身を竦めて、また俯いた。
「付き合ってないし」
「付き合ってただろ」
「付き合ってないよ。そんなこと一言もいってなかったじゃん」
「いったよ」
「いってないってば」
記憶を掘り返す。いわれてみれば、好きだとも付き合おうと明確には口にしていなかった気がした。
「でもおれかわいいっていったろ、おまえのこと」
「それは……キスしたいからいってるのかと……」
「おまえ、おれのことなんだと思ってんの? だいたい、好きでもない男にキスしたいとかいうかよ」
漆原の両肩に手を置き、項垂れた。どうやら漆原のいう「勘違い」とは、おれと兄を間違えたことをさしてはいなかったようだ。すれ違いはかなり前から生じていた。すべておれが中途半端なせいだ。
「わかった。はっきりいうわ」
両手で漆原の顔を包み、目線を上げさせて、いった。
「好きだ。付き合ってくれ」
漆原は無言だった。暗がりのなかで、喉が震える小さな動きが見えた。
「聞いてんのか、漆原?」
「あ、うん……」
指の付け根を爪の先で引っ掻きながら、漆原が独白する。
「勘違いじゃなかったんだ……」
おれの気持ちは当然わかっていると思っていた。傲慢だった。逸る気持ちを抑え、いった。
「おれのこと嫌いじゃないっていったよな?」
「そうだけど……」
体を強張らせて口籠もる。
「付き合うとかは考えられない。男だし……」
「今さらすぎだろ、そんなの」
「付き合ってもうまくいかない」
「なんでわかんだよ」
煮え切らない態度に、抑制が効かなくなりかけていた。
「風祭と付き合っても、未来が見えないから」
「だからなんで。男同士だから? それとも引っ越すからか?」
「なんで知って……」
「譲に聞いた」
ため息が深くなる。
「てかなんで隠し通せると思ったんだよ」
「隠すつもりは……」
「行くなよ」
漆原の言葉を遮って、いった。
「おまえと離れるの無理だから、行くな」
「そんなの……」
「できるだろ。こっちで就職して、おまえだけ残ればいい」
「簡単にいうなよ……」
「簡単だろ。小説書くのも都心のほうがいろいろ便利だろうし、おれも卒業したら実家出るから、いっしょに住もう。どっかにマンション借りて……」
「だからそんな単純じゃないんだって!」
今度は漆原がおれを遮る番だった。おれの手を振り解き、距離を取る。鋭い眼差しに睨まれた。
「風祭、いつもそうじゃん。自分のことばっかで、ぼくの希望とか都合とか全然気にしてない」
「じゃあおまえの希望とか都合とかいえよ」
おれも怯まなかった。正面からぶつかることを避けてきたからすれ違いが生まれた。曖昧なまま引き下がる気はなかった。
「おまえだっていつもそうだろ。おれがしたいからとかおれがいったからとかばっかで、そっちのほうが自分勝手じゃねえか」
「そんな……」
「おまえは行きたいのか行きたくないのかどっちなんだよ。おれと離れて平気なの? 今みたいに会えなくなるんだぞ」
「それは風祭が……」
「おれじゃなくて、おまえの気持ちを聞いてんだよ」
「ぼくは……」
漆原の眼球が揺れる。
「弟たちもまだ手がかかるし、父親も……」
「それはおまえんちの事情だろ。そうじゃなくておまえの気持ちを聞いてんだよ」
手を滑らせ、漆原の指を握った。細い指がかすかに震えたが、振り放されることはなかった。
「1か月も会えなくて、マジで頭おかしくなりそうだった」
本当は手を握るだけでは足りなかったし思い切り抱きしめたかったが、かろうじて自制した。
「おまえは? 全然寂しくなかった? おれに会いたいとか一回も思わなかった?」
「そりゃ……思ったけど」
「ほんとに? おれに会いたかった?」
おれが迫ると、漆原は後ずさった。工場の壁に背中がぶつかり、それ以上後退できなくなると、泣きそうな顔で俯いた。
「もうやだ。風祭、なんかこわい……」
「あ、悪い……」
慌てて手を離す。怯えさせる気はなかった。すこし距離をつくって、いった。
「しつこくてごめん。おれ、おまえが好きで……」
「それはもうわかったから」
顎が鎖骨に埋まりそうなほど下を向いて、漆原は呟いた。
「ぼくは……」
肩にかけたコットンバッグの持ち手をきつく握り締めて、いった。
「ぼくも風祭といると楽しいし、会えないと寂しい」
「だったら……」
「でも、風祭みたいには思い切れない。自分の気持ちもまだよくわからないし……」
「それでいいよ。嫌われてなかったら、今はじゅうぶんだから」
本心でいえば、さらに攻めたかった。しかし、困らせるのは本意ではない。深呼吸して、いった。
「付き合ってくれなくてもいいから、前みたく、いっしょに勉強したりどっか行ったりしたい」
前に姉に聞いたことがある。心理学用語で「ドア・イン・ザ・フェイス」というらしい。最初に大きな要求を提示して相手に罪悪感を抱かせ、小さな要求を受け容れさせる。意図していたわけではないが、押しに弱い漆原には効果覿面だった。伏せた目に迷いが見えた。
「でも……」
何度も瞬きしながら、漆原は独白のようにいった。
「もっと好きになっちゃったらどうしよう。会えなくなるのに……」
思わず呻いた。いとおしさがこみ上げて、胸が熱くなった。
「じゃおれが東北の大学に行くわ」
「だからそんな簡単に……」
「簡単じゃないって」
手を伸ばして頬に触れる。漆原は一瞬身を固くしたが、避けなかった。漆原の肌はひんやりとしていて滑らかに指先を滑らせた。
「おれ、漆原のこと真剣だから。いっしょに考えよう」
「うん……」
「漆原、すげえ好き」
「もうわかったってば……」
漆原が顔を逸らす。大きなバッグを胸に抱え、隠れるように身を縮こまらせる。
「どういう顔していいかわかんないよ……」
整髪料もなにもつけていない黒い髪を見下ろして、おれは燃え上がるような熱意を実感していた。兄のアドバイスは正しかった。諦めきれるはずがない。もし逃げたら間違いなく後悔するだろう。
好きだ、好きだ、好きだ。
口にしないまま、胸の奥で繰り返し唱えた。漆原のようにこの先の未来や遠い将来のことまで考慮していないし、おれの考えや行動は幼稚で浅はかかもしれない。しかし、今はこの気持ちだけでじゅうぶんだと思えた。
「風祭……」
「なに?」
「どうやって帰るの?」
「あ……」
おれはやっぱり幼稚で浅はかだ。



