帰宅したときには夜が更けていた。母は習いごとに出ている。父の帰りもいつも遅い。夕食をあたためて食べるよう母からLINEで連絡があった。
リビングには明かりがついていた。兄がソファに座ってテレビを見ていた。よりにもよって、あのドラマを見ている。姉が全話録画しているから、テレビの録画データ一覧から見つけたのかもしれない。画面のなかでイケメン俳優が痴話喧嘩を繰り広げている。
「おかえり」
返事はせずに、冷蔵庫を開けた。母がつくっておいた筑前煮のタッパーを取り出し、電子レンジに放りこむ。炊飯ジャーには白飯、鍋には味噌汁が用意されていた。
「いつまでいるんだよ。アメリカの学校の休み長すぎだろ」
露骨に疎ましさを顔に出すが、一澄は気にする様子もなく首を窄めた。
「成人式に帰ってこられないからな。そのぶん長めに休み取ってんの。来週帰るよ」
おれの返答を期待していないようで、一澄はテレビ画面に向きなおった。
「向こうでは日本のドラマ見る機会ほとんどないから、なんか懐かしい」
独白のように呟く。
「男同士の恋愛ものってのも、最近はけっこう多いんだな」
今度は確実におれに話しかけている。ため息を飲みこむ。自宅に兄とふたりは気詰まりだ。とくにこういう精神状態のときには。
「興味本位で見てんなよ」
「べつに興味本位ってわけじゃないよ」
スナック菓子を囓りながら、一澄がいう。
「それにしても、演技がひどいな」
画面のなかでわめき立てるイケメン俳優を見て、顔をしかめる。
「話はおもしろいのに、もったいない」
コップに麦茶を注ぎながら、そっと視線を向けた。
「原作がいいんじゃねえの」
口をついて出た言葉。そういうなにげない会話をするのは子どもの頃以来だった。一澄は意外そうに一瞬無言になったが、すぐに頷いた。
「原作か。そうかもな」
スナック菓子の袋に伸ばしかけていた手をテレビ画面に向ける。
「キャラクターがいいよ。こういうのってファンタジックになりがちだろうけど、人間くさいというか、リアルでいい。この風間なんか、身近にいそうだもん」
実際に身近にいるのだが、いかに兄が頭がよくても、そこまで想像はできないだろう。
誇らしいような、恥ずかしいような、複雑な気分だった。自分よりも、漆原の原作が褒められたことが嬉しかった。
「原作、知ってるのか?」
「知らねえよ。なんで」
「ふつう、ドラマの内容を褒めるときは、脚本がいいっていうだろ。だから原作を読んでるのかと思って」
姉に勝るとも劣らぬ鋭さだ。迂闊なことはいえない。
「彼女の影響かな?」
「彼女じゃねえよ」
警戒すべきなのにもかかわらず、またつい口を滑らせてしまう。
「もう振られたし」
「振られたの? なんで?」
もうすこしで「おまえのせいだ」というところだった。出かかった言葉をかろうじて飲みこむ。
「知るかよ。理想とちがってたんだろ」
「理想って?」
「だからおれが知るかって」
意図せず尖った口調になる。
「兄貴は振られたことなんかないだろ。おれの気持ちわかるわけねえよ」
「おれ振られたことあるよ」
上半身を捻ってソファの背に顎を預け、一澄はいった。
「今の彼女に1年半で6回告白してるもん。7回目でようやく付き合えたときは泣いたよ」
笑い飛ばすには多すぎる数字。おれは唖然として言葉を失っていた。
「うそだろ」
おれの記憶のなかの兄は、センスがよく、会話がうまく、気遣いに長け、だれからも好かれたし女にも人気があった。兄に好かれて喜ばない人間がいるとは想像できなかった。
「ほんとだよ。最初の頃なんて目も合わせてもらえなかったもん。中身がないとか薄っぺらいとか散々いわれてさ」
当時のことを思い出したのか、苦笑いしながら一澄はいった。思わずいっしょに笑ってしまった。
「ほんと散々だな」
「ひどいだろ。でもそのとおりだからな。自分を見つめなおすきっかけになった。彼女に好かれるために広東語勉強して、彼女が好きな現代アートの本読んだり美術館行ったりしてさ」
「なんでそこまで……」
「好きだから」
いとも簡単に、一澄はいった。表情にはいっさいの羞恥が見られなかった。
「このひとだと思ったら、簡単には諦めきれないだろ。顕もそうじゃないの?」
麦茶のグラスを手にしたまま、おれは立ち竦んでいた。背後で電子レンジが通知音を鳴らしたが、動けなかった。
「彼女じゃない」
気づくと、話しはじめていた。
「男なんだ」
テレビ画面のなかでは鼻筋の通ったイケメンがおなじように整った顔の華奢な男を抱きしめている。
「おれ、男を好きになった」
一澄は黙ってテレビを消した。イケメンたちの棒読みの睦言が消え、リビングを静寂が支配した。
どうして兄にそんな話をしようと思ったのか、自分でも判然としない。ただ、だれかに聞いてもらいたかった。
一澄は笑うことも疑うこともせず、驚くことさえなかった。ほとんど表情を動かさずに、いった。
「その子のこと好きなの」
「今そういっただろ」
兄の視線を感じたが、目を合わせることができなかった。
「その子も顕を好き?」
「わからない……たぶんちがうと思う」
「なんでわかるの」
「会わないほうがいいっていわれた」
「それだけ?」
兄が立ち上がり、おれのいるダイニングテーブルに近づいてくる。テーブルごしに向きあった。
「それで諦める?」
一澄に責めるつもりはないだろうが、なんとなく息ぐるしい。電子レンジから煮物の皿を取り出したが、食欲は消えていた。
「高校卒業したら引っ越すんだってさ。親の仕事の都合で東北のどっかに行くらしい」
昼間に譲から聞いた話をそのまま話した。漆原への気持ちも、漆原と離れることになる事実も、口に出したとたんに一気に現実としてつよく認識させられた。
「諦めるとか諦めないとか以前の問題だろ」
「どこが?」
「どこがって……」
「どこに問題があるかわからない。好きなんだろ。後悔するぞ」
口調は平坦だったが、一澄の言葉には説得力があった。
「もう一回話してみろよ。それで自分の気持ちを伝えろ」
「……うるせえよ」
舌打ちをして、いった。
「兄貴には関係ないだろ」
「じゃなんでおれに話したんだよ」
「べつに……」
ダイニングの椅子に座り、頬杖をついておれを見上げて、一澄はいった。
「おれ嬉しいんだよ。おまえがおれに恋愛の話するのもはじめてだし、おまえがそういうふうにだれかを好きになってることも嬉しい」
兄の笑顔は言葉どおりに嬉しそうで、思わず視線を逸らした。居心地の悪さを感じはしたが、不快感はなかった。
「諦めんなよ、顕」
「うるせえな。いわれなくても諦めねえよ」
吐き捨てるようにいってダイニングテーブルを離れる。
「この煮物、食わないの? 食っていい」
「どうぞ」
「サンキュー。おふくろの味もまたしばらくお預けだからな」
麦茶のグラスを流し台に置いて、おれは兄の脇を通り過ぎ、自室に向かった。
「顕」
階段を上がりかけたところで、呼び止められた。蓮根をつまんだ箸を持ち上げ、兄がいった。
「頑張れよ」
「……兄貴も、振られないように頑張れ」
「不吉なこというなって。おれ彼女に棄てられたら死んじゃうよ」
大袈裟に頭を抱える兄を見て、思わず笑った。
「おれも」
漆原が必要だ。前からわかっていた。兄に打ち明けたことで、あらためて思い知らされた。
兄に背中を圧されるとは。漆原のことをだれかに話すことはないと思っていた。それもよりによって兄に。しかし、不思議と後悔はなかった。
部屋で制服を脱ぎ、ニットとデニムに着替えた。ポケットにスマホと財布を捻じこんで、急いで部屋を出た。ドアを開けると目の前に兄が立っていた。
「出かけんの?」
「ああ」
「ちょっと待って」
一澄は自分の部屋に入り、すぐにもどってきた。ライトグレーのテーラードジャケットをおれに投げて寄越した。
「着てけよ。その服に合う」
おれがどこに行くのか、一澄にはわかっていたのだろう。一瞬迷ったが、ジャケットに袖を通した。
「おれが7回目の告白のとき着てたやつ」
それだけいって、一澄は拳を突き出してきた。おれは黙って腕を上げた。拳同士を軽くぶつける。男同士の連帯感があった。思春期を迎えてからはほとんどコミュニケーションを取ることがなくなっていた兄との久しぶりの会話は悪くなかった。
兄のジャケットを着て、足早に階段を下り、外へ出た。迷いはなくなっていた。
リビングには明かりがついていた。兄がソファに座ってテレビを見ていた。よりにもよって、あのドラマを見ている。姉が全話録画しているから、テレビの録画データ一覧から見つけたのかもしれない。画面のなかでイケメン俳優が痴話喧嘩を繰り広げている。
「おかえり」
返事はせずに、冷蔵庫を開けた。母がつくっておいた筑前煮のタッパーを取り出し、電子レンジに放りこむ。炊飯ジャーには白飯、鍋には味噌汁が用意されていた。
「いつまでいるんだよ。アメリカの学校の休み長すぎだろ」
露骨に疎ましさを顔に出すが、一澄は気にする様子もなく首を窄めた。
「成人式に帰ってこられないからな。そのぶん長めに休み取ってんの。来週帰るよ」
おれの返答を期待していないようで、一澄はテレビ画面に向きなおった。
「向こうでは日本のドラマ見る機会ほとんどないから、なんか懐かしい」
独白のように呟く。
「男同士の恋愛ものってのも、最近はけっこう多いんだな」
今度は確実におれに話しかけている。ため息を飲みこむ。自宅に兄とふたりは気詰まりだ。とくにこういう精神状態のときには。
「興味本位で見てんなよ」
「べつに興味本位ってわけじゃないよ」
スナック菓子を囓りながら、一澄がいう。
「それにしても、演技がひどいな」
画面のなかでわめき立てるイケメン俳優を見て、顔をしかめる。
「話はおもしろいのに、もったいない」
コップに麦茶を注ぎながら、そっと視線を向けた。
「原作がいいんじゃねえの」
口をついて出た言葉。そういうなにげない会話をするのは子どもの頃以来だった。一澄は意外そうに一瞬無言になったが、すぐに頷いた。
「原作か。そうかもな」
スナック菓子の袋に伸ばしかけていた手をテレビ画面に向ける。
「キャラクターがいいよ。こういうのってファンタジックになりがちだろうけど、人間くさいというか、リアルでいい。この風間なんか、身近にいそうだもん」
実際に身近にいるのだが、いかに兄が頭がよくても、そこまで想像はできないだろう。
誇らしいような、恥ずかしいような、複雑な気分だった。自分よりも、漆原の原作が褒められたことが嬉しかった。
「原作、知ってるのか?」
「知らねえよ。なんで」
「ふつう、ドラマの内容を褒めるときは、脚本がいいっていうだろ。だから原作を読んでるのかと思って」
姉に勝るとも劣らぬ鋭さだ。迂闊なことはいえない。
「彼女の影響かな?」
「彼女じゃねえよ」
警戒すべきなのにもかかわらず、またつい口を滑らせてしまう。
「もう振られたし」
「振られたの? なんで?」
もうすこしで「おまえのせいだ」というところだった。出かかった言葉をかろうじて飲みこむ。
「知るかよ。理想とちがってたんだろ」
「理想って?」
「だからおれが知るかって」
意図せず尖った口調になる。
「兄貴は振られたことなんかないだろ。おれの気持ちわかるわけねえよ」
「おれ振られたことあるよ」
上半身を捻ってソファの背に顎を預け、一澄はいった。
「今の彼女に1年半で6回告白してるもん。7回目でようやく付き合えたときは泣いたよ」
笑い飛ばすには多すぎる数字。おれは唖然として言葉を失っていた。
「うそだろ」
おれの記憶のなかの兄は、センスがよく、会話がうまく、気遣いに長け、だれからも好かれたし女にも人気があった。兄に好かれて喜ばない人間がいるとは想像できなかった。
「ほんとだよ。最初の頃なんて目も合わせてもらえなかったもん。中身がないとか薄っぺらいとか散々いわれてさ」
当時のことを思い出したのか、苦笑いしながら一澄はいった。思わずいっしょに笑ってしまった。
「ほんと散々だな」
「ひどいだろ。でもそのとおりだからな。自分を見つめなおすきっかけになった。彼女に好かれるために広東語勉強して、彼女が好きな現代アートの本読んだり美術館行ったりしてさ」
「なんでそこまで……」
「好きだから」
いとも簡単に、一澄はいった。表情にはいっさいの羞恥が見られなかった。
「このひとだと思ったら、簡単には諦めきれないだろ。顕もそうじゃないの?」
麦茶のグラスを手にしたまま、おれは立ち竦んでいた。背後で電子レンジが通知音を鳴らしたが、動けなかった。
「彼女じゃない」
気づくと、話しはじめていた。
「男なんだ」
テレビ画面のなかでは鼻筋の通ったイケメンがおなじように整った顔の華奢な男を抱きしめている。
「おれ、男を好きになった」
一澄は黙ってテレビを消した。イケメンたちの棒読みの睦言が消え、リビングを静寂が支配した。
どうして兄にそんな話をしようと思ったのか、自分でも判然としない。ただ、だれかに聞いてもらいたかった。
一澄は笑うことも疑うこともせず、驚くことさえなかった。ほとんど表情を動かさずに、いった。
「その子のこと好きなの」
「今そういっただろ」
兄の視線を感じたが、目を合わせることができなかった。
「その子も顕を好き?」
「わからない……たぶんちがうと思う」
「なんでわかるの」
「会わないほうがいいっていわれた」
「それだけ?」
兄が立ち上がり、おれのいるダイニングテーブルに近づいてくる。テーブルごしに向きあった。
「それで諦める?」
一澄に責めるつもりはないだろうが、なんとなく息ぐるしい。電子レンジから煮物の皿を取り出したが、食欲は消えていた。
「高校卒業したら引っ越すんだってさ。親の仕事の都合で東北のどっかに行くらしい」
昼間に譲から聞いた話をそのまま話した。漆原への気持ちも、漆原と離れることになる事実も、口に出したとたんに一気に現実としてつよく認識させられた。
「諦めるとか諦めないとか以前の問題だろ」
「どこが?」
「どこがって……」
「どこに問題があるかわからない。好きなんだろ。後悔するぞ」
口調は平坦だったが、一澄の言葉には説得力があった。
「もう一回話してみろよ。それで自分の気持ちを伝えろ」
「……うるせえよ」
舌打ちをして、いった。
「兄貴には関係ないだろ」
「じゃなんでおれに話したんだよ」
「べつに……」
ダイニングの椅子に座り、頬杖をついておれを見上げて、一澄はいった。
「おれ嬉しいんだよ。おまえがおれに恋愛の話するのもはじめてだし、おまえがそういうふうにだれかを好きになってることも嬉しい」
兄の笑顔は言葉どおりに嬉しそうで、思わず視線を逸らした。居心地の悪さを感じはしたが、不快感はなかった。
「諦めんなよ、顕」
「うるせえな。いわれなくても諦めねえよ」
吐き捨てるようにいってダイニングテーブルを離れる。
「この煮物、食わないの? 食っていい」
「どうぞ」
「サンキュー。おふくろの味もまたしばらくお預けだからな」
麦茶のグラスを流し台に置いて、おれは兄の脇を通り過ぎ、自室に向かった。
「顕」
階段を上がりかけたところで、呼び止められた。蓮根をつまんだ箸を持ち上げ、兄がいった。
「頑張れよ」
「……兄貴も、振られないように頑張れ」
「不吉なこというなって。おれ彼女に棄てられたら死んじゃうよ」
大袈裟に頭を抱える兄を見て、思わず笑った。
「おれも」
漆原が必要だ。前からわかっていた。兄に打ち明けたことで、あらためて思い知らされた。
兄に背中を圧されるとは。漆原のことをだれかに話すことはないと思っていた。それもよりによって兄に。しかし、不思議と後悔はなかった。
部屋で制服を脱ぎ、ニットとデニムに着替えた。ポケットにスマホと財布を捻じこんで、急いで部屋を出た。ドアを開けると目の前に兄が立っていた。
「出かけんの?」
「ああ」
「ちょっと待って」
一澄は自分の部屋に入り、すぐにもどってきた。ライトグレーのテーラードジャケットをおれに投げて寄越した。
「着てけよ。その服に合う」
おれがどこに行くのか、一澄にはわかっていたのだろう。一瞬迷ったが、ジャケットに袖を通した。
「おれが7回目の告白のとき着てたやつ」
それだけいって、一澄は拳を突き出してきた。おれは黙って腕を上げた。拳同士を軽くぶつける。男同士の連帯感があった。思春期を迎えてからはほとんどコミュニケーションを取ることがなくなっていた兄との久しぶりの会話は悪くなかった。
兄のジャケットを着て、足早に階段を下り、外へ出た。迷いはなくなっていた。



