ぼくらの恋には込み入った事情が。

 窓の外を見下ろし、思わず頭を持ち上げた。校庭の脇を数人の学生服が歩いていた。そのなかのひとりが漆原に見えたのだ。もちろん、遠くから見たフォルムが似ていただけで、まったくの他人だった。
 ため息を飲み込む。英語の授業はさっきから頭に入っていない。
 漆原と話さなくなってから約1か月がたっていた。あれほど毎日いっしょにいたのに、LINEのひとつも交わしていない。
 考えてみれば、夏休みのすこし前に漆原から小説のことを打ち明けられてから数か月しかたっていない。ある意味では、失ったのではなくもとの生活にもどっただけかもしれなかった。物語の主人公として過ごした日々は消え、再び平凡な日常が帰ってきた。ドラマもなければ特別な事件も起きない、凡庸なおれらしいふつうの日々だ。
 漆原はどうしているのか。学校では基本的に顔を合わせない。おれがバイト先や自宅に押しかけることがなければ、互いの人生が交わることもなかった。
 距離を置けばすぐに忘れられると思っていた。受験勉強に集中し、空いた時間に友人たちと遊び、そうしているうちに、ほかのだれかと出会ってまた好きになることもあるかもしれないと。間違いだった。あのときから一瞬でも忘れられたことはなかった。漆原と離れて、どれほど大切な存在だったのかを思い知らされた。
 漆原はおれの信頼を裏切った。漆原だけはおれを理解していると信じていたのに、短いLINEの文言ひとつで一方的に関係を終わらせた。執着していただけに、失望も大きかった。それでも、漆原を恨むどころか、感情は募るいっぽうだった。
 漆原の眼差し。はにかんだような笑顔。紡ぐ言葉のひとつひとつが、こうしている今も鮮明に甦って、ほかのことを考えられなくさせる。このままでは受験にも失敗するのではないかと思ったが、もはやそれすらどうでもよくなっていた。おれは完全に無気力で、あらゆることに対して投げ遣りになっていた。

 中間試験の結果は散々だった。暗澹たる気持ちを抱え、学校を後にした。塾に行かなければならなかったが、足が重く、一歩前に進むだけでかなりの気力を要した。
 11月に入り、かなり気温が下がってきた。そろそろコートが必要になるかもしれない。
 曇天を見上げていると、さらに気が滅入ってくる。ついこの間まではなにもかもが楽しく、明るく見えていたのに、今はなにをしていても憂鬱だ。理由はわかっている。漆原のせいだ。漆原がいないだけで、おれは魂が抜けたような状態だ。
 このままではまずい。
 塾に向かっていた体を反対方向にもどした。考える隙をつくらないように大股で勢いよく歩く。途中からはほとんど走っていた。
 気づくと、漆原のアパートの前に立っていた。走ってきたせいで息が切れていたが、脇目も振らずにやってきたのにもかかわらず、階段の前で身が竦んで動けなくなっていた。
 家に押しかけるのはやめるよう前にいわれたのに、また勝手にきてしまった。漆原はどんな反応を見せるだろう。歓迎されるとは思えない。そもそもこの時間なら書店のバイトに出かけているはずだ。なにも考えずに衝動に任せて行動してしまう癖。いつになったらなおるのか。
「風祭くん?」
 階段の前でぼんやりしていると、背後で声がした。学生服姿の譲が立っていた。
「なにしてんの」
 いつから見られていたのか、譲は怪訝な顔でおれの脇を通りすぎた。家の前でうろうろされれば不信に思って当然だろうが、それにしても、久しぶりに会ったのにもかかわらず素っ気ない態度が気になった。
「兄貴に会いにきたんじゃないの」
 2か月ほど会わないうちに、いつの間にか、「兄ちゃん」から「兄貴」に変わっている。思春期というやつかもしれない。自分にも経験がある。
「バイト行ってていないよ」
「ああ……だよな。だと思ってた」
 階段を数段上がって振り向く譲はすこし背も伸びたようだった。少年から大人の男に変わる変革期。外側だけでなく、内側にも変化はあらわれているはずだ。無邪気なだけの子どもではない。おれたちの関係が変わったことにも気づいているかもしれなかった。
「LINEしてみれば?」
「うん……」
 何度も連絡しようと思ったが、文面を作成しては送信せずに削除していた。ただだらしなく両手を垂らして立っているおれを一瞥して、譲がいった。
「なんかあったの」
 どう答えていいのかわからず躊躇しているおれに、譲がいう。
「最近、兄貴、ずっと変だから」
「変って……」
「めちゃくちゃ落ち込んでるし、たまに、夜中にトイレで泣いてる」
 譲の言葉におれの胸は詰まった。くるしいのはおれだけだと思っていた。漆原もおなじ痛みを感じているのだと知って、会いたいという気持ちがよけいに募った。
「おれの……」
「風祭くんのせいじゃないのはわかってるから」
 譲の口調は断定的だった。おれは再び戸惑って眉を顰めた。
「理由、聞いてないのか」
「おれらにはなにもいわないよ。子どもだと思ってる」
 平坦な声にはかすかな苛立ちが混じっていた。兄に対して憤っているというよりも、兄に頼られる存在になれない自分に苛立っているようだった。
「兄貴、新しいバイトはじめたみたいなんだけど、知ってる?」
「バイト?」
 唐突な質問だった。
「本屋と弁当屋以外にか? あとデータ入力だっけ?」
「先週、家に100万入れたって。親父と話してるの聞いた」
 原稿料とはべつに、ドラマの原作料が振り込まれる予定だと話していた。相場など知らないが、おそらくそのくらいの金額だろう。これだけ話題になっていればもっと高額でもよさそうだが、漆原の性格から考えて、全額を生活費か借金返済に充てたのではないか。
「いきなり100万だよ。どんなバイトしたらそんな大金が急にもらえんだって思わない?」
「こつこつ貯めてたんだろ」
「ちがうよ。ギリギリで生活してたんだから」
 どうやら譲は兄があやしい金儲けに手を出しているのではないかと心配しているようだった。真実を伝えて安心させてやりたかったが、小説のことは漆原に口止めされている。勝手にしゃべるわけにはいかない。
「漆原はだいじょうぶだよ。兄貴を信用しろ」
「風祭くんは他人だからそんなこといえるんだよ」
 他人という響きに心がささくれだったが、あえてなにもいわなかった。兄への劣等感とどうしようもない無力感に出口のないフラストレーションを溜めこんでいる少年は、他人どころかまるで自分自身を見ているかのようだった。
「おれにはバイトさせてくれないくせに……」
「中学生じゃ無理だろ」
「高校には行かないつもりだったのに、それも反対するし」
 漆原もまた、父に諭されて不承不承高校に進学したのだという。立場が変われば考えも変わるというものだろう。
「おまえ、高校はどこ行くの?」
 譲の追求をかわすためにわざと話題を変えた。
「やっぱ市内の普通校?」
 なにげない口調でいったが、譲は不思議そうに眉間の皺を深くした。
「なにいってんの?」
「なにって学校だろ」
 受験勉強に励んでいるようには見えなかったし、このあたりに高校は数えるほどしかない。おれも眉を顰めた。譲の反応が想像とあまりにちがっていたからだ。
「兄貴から聞いてない?」
「なにを?」
 今度は譲が返答に窮する番だった。いいようのない不安が爪先から脛を這い上ってきて、おれはその場に立ち竦んだ。