ぼくらの恋には込み入った事情が。

 漆原から電話があったのは、日付が変わった頃だった。バイトの休憩時間だろう。着信を残してから1時間ほどたっていた。ちょうど漆原とふたりで撮った写真を眺めていたときで、画面が着信を報せるものに切り替わった。
「電話ごめん、なに?」
 回線ごしに聞こえてくる漆原の声に、一瞬言葉を失って聞き入ってしまった。
「風祭?」
「あ、ごめん」
 我に返って、スマホを握りなおす。ベッドから出て部屋に鍵がかかっていることを確認する。リビングではまだ父と姉が飲み交わしているようで、かすかに笑い声が聞こえていた。
「その……土曜日だけどさ」
「うん」
 漆原の声は楽しげだった。週末を楽しみにしていることはすぐにわかった。おれもそうだった。胸に痛みを感じながら、話した。
「悪い。ちょっと……うちだめになった。兄貴帰ってきてるの忘れてて」
「そっか……」
 漆原はあきらかに落胆していた。取り繕うようにいった。
「どっか外行くか。映画とか……」
「いいよ。せっかくお兄さん帰ってきてるんだから、週末は家族と過ごして」
「……わかった」
 再びベッドに寝そべった。できることならこのまま何時間でも漆原の声を聞いていたいとさえ思った。
「怒ってないか?」
「怒ってないって。だいじょうぶ」
 回線の向こうで漆原が笑う。
「いつでも会えるんだし」
「そっか……そうだよな」
 さっきまでいっしょにいたのに、もう会いたいと願っている。どうやらおれは自覚している以上に漆原に依存しているらしい。
「じゃあ……バイトもどるから」
「……漆原」
 通話が切れそうな気配がして、おれは思わず声を出した。
「なに?」
「いや……ごめん。なんでもない」
 もうすこし漆原と話したかったが、また自己中心的だと思われてしまいそうで、いえなかった。
「変なの」
 目を閉じる。瞼の裏に漆原の笑顔が貼りついていた。
「また来週」
「うん」
 通話が切れると、再び漆原との写真がスマホの画面にもどる。一澄のように気軽に家族に見せられればいいと思った。
 漆原は気にしていないかもしれないが、実際のところ、自宅に兄がいるというのは訪問を断る理由にならない。べつに家にだれもいないことが前提ではなかったわけだし、自室には鍵もかかる。よほどのことをしない限り、家族が在宅中でも問題はない。
「顕?」
 ドアがノックされた。鍵を開けて顔を外に出すと、一澄が立っていた。
「なんだよ」
 つい素っ気ない態度になる。一澄は気にしていないようだった。洗濯物を手に、なにげない口調で尋ねてくる。
「おれの服知らない? ボーダーの、紫のやつ」
 漆原と渋谷で出かけたときに借りたものだ。クローゼットにもどしたつもりだったが、配置を誤ったのだろうか。
「おれが知るわけないじゃん」
「だよなあ。もうちょっと探してみるわ。サンキュー」
 軽い足取りで階段を下りていく兄の後ろ姿を見送る。
 アメリカでの生活は充実しているのだろう。久しぶりに会う兄は、日本にいた頃よりもさらに頼もしく見え、身内のおれでも魅力的な男だと感じる。
 兄への反発は以前ほど感じなくなっていたが、漆原に会わせるのは避けたかった。本能的に拒絶しているといっていい。香港からきた彼女に一澄はかなり惚れこんでいるようだし、漆原にしても、簡単に弟から兄へ乗り換えるような軽薄な人間ではない。それでも、兄と漆原を会わせたくなかった。単純に、おれの心が狭いのだ。琴子に振られたときにいわれた捨て台詞もトラウマの一部になっているのかもしれない。
 もし漆原が兄に心変わりするようなことがあったら、おれは今度こそ立ち直れない。

 金曜と土曜、2日つづけて漆原に会わなかった。もともと学校ではほとんど顔を合わせることがない。バイト先に行かなければ顔を見ることもできない。
 ここ半月ほどは毎日いっしょにいたから、たった2日でも会えないと違和感をおぼえる。憧れの存在だった琴子と付き合っていたときにも、これほど毎日会いたいとは思わなかった。漆原の存在は、いつの間にか、おれにとってなくてはならないものになっていた。
 日曜の午後は家族で外食することになっていた。近所の回転寿司店に行くだけで、遠出をするわけではないが、家族揃っての外食は久しぶりだ。遅く起きて1階に降りると、すでに準備を整えた両親と姉が待っていた。
「おはよう。準備できてる?」
 母はキッチンで洗い物をしている。父は新聞を読んでいた。姉はリビングのソファに座ってスマホを弄っている。おなじようにソファに座った。壁に掛かった時計は午前12時をすこし過ぎた時刻を示している。
「兄貴は? まだ寝てんの?」
 日曜とはいえ、兄がだらだらと惰眠を貪って時間を無駄にするとは思えない。
「本屋に行くって、朝出てったよ。そろそろ帰るんじゃない?」
 姉の言葉が合図だったかのように、玄関で兄の声がした。
「ただいま」
「遅いよ。おなか空いてんだけど」
 姉が不満げにいう。空腹のせいか機嫌が悪い。
「ごめんごめん」
 兄は悪びれる様子もなく、書店の紙袋を手に提げてリビングに入ってきた。捜索に成功したのか、あの紫のボーダーシャツを着ている。
「ほしい本、見つかった?」
 キッチンから母が声をかける。
「うん、あったよ」
「本なんてネットで買えるじゃん」
「本屋で買うのがいいんだよ」
 なにげなく袋に目をやって、おれは慌てて立ち上がった。
「どこ行ったんだよ」
「え?」
「どこの本屋に行ったんだよ」
「ああ。駅の近くの……」
 書店のロゴが印刷された袋を見て、一澄は思い出したようにいった。
「そういえば、レジで知ってる子に会った」
「店員?」
 スマホに目を落としたまま、日沙乃が尋ねる。
「そう。知り合いってほどではないんだけど……」
 嫌な予感。奇妙な胸騒ぎがして、おれはその場に立ち尽くしたまま、姉と兄のやりとりを聞いていた。
「全然おぼえてなかったんだけど、声かけられて思い出したよ。高校の頃、不良っぽい奴らに絡まれてるときにたまたま通ってさ」
 おかしいと思っていた。違和感はずっとあった。よく知りもしない同級生が困っているところに遭遇したからといって、助けるような人間かどうか。自分のことはわかる。
「そんなことあったの」
「かなり前だからおれも忘れてた」
 小説のなかで、漆原は眼鏡をはずしていた。その場にいた兄の友人が兄を「風祭」と呼ぶのを聞いて、おれだと勘違いしたのだろう。2年上におなじ名字の先輩がいることを知らなかった。
「えーと、名前なんだったかな……」
「漆原だろ」
 無意識に呟いていた。自分の口から発したのにもかかわらず、まるで他人の声のようだった。
「そうそう。漆原くんだ。顕のこと知ってたよ。仲いいんだな」
 無邪気なものだ。兄はいつもそうだ。善良そのものといった顔で、いとも簡単におれからすべてを奪う。
 ずっと不思議だった。漆原がおれを選んだ理由。物語の主人公として相応しい人物像とはかけ離れている。もしおれでなく兄が対象だったとしたら、すこしは頷けるというものだ。兄だって完璧な人間ではないかもしれないが、すくなくとも、おれよりは納得がいく。
「……その服着て行ったのかよ」
「そうだけど?」
 個性的なデザインの服だ。あの日はいろいろあったし、漆原もおぼえていただろう。
 最悪の偶然。一澄が書店に出かけたのが平日なら、漆原のシフトは入っていなかった。ほかの服装なら、声を掛けることもなかったはずだ。声を掛けられなければ、一澄も何年も前に一度会っただけの後輩を思い出したりはしなかった。
 ふたりを会わせないほうがいいという直感は正しかった。そもそも、漆原が興味を持ったのはおれではなく一澄だったのだ。はじめから間違えていた。
「じゃ、みんな揃ったし、出かけますか」
 日沙乃が重い腰を上げる。書店での出来事にはもう関心はないようだ。おれは無言でその場を離れ、階段を上がった。
「なに、顕。忘れもの?」
「早くしてよ。おなか空いて死にそう」
 姉たちの声を背中に聞きながら、自分の部屋に入る。漆原に電話をかけたが出なかった。まだバイト中なのかもしれない。あるいは……
 スマホの通知音が鳴った。着信ではなくLINEだ。漆原から。メッセージをひらく手が震えた。
『ごめん。なんか勘違いしてたみたいだ』
 ふだんなら、着信を残しておけば、電話がかかってくる。気づいていながら、かけなおしてこないということは、おれとは話したくないのだろう。
『もう会わないほうがいいと思う』
 間髪を入れずに2通目のメッセージが届いた。短い文面からはなんの感情も読み取れなかった。怒っているのか、それとも落胆しているのか。おれにいわせれば、勝手に勘違いをしたのは漆原のほうだ。勝手に偶像を作り上げ、勝手に小説など書いて、おれを振り回した。
『わかった』
 それだけを書いて返信した。ほかになにもいいようがない。
 おれは漆原に依存し、期待していた。漆原なら、おれの本質を見てくれる。弱いところや至らないところも含めてすべてを受け容れてくれると思い込んでいた。間違いだった。けっきょくのところ、漆原も琴子や他の連中と変わらなかった。
 怒りよりも無力感のほうが大きかった。メッセージに既読がつくのを確認して、ベッドの上にスマホを放り投げた。
 あまりにもあっけない終わりかた。これが小説やドラマなら、手抜きだと思われても弁解できないだろう。
 漆原がおれに向けてくれた笑顔も、掛けてくれた言葉も、今となってはすべて虚しく心を通り過ぎるだけだった。
 床に膝をついた。まるで鉛を飲みこんだかのように全身が重い。階下から両親や姉たちが呼ぶ声が聞こえても、立ち上がることはできなかった。