塾でもほとんど勉強に身が入らなかった。漆原を弁当屋のバイトに送ってから、帰宅した。
週末、おれの家に漆原がくる。いっしょに勉強するためということにはなっていたが、密室にふたりきりだ。それだけで済むだろうか。おれが自制できるかどうかわからない。毎日のように漆原の小説で妄想を辿っては自分を慰めていた部屋だ。そこに漆原がいる。冷静でいられる自信はなかった。
前に漆原のアパートでふたりきりになったときは、抱きしめて、頬にキスした。次は唇にできるかもしれない。あるいは、それ以上のことも……
気づくと自宅の前に立っていた。ドアを開ける。玄関に見慣れない靴があった。男ものの白いスニーカー。藍色のラインが入っていて、シンプルだが高価なものだとわかる。こういう靴を履く人間はひとりしかいない。
舌打ちを堪える。兄が大学の長期休みを利用して帰ってくるとは聞かされていたが、今日だとは知らなかった。いや、母から聞いたかもしれないが、完全に忘れていた。
「おかえり、顕」
兄の一澄がリビングから顔を出した。
「おかえりじゃなくてただいまかな」
2年ぶりに会う兄は髪を明るく染めていた。もともとおれより背が高いが、筋トレでもしているのか、アメリカでの食生活のせいか、体も大きくなっているように見えた。
「遅かったな、顕」
リビングに家族全員が揃っていた。父はビールを飲んでいた。珍しく早く帰宅したようだ。姉も仕事を調整したようで、父に付き合ってビールを注いでいる。
「今日は早く帰ってきてっていっといたのに」
キッチンにいた母も出てくる。夕食は済ませたのか、テーブルに母がつくったつまみが並んでいる。兄の好物の唐揚げも皿に盛られていた。
「顕もごはん食べるでしょ」
適当に頷いて、2階に上がった。荷物を置き、着替える。さっきまではなんだか浮ついて落ち着かない気分だったが、一気に現実に引きもどされた。
迂闊だった。いつまで滞在するかはわからないが、すくなくとも週末は一澄が家にいるということだ。おれの部屋と兄の部屋は隣同士で、部屋に鍵をかけられるとはいえ、壁一枚隔てた隣室に兄がいる状況で漆原とどうこうするのはさすがに憚られる。
兄の詮索を交わしながらどうにか外出してもらう方法を考えながら階段を下りる。ダイニングテーブルにおれの食事が用意されていた。唐揚げのほかにハンバーグも皿に載っている。今日の主役は兄だが、おれの好物もさりげなく含まれていた。姉はビールからウイスキーに切り替えている。父か母が買っておいたのか自分で買ったのか、姉のお気に入りの銘柄だ。
「塾はどうだ、顕」
斜向かいに座った父が、ビールのグラスに口をつけながら尋ねてくる。ふだんは口数がすくない父だが、久しぶりに家族が揃ったからか、アルコールのせいか、いつになく饒舌だ。
「べつにふつうだよ」
「そうか」
あっという間に会話が終わる。おれは黙って食事をはじめた。母がキッチンで洗いものをしているようで水音が聞こえる。兄と姉はリビングで海外の政治問題などについて話している。
「顕、お漬けもの」
母が浅漬けの小皿を持ってくる。無意識に「ありがとう」といって、受け取った。
「あらやだ。今ありがとうっていった?」
「は?」
「お父さん、聞いた? 顕がありがとうだって」
「それがなんなんだよ。いちいちうるせえな」
大仰に驚く母をにらんで、乱暴に白飯を口に入れる。
「なに、顕、まだ反抗期つづいてんの」
兄がリビングのソファから首を伸ばす。
「だれがだよ。ガキじゃねんだから」
「じゅうぶんガキじゃん」
姉もいっしょになってからかってくる。
「でも最近はちょっとよくなったほうよ。洗いものだってたまにこっそりやっといてくれてるし」
「へえ」
兄が意外そうに眉を上げる。なんとなく居心地の悪さをおぼえ、おれは口を噤んだ。こういうときは無駄に反論しないほうがいいと経験上知っている。
「いわれてみれば、ちょっと雰囲気変わったね」
ソファの背に顎を乗せて、一澄がおれを観察してくる。無視して食事をつづけた。
「なんでかわかる?」
おれの代わりに答えたのは姉の日沙乃だった。ウイスキーのグラスを持ち上げながらいった。
「彼女できたからだよ」
「え、そうなの?」
「おい。勝手なこというなよ」
「でもほんとでしょ?」
日沙乃はかなり自信があるようで、グラスを持った手の指先をおれに向けてくる。
「顕、わかりやすいもん」
「どんな子? かわいい?」
一澄も身を乗り出してくる。おもしろがられているのはわかっていたが、不思議と悪い気はしない。潜在的に漆原とのことをだれかに話したいと望んでいたのかもしれない。
「かわいいよ」
ハンバーグを噛みながら、雑に答える。
「真面目だし、やさしい」
「へえ」
日沙乃が意味ありげに眉を上げる。姉兄が視線を交わすのを見て、おれは顔をしかめた。
「なんだよ」
「べつに。顕がそういう顔すんの珍しいなって思って」
ウイスキーのグラスを傾けながら、日沙乃がいう。
「いい子なんだな、彼女」
自覚していたわけではなかったが、漆原がおれにいい影響を与えているのは確かだろう。勉強にも真面目に取り組むようになったし、家族とも素直に向き合えるようになった。これまでは姉や兄と接するとき、無意識に引け目のようなものを感じていたが、いつの間にか負の感情は消えていた。一般的な能力や人間としての度量に差があったとしても、おれを一番に考えてくれる人間が存在するという事実が、家族や他人への態度を軟化させていた。
唐揚げとハンバーグという2種のおかずが並ぶ食卓。母も父も、3人の子どもたちを常に平等に扱ってきた。末っ子だからといって特別かわいがられたこともないが、蔑ろにされたこともない。それは最初の子である姉も、長男の兄もおなじだろう。しかし、おれは平等では満足できなかった。だれかに特別扱いされたい。並列でなく一番でいたかった。そういうふうに思ってくれる人間が、家族以外に必要だった。
「一澄も向こうで彼女できたんでしょ」
日沙乃に話題を向けられ、一澄が頷く。
「うん。写真見る?」
「中国の子だっけ」
一澄からスマホを受け取り、写真を眺めながら、日沙乃がいう。
「香港。政府の言論統制が厳しくて、家族でアメリカに移住したんだ」
両親にも写真を見せながら、一澄が話す。
「年はおなじだけど、人間的に成熟していて、尊敬できる」
恋人のことを話す一澄は誇らしげで、本人がその場にいなくても、深い愛情を感じた。一澄が選ぶほどの女だ。頭がいいだけでなく性格も穏やかでしっかりしているのだろう。
「日本にきたがってるから、そのうち紹介するよ」
「楽しみね」
スマホの写真を見ながら、母親も嬉しそうだ。
「顕の彼女の写真はないの?」
「ない」
母も姉兄も信じていなさそうだったが、それ以上追求はしてこなかった。
「一度彼女うちに連れてきなさいよ」
「……そのうちな」
さすがに男であるとはいえなかった。いつかは話す日もくるだろうが、今ではない。
「独り身はあたしだけか」
アルコールが回ってきはじめたのか、日沙乃が唇を尖らせて大仰に嘆く。
「結婚できなかったら、孫はあんたたちに任すわ」
「なにいってんの」
母親が呆れ顔になる。三十路を前にしていまだ独身の姉だが、言葉ほど焦っているわけではない。仕事は充実しているだろうし、使命感もある。両親も急かすようなことはいわなかった。
孫か……
まだ高校生で、結婚など考えたこともない。しかし、漠然とながら将来に思いを馳せるとき、そこには当然のように漆原がいた。結婚というひとつのゴールがないなかで、おれたちはこの先どこへ進んでいくのだろう。
賑やかな家族の会話をどこか遠くに聞きながら、おれはこれまで思い浮かべることさえなかった自分自身の生き方を考えていた。
週末、おれの家に漆原がくる。いっしょに勉強するためということにはなっていたが、密室にふたりきりだ。それだけで済むだろうか。おれが自制できるかどうかわからない。毎日のように漆原の小説で妄想を辿っては自分を慰めていた部屋だ。そこに漆原がいる。冷静でいられる自信はなかった。
前に漆原のアパートでふたりきりになったときは、抱きしめて、頬にキスした。次は唇にできるかもしれない。あるいは、それ以上のことも……
気づくと自宅の前に立っていた。ドアを開ける。玄関に見慣れない靴があった。男ものの白いスニーカー。藍色のラインが入っていて、シンプルだが高価なものだとわかる。こういう靴を履く人間はひとりしかいない。
舌打ちを堪える。兄が大学の長期休みを利用して帰ってくるとは聞かされていたが、今日だとは知らなかった。いや、母から聞いたかもしれないが、完全に忘れていた。
「おかえり、顕」
兄の一澄がリビングから顔を出した。
「おかえりじゃなくてただいまかな」
2年ぶりに会う兄は髪を明るく染めていた。もともとおれより背が高いが、筋トレでもしているのか、アメリカでの食生活のせいか、体も大きくなっているように見えた。
「遅かったな、顕」
リビングに家族全員が揃っていた。父はビールを飲んでいた。珍しく早く帰宅したようだ。姉も仕事を調整したようで、父に付き合ってビールを注いでいる。
「今日は早く帰ってきてっていっといたのに」
キッチンにいた母も出てくる。夕食は済ませたのか、テーブルに母がつくったつまみが並んでいる。兄の好物の唐揚げも皿に盛られていた。
「顕もごはん食べるでしょ」
適当に頷いて、2階に上がった。荷物を置き、着替える。さっきまではなんだか浮ついて落ち着かない気分だったが、一気に現実に引きもどされた。
迂闊だった。いつまで滞在するかはわからないが、すくなくとも週末は一澄が家にいるということだ。おれの部屋と兄の部屋は隣同士で、部屋に鍵をかけられるとはいえ、壁一枚隔てた隣室に兄がいる状況で漆原とどうこうするのはさすがに憚られる。
兄の詮索を交わしながらどうにか外出してもらう方法を考えながら階段を下りる。ダイニングテーブルにおれの食事が用意されていた。唐揚げのほかにハンバーグも皿に載っている。今日の主役は兄だが、おれの好物もさりげなく含まれていた。姉はビールからウイスキーに切り替えている。父か母が買っておいたのか自分で買ったのか、姉のお気に入りの銘柄だ。
「塾はどうだ、顕」
斜向かいに座った父が、ビールのグラスに口をつけながら尋ねてくる。ふだんは口数がすくない父だが、久しぶりに家族が揃ったからか、アルコールのせいか、いつになく饒舌だ。
「べつにふつうだよ」
「そうか」
あっという間に会話が終わる。おれは黙って食事をはじめた。母がキッチンで洗いものをしているようで水音が聞こえる。兄と姉はリビングで海外の政治問題などについて話している。
「顕、お漬けもの」
母が浅漬けの小皿を持ってくる。無意識に「ありがとう」といって、受け取った。
「あらやだ。今ありがとうっていった?」
「は?」
「お父さん、聞いた? 顕がありがとうだって」
「それがなんなんだよ。いちいちうるせえな」
大仰に驚く母をにらんで、乱暴に白飯を口に入れる。
「なに、顕、まだ反抗期つづいてんの」
兄がリビングのソファから首を伸ばす。
「だれがだよ。ガキじゃねんだから」
「じゅうぶんガキじゃん」
姉もいっしょになってからかってくる。
「でも最近はちょっとよくなったほうよ。洗いものだってたまにこっそりやっといてくれてるし」
「へえ」
兄が意外そうに眉を上げる。なんとなく居心地の悪さをおぼえ、おれは口を噤んだ。こういうときは無駄に反論しないほうがいいと経験上知っている。
「いわれてみれば、ちょっと雰囲気変わったね」
ソファの背に顎を乗せて、一澄がおれを観察してくる。無視して食事をつづけた。
「なんでかわかる?」
おれの代わりに答えたのは姉の日沙乃だった。ウイスキーのグラスを持ち上げながらいった。
「彼女できたからだよ」
「え、そうなの?」
「おい。勝手なこというなよ」
「でもほんとでしょ?」
日沙乃はかなり自信があるようで、グラスを持った手の指先をおれに向けてくる。
「顕、わかりやすいもん」
「どんな子? かわいい?」
一澄も身を乗り出してくる。おもしろがられているのはわかっていたが、不思議と悪い気はしない。潜在的に漆原とのことをだれかに話したいと望んでいたのかもしれない。
「かわいいよ」
ハンバーグを噛みながら、雑に答える。
「真面目だし、やさしい」
「へえ」
日沙乃が意味ありげに眉を上げる。姉兄が視線を交わすのを見て、おれは顔をしかめた。
「なんだよ」
「べつに。顕がそういう顔すんの珍しいなって思って」
ウイスキーのグラスを傾けながら、日沙乃がいう。
「いい子なんだな、彼女」
自覚していたわけではなかったが、漆原がおれにいい影響を与えているのは確かだろう。勉強にも真面目に取り組むようになったし、家族とも素直に向き合えるようになった。これまでは姉や兄と接するとき、無意識に引け目のようなものを感じていたが、いつの間にか負の感情は消えていた。一般的な能力や人間としての度量に差があったとしても、おれを一番に考えてくれる人間が存在するという事実が、家族や他人への態度を軟化させていた。
唐揚げとハンバーグという2種のおかずが並ぶ食卓。母も父も、3人の子どもたちを常に平等に扱ってきた。末っ子だからといって特別かわいがられたこともないが、蔑ろにされたこともない。それは最初の子である姉も、長男の兄もおなじだろう。しかし、おれは平等では満足できなかった。だれかに特別扱いされたい。並列でなく一番でいたかった。そういうふうに思ってくれる人間が、家族以外に必要だった。
「一澄も向こうで彼女できたんでしょ」
日沙乃に話題を向けられ、一澄が頷く。
「うん。写真見る?」
「中国の子だっけ」
一澄からスマホを受け取り、写真を眺めながら、日沙乃がいう。
「香港。政府の言論統制が厳しくて、家族でアメリカに移住したんだ」
両親にも写真を見せながら、一澄が話す。
「年はおなじだけど、人間的に成熟していて、尊敬できる」
恋人のことを話す一澄は誇らしげで、本人がその場にいなくても、深い愛情を感じた。一澄が選ぶほどの女だ。頭がいいだけでなく性格も穏やかでしっかりしているのだろう。
「日本にきたがってるから、そのうち紹介するよ」
「楽しみね」
スマホの写真を見ながら、母親も嬉しそうだ。
「顕の彼女の写真はないの?」
「ない」
母も姉兄も信じていなさそうだったが、それ以上追求はしてこなかった。
「一度彼女うちに連れてきなさいよ」
「……そのうちな」
さすがに男であるとはいえなかった。いつかは話す日もくるだろうが、今ではない。
「独り身はあたしだけか」
アルコールが回ってきはじめたのか、日沙乃が唇を尖らせて大仰に嘆く。
「結婚できなかったら、孫はあんたたちに任すわ」
「なにいってんの」
母親が呆れ顔になる。三十路を前にしていまだ独身の姉だが、言葉ほど焦っているわけではない。仕事は充実しているだろうし、使命感もある。両親も急かすようなことはいわなかった。
孫か……
まだ高校生で、結婚など考えたこともない。しかし、漠然とながら将来に思いを馳せるとき、そこには当然のように漆原がいた。結婚というひとつのゴールがないなかで、おれたちはこの先どこへ進んでいくのだろう。
賑やかな家族の会話をどこか遠くに聞きながら、おれはこれまで思い浮かべることさえなかった自分自身の生き方を考えていた。



