ドリンクバーといっしょに注文したもののほとんど手をつけていないポテトフライが乾いて冷めていく。思い出したように、漆原がフォークを取った。ポテトフライの端にフォークを刺して、口にはこぶ。目は参考書に落とされたまま、何度かおなじ動作を繰り返す。静かに咀嚼して、紙ナプキンで口元を拭うしぐさを、おれは頬杖をついて眺めていた。漆原はおれの視線に気づくことなく、紙ナプキンをていねいに畳んで、ポテトフライの皿の下に挟んだ。
祝日の今日、漆原は私服だった。白い無地のラグランスリーブにコットンのスラックス。おなじクラスの連中は貧乏人だと嗤うが、漆原は常に身だしなみに気を遣い、ひとつひとつの所作に品がある。ファストフード店で食べものの滓をテーブルにばら撒いて放置している奴らと較べればよほど上品だ。身につけているものも決して高級品ではないが、よく手入れされていて清潔感がある。
おれも自分のフォークを取り、ポテトフライを持ち上げた。漆原の目の前に差し出すと、迷惑そうに顔をしかめたが、圧し退けるほうが面倒だと感じたのか、おとなしく口をあけた。白い小さな歯が覗き、ポテトフライの端を囓る。
すこし厚めの唇が咀嚼の動きに合わせて揺れるのを見つめながら、おれは昨日頭のなかで繰り広げた妄想を甦らせていた。
漆原はキスを嫌ではなかったといった。頬ではあったが、2度目もさせてくれた。この先関係が深まっていけば、小説のふたりのような行為をすることがあるかもしれない。漆原の指がおれに触れ、この唇でおれの……
「なに」
視線を落としたまま、漆原がいった。
「なにか変なことでもある?」
「え、いや……」
慌てて取り繕ったが、声が上擦った。漆原がペンを握ったまま目を上げる。
「ずっと見てるじゃん」
気づいていたのか。おれはばつの悪さをぎこちない苦笑いで誤魔化した。
「そんなに見られたら集中できない」
「ああ……そうだよな、ごめん」
目薬をさした目にまだ違和感が残っているようで、漆原は何度も瞬きしながら首を伸ばしている。
「目、痛いのか」
「痛くはないけど、コンタクトの調子よくないかも」
一度しまいこんだ目薬をもう一度渡してやる。コンタクトレンズの買い換えにかかる出費のことを考えているのか、瞼を擦る漆原の顔は憂鬱そうだった。瞳を潤ませているのは目薬のせいだとわかっているのに、物憂げな表情に胸がざわめき、本能的に守ってやりたくなる。
「眼鏡にしねえの」
「前は眼鏡だったんだけど……」
両手で顔を覆うように瞼を押さえながら、漆原はいった。
「あ、そっか。おぼえてないんだっけ」
「なにを」
「ぼくたち、前に会ってるんだけど」
意外な話におれは戸惑った。
「いつ?」
「1年のとき」
記憶を辿ろうとしたが、うまくいかなかった。考え込んでいるおれを見て、漆原が笑う。
「気にしなくていいよ。たぶん忘れてるんだろうなって思ってた」
漆原と言葉を交わしたのは小説のモデルになっていることを打ち明けられたときがはじめてだと思い込んでいた。どこで会ってなにを話したのか、まったく記憶に残っていなかった。
「BL小説読んでるのを不良っぽい奴らにからかわれてたら、たまたま通りがかった風祭が助けてくれた」
どこかで聞いたような話だと思ったら、ドラマ化されたURUの1作目とまったくおなじ展開だ。読んだときにもピンとこなかったが、今こうして説明されてもまるで他人ごとのようだった。
「悪い。全然おぼえてない」
「いいよ。風祭にとってはたいしたことじゃなかったと思うし」
なんとなく釈然としなかった。忘れてしまうにしても、断片程度は甦らせることができそうなものだ。それこそまるで自分がモデルになった小説を読んでいるかのように現実感がない。
「それほんとにおれか?」
「うん。いっしょにいた友達が名前呼んでたし」
人違いかと思ったが、そうある名でもない。実際にその場で漆原がおれを見て声を聞いたというなら事実なのだろう。しかし、どうも素直に納得できない。実感が伴わないだけでなく、自分の行動を想像するのが難しかった。気まぐれを起こすにしても、人間、ふだんとちがうことはなかなかしないものだ。
「それがきっかけ?」
「なに?」
再び勉強にもどろうとしていた漆原が目を上げる。
「なんでおれなのかと……」
「ああ」
手のなかでシャーペンを弄びながら、漆原が答える。
「きっかけといえばきっかけだけど、風祭に興味を持ったのはそれだけじゃなくて……」
なぜおれだったのか。ほかにもたくさんいるのに、あえておれを選んだ理由。漆原は明確には答えていなかった。シャーペンの先を顎にあてて、漆原は思案している。
「なんだよ」
おれは焦れて身を乗り出した。漆原の本心を覗けるような気がしたが、それは一瞬だけで、漆原はすぐにいつもの困ったような笑顔で首を窄めた。
「忘れた」
「は? 忘れたってなんだよ。大事なとこだろ」
「なんだろ……なんか人間らしいところがいいと思ったのかな」
「なんだそれ。褒めてんのか」
「褒めてるだろ」
「そんなふうに聞こえねえよ。嘘でもかっこいいからとかいえよ」
「かっこいいっていわれたいの?」
「いわれたいだろ、そりゃ」
おれが拗ねているのを見て、漆原はますます楽しそうに目を細めた。シャーペンを握った拳を口元にあてて笑いを堪えている。
「明後日」
テーブルの端に置いたスマホを引き寄せ、ディスプレイを覗き込んでいう。
「バイト休みになった。シフト代わってって頼まれて……」
「話変えんなよな……」
おれの抗議を無視して、漆原はいった。
「いっしょにいれる?」
突然の申し出に、おれは不平を垂らすのを忘れてしまった。
「予定ある?」
漆原はシャーペンを弄りつづけている。目は伏せたままでおれのほうは見ていない。漆原の言動にはいつも突拍子がなく、なにを考えているのか想像さえさせてくれない。シャーペンの頭が唇を圧迫し、薄い皮と厚い肉がへこむ。
「週末だし、忙しいかな?」
「忙しくない」
咄嗟に声を上げた。思っていた以上に大きな声になり、周囲の視線を浴びてしまった。慌てて椅子に座りなおす。できる限り平静を装って、いった。
「すっげえ暇。なんも予定ない」
「ほんとに?」
「うん」
漆原から誘われたのははじめてだった。おれは逸る気持ちを抑えていった。
「どっか行きたいとこあんならいえよ」
「どこでもいいの」
「どこでもいいよ」
「じゃあ……」
すこし思案してから、漆原はいった。
「風祭んち行きたい」
思いがけない要望に、反応が一瞬遅れた。
「……おれんち?」
「うん。だめ?」
「だめじゃないけど……」
漆原がおれの家にくる。想像もしていなかった展開だ。いや、まったく頭になかったわけではない。厳密にいえば、何度も妄想していた。
「何時頃?」
「夕方くらいかな。弟たちにごはんつくってから……」
「7時後なら」
なるべく平坦な口調をつくっていう。
「親が出かけるから」
「ご両親、いないの?」
「だれもいない。おれだけ」
「そっか」
「たまたまその日は」
「うん」
なんとなくふたりとも言葉を切って、静かになる。店内の喧噪が突然気になりはじめた。
「おれ末っ子なうえに出来損ないだからほっとかれてんだよ」
動揺を隠すためにあえて冗談めかした口調でいったが、漆原は笑わなかった。
「そんなことないと思う。信頼されてるんだよ」
真剣な表情で窘められ、自分の迂闊さに気づいた。漆原は母親を病気で亡くしている。両親ともに健在で、なんの不自由もなく生活している立場で、くだらない不満を漏らしてしまった。
「そうかもな」
「そうだよ」
漆原はそれ以上追求せず、また参考書を捲りはじめた。怒っているわけではないらしい。すこしほっとする。
「でも静かだと勉強しやすそうだよね」
「勉強?」
漆原の言葉に思わず聞き返す。
「勉強すんのかよ」
「しないの?」
丸い瞳に見つめられて、答えに窮した。振り回されているような気もするが、はじめから勉強するつもりで場所を探していただけだと説明されればそれで済んでしまう。
けっきょく、それ以上なにも聞けないまま、高揚とわずかな違和感を抱きながら、漆原のバイトとおれの塾がはじまる時間までファミレスにいた。当然ながら、参考書の内容はまったく頭に入ってこなかった。
祝日の今日、漆原は私服だった。白い無地のラグランスリーブにコットンのスラックス。おなじクラスの連中は貧乏人だと嗤うが、漆原は常に身だしなみに気を遣い、ひとつひとつの所作に品がある。ファストフード店で食べものの滓をテーブルにばら撒いて放置している奴らと較べればよほど上品だ。身につけているものも決して高級品ではないが、よく手入れされていて清潔感がある。
おれも自分のフォークを取り、ポテトフライを持ち上げた。漆原の目の前に差し出すと、迷惑そうに顔をしかめたが、圧し退けるほうが面倒だと感じたのか、おとなしく口をあけた。白い小さな歯が覗き、ポテトフライの端を囓る。
すこし厚めの唇が咀嚼の動きに合わせて揺れるのを見つめながら、おれは昨日頭のなかで繰り広げた妄想を甦らせていた。
漆原はキスを嫌ではなかったといった。頬ではあったが、2度目もさせてくれた。この先関係が深まっていけば、小説のふたりのような行為をすることがあるかもしれない。漆原の指がおれに触れ、この唇でおれの……
「なに」
視線を落としたまま、漆原がいった。
「なにか変なことでもある?」
「え、いや……」
慌てて取り繕ったが、声が上擦った。漆原がペンを握ったまま目を上げる。
「ずっと見てるじゃん」
気づいていたのか。おれはばつの悪さをぎこちない苦笑いで誤魔化した。
「そんなに見られたら集中できない」
「ああ……そうだよな、ごめん」
目薬をさした目にまだ違和感が残っているようで、漆原は何度も瞬きしながら首を伸ばしている。
「目、痛いのか」
「痛くはないけど、コンタクトの調子よくないかも」
一度しまいこんだ目薬をもう一度渡してやる。コンタクトレンズの買い換えにかかる出費のことを考えているのか、瞼を擦る漆原の顔は憂鬱そうだった。瞳を潤ませているのは目薬のせいだとわかっているのに、物憂げな表情に胸がざわめき、本能的に守ってやりたくなる。
「眼鏡にしねえの」
「前は眼鏡だったんだけど……」
両手で顔を覆うように瞼を押さえながら、漆原はいった。
「あ、そっか。おぼえてないんだっけ」
「なにを」
「ぼくたち、前に会ってるんだけど」
意外な話におれは戸惑った。
「いつ?」
「1年のとき」
記憶を辿ろうとしたが、うまくいかなかった。考え込んでいるおれを見て、漆原が笑う。
「気にしなくていいよ。たぶん忘れてるんだろうなって思ってた」
漆原と言葉を交わしたのは小説のモデルになっていることを打ち明けられたときがはじめてだと思い込んでいた。どこで会ってなにを話したのか、まったく記憶に残っていなかった。
「BL小説読んでるのを不良っぽい奴らにからかわれてたら、たまたま通りがかった風祭が助けてくれた」
どこかで聞いたような話だと思ったら、ドラマ化されたURUの1作目とまったくおなじ展開だ。読んだときにもピンとこなかったが、今こうして説明されてもまるで他人ごとのようだった。
「悪い。全然おぼえてない」
「いいよ。風祭にとってはたいしたことじゃなかったと思うし」
なんとなく釈然としなかった。忘れてしまうにしても、断片程度は甦らせることができそうなものだ。それこそまるで自分がモデルになった小説を読んでいるかのように現実感がない。
「それほんとにおれか?」
「うん。いっしょにいた友達が名前呼んでたし」
人違いかと思ったが、そうある名でもない。実際にその場で漆原がおれを見て声を聞いたというなら事実なのだろう。しかし、どうも素直に納得できない。実感が伴わないだけでなく、自分の行動を想像するのが難しかった。気まぐれを起こすにしても、人間、ふだんとちがうことはなかなかしないものだ。
「それがきっかけ?」
「なに?」
再び勉強にもどろうとしていた漆原が目を上げる。
「なんでおれなのかと……」
「ああ」
手のなかでシャーペンを弄びながら、漆原が答える。
「きっかけといえばきっかけだけど、風祭に興味を持ったのはそれだけじゃなくて……」
なぜおれだったのか。ほかにもたくさんいるのに、あえておれを選んだ理由。漆原は明確には答えていなかった。シャーペンの先を顎にあてて、漆原は思案している。
「なんだよ」
おれは焦れて身を乗り出した。漆原の本心を覗けるような気がしたが、それは一瞬だけで、漆原はすぐにいつもの困ったような笑顔で首を窄めた。
「忘れた」
「は? 忘れたってなんだよ。大事なとこだろ」
「なんだろ……なんか人間らしいところがいいと思ったのかな」
「なんだそれ。褒めてんのか」
「褒めてるだろ」
「そんなふうに聞こえねえよ。嘘でもかっこいいからとかいえよ」
「かっこいいっていわれたいの?」
「いわれたいだろ、そりゃ」
おれが拗ねているのを見て、漆原はますます楽しそうに目を細めた。シャーペンを握った拳を口元にあてて笑いを堪えている。
「明後日」
テーブルの端に置いたスマホを引き寄せ、ディスプレイを覗き込んでいう。
「バイト休みになった。シフト代わってって頼まれて……」
「話変えんなよな……」
おれの抗議を無視して、漆原はいった。
「いっしょにいれる?」
突然の申し出に、おれは不平を垂らすのを忘れてしまった。
「予定ある?」
漆原はシャーペンを弄りつづけている。目は伏せたままでおれのほうは見ていない。漆原の言動にはいつも突拍子がなく、なにを考えているのか想像さえさせてくれない。シャーペンの頭が唇を圧迫し、薄い皮と厚い肉がへこむ。
「週末だし、忙しいかな?」
「忙しくない」
咄嗟に声を上げた。思っていた以上に大きな声になり、周囲の視線を浴びてしまった。慌てて椅子に座りなおす。できる限り平静を装って、いった。
「すっげえ暇。なんも予定ない」
「ほんとに?」
「うん」
漆原から誘われたのははじめてだった。おれは逸る気持ちを抑えていった。
「どっか行きたいとこあんならいえよ」
「どこでもいいの」
「どこでもいいよ」
「じゃあ……」
すこし思案してから、漆原はいった。
「風祭んち行きたい」
思いがけない要望に、反応が一瞬遅れた。
「……おれんち?」
「うん。だめ?」
「だめじゃないけど……」
漆原がおれの家にくる。想像もしていなかった展開だ。いや、まったく頭になかったわけではない。厳密にいえば、何度も妄想していた。
「何時頃?」
「夕方くらいかな。弟たちにごはんつくってから……」
「7時後なら」
なるべく平坦な口調をつくっていう。
「親が出かけるから」
「ご両親、いないの?」
「だれもいない。おれだけ」
「そっか」
「たまたまその日は」
「うん」
なんとなくふたりとも言葉を切って、静かになる。店内の喧噪が突然気になりはじめた。
「おれ末っ子なうえに出来損ないだからほっとかれてんだよ」
動揺を隠すためにあえて冗談めかした口調でいったが、漆原は笑わなかった。
「そんなことないと思う。信頼されてるんだよ」
真剣な表情で窘められ、自分の迂闊さに気づいた。漆原は母親を病気で亡くしている。両親ともに健在で、なんの不自由もなく生活している立場で、くだらない不満を漏らしてしまった。
「そうかもな」
「そうだよ」
漆原はそれ以上追求せず、また参考書を捲りはじめた。怒っているわけではないらしい。すこしほっとする。
「でも静かだと勉強しやすそうだよね」
「勉強?」
漆原の言葉に思わず聞き返す。
「勉強すんのかよ」
「しないの?」
丸い瞳に見つめられて、答えに窮した。振り回されているような気もするが、はじめから勉強するつもりで場所を探していただけだと説明されればそれで済んでしまう。
けっきょく、それ以上なにも聞けないまま、高揚とわずかな違和感を抱きながら、漆原のバイトとおれの塾がはじまる時間までファミレスにいた。当然ながら、参考書の内容はまったく頭に入ってこなかった。



