ぼくらの恋には込み入った事情が。

 背後で物音が聞こえた気がして、花森は大きく体を震わせた。頭を支えていた風間の手に力が籠もる。
「あ、ごめんなさい……」
 手のなかの質量が変化するのを感じて、視線を上げた。
「歯を立てちゃったかも……」
「だいじょうぶ。つづけて」
 深夜のオフィスにはふたりだけで、ほかにだれもいなかった。音が聞こえたと思ったのは強迫観念による思い違いだったのかもしれない。あるいは、ふだん仕事をしている場所で背徳的な好意に浸る罪悪感。
 風間は自分のデスクに臀部を預けて立っていた。その前に膝をついて、花森は上司の股の間に顔を埋め、硬く猛りきったものに舌を這わせていた。独特の匂いが鼻をつき、興奮をより掻き立てられる。
 先端を口に含み、体液を搾り取るように唇を窄める。烈しく音を立てて吸っているうちに、背徳感は消え去り、目の前の男とそれを主張する凶器に夢中になっていた。
「花森……」
 頭上に降る風間の声に息が混じる。興奮しているのはわかっていた。口のなかで脈打つ血管の動きを頬の内側に感じていたからだ。それでも、熱い息づかいに鼓膜を震わされると、たとえようのないよろこびが沸き上がってたまらなくなる。
「花森」
 没頭しすぎていて、呼び掛けられたことに気づかなかった。風間の両手に頭を撫でられ、促されて唇を離した。
 不服そうな顔をしていたのだろう。花森を見下ろす風間の表情が緩む。
「気持ちよくなかったですか?」
「そんなわけない。最高」
 風間はやさしくいって、花森の頬を掌で覆った。唇の端にこびりついた体液の玉を指先でこそげ取る。ワイシャツの腕を取って立たせると、頬から腰へと手を滑り落とした。
「だめ……」
 臀部の肉をつよくつかまれると、踵が浮く。きつく抱きしめられて唇を吸われると、頭がぼんやりとしてまともな思考ができなくなる。
「ちょっ……部長!」
 体を裏返され、デスクに胸を圧しつけられて、ようやく我に返った。抵抗しようと身を捩ったが、腕を押さえられて動けない。動揺しているうちに、スーツのズボンと下着を下ろされた。
「だめです。やめて……」
「なんで?」
 風間が背後から折り重なってくる。熱い息が耳の裏を擽って、力が入らない。風間の体重を背中に感じ、デスクの表面に胸が擦れて、なにも考えられなくなる。
「本当にだめです。ここじゃ……」
「だいじょうぶ。だれもいない」
「警備員さんが……」
「ここまでは上がってこないよ」
「でも……っ」
 抗議の声が大きく弾んで、花森は唇を結んだ。露わになった臀の隙間に風間の指が潜り込んできた。
「だめだめ、絶対だめです。こんなのだめ……」
 何度も繰り返すが、風間は聞き入れない。指を増やして、さらに奥まで刺激してくる。体液があふれて音を立てる。
 これまでに何度も体を繋げてきたが、職場では一線を越えずにいた。だから今日も中断するとたかをくくっていた。甘かった。こめかみを擦る風間の息の荒さが、冗談でもなんでもないと伝えていた。
 指の動きが烈しさを増し、花森は掌で唇を覆って声を抑えるのに精一杯だった。体の奥がじんじんと熱くなって、目の前が霞んでいく。
「部長、お願い……」
 さっきまで口のなかを犯していたものが今は花森の脚の付け根を圧迫し、皮膚を擦っている。
「ん?」
 顔が近づけられる気配がして、首を捻った。キスされると必死で舌を吸い、唾液を啜った。
「なに? 花森」
 睫毛同士が重なるほどの距離で視線があった。促されるように見つめられ、花森はついに陥落した。
「いれてください……」

「いれてくれる?」
 突き出された掌が目に入らなかった。おれは跳ね上がって、膝をテーブルの裏に強かぶつけた。
「はっ? な、なにを? てかなにいってんの、おまえ、いきなり……」
 狼狽えているおれを訝しげな眼差しで見て、手のなかの目薬をおれの目の前に置いた。
「これ、鞄に入れといてって」
 夕方からのバイトにつかう制服や弁当を持ち歩くため、漆原の荷物は多い。向かい側に座ったおれの横の空いたスペースにバイト用のバッグを置いていた。
「……びっくりさせんなよ」
「こっちがびっくりしたよ」
 漆原は呆れ顔を見せたが、それ以上追求することなく、再び参考書を捲りはじめた。中間試験がちかい。学校は祝日で休みだったが、ファミレスで勉強するという漆原にくっついてきた。家では弟たちが騒いで集中できないというが、祝日の騒がしいファミレスでも漆原は黙々とシャーペンをはしらせ、参考書の問題を解くのに没頭している。おかげでおれは好きなだけ漆原を観察することができた。
 姿勢をまっすぐにして参考書の文字を目で追う漆原の顔は純真そのものといった印象で、あれほど露骨な妄想を文章にして公開しているなどとは想像すらできない。
 キスさえしたことがなかったはずの漆原の頭のなかで、男同士が痴態を繰り広げているのだと思うと、ギャップの大きさに驚きを隠せなかった。キスしたり体に触れたりしたときの反応が演技だとは思わないが、まだ経験がないという主張が真実だとしたら、なぜあれほど具体的な描写が可能なのか。つい疑いたくなるほど、漆原が書く小説は扇情的で、あまりにリアルだった。おかげでおれはここのところ夜あまり眠れていない。昨日も終業後のオフィスで背徳的な行為に耽るけしからん会社員を種に自分を慰めていた。体はすっきり軽かったが、睡眠時間はあきらかに不足している。
「無理して付き合わなくていいよ」
 欠伸を噛みころすおれに気づいた漆原が目を伏せたままいう。
「風祭は塾もあるんだし」
「べつに。勉強はいくらやったっていいだろ」
「そんなこといって、全然すすんでないじゃん」
 漆原の参考書とは対照的に、おれの肘の下敷きになったノートはもう1時間ちかく白紙のままだった。
「おまえこそ、受験しないのにテスト勉強する必要あんの」
「勉強もちゃんとするっていってバイトしてるから」
 学校がそこまで干渉するとは思えないから、父親と交わした約束だろう。父親に請われて家計を助けているものと思い込んでいたが、むしろ逆のようだ。
「ほんと真面目だな」
 いまどき珍しいほど生真面目な漆原が、夜のオフィスでいかがわしい行為にはしるような不真面目極まりない妄想を抱いている。おれは心理学に詳しいわけではないが、心の奥底ではルールや常識を無視して大胆な行為に及びたいという欲求を疼かせているのではないだろうか。直接問い詰めても否定するだろうが、小説としてかたちにしているわけだから、まったく関心がないはずがない。
 もちろん、「風間謙太郎」の相手にもモデルがいるとは聞かされていないし、それが漆原本人であるという確証もない。しかし、姉の日沙乃に指摘されてからというもの、おれの頭のなかでは、全員が常に漆原を連想させるようになっていた。日沙乃の着眼点はさすがといえるもので、たしかに、気弱でおとなしく、しかしどこか頑固な一面も併せ持つ相手役の男たちには、それぞれすこしずつ漆原を思わせる部分があった。