ぼくらの恋には込み入った事情が。

「信じられない」
 声がして、顔を上げた。大きなリュックサックを背負った漆原が楽しげな顔で立っていた。
「風祭が読書してる」
「悪いかよ」
 ハードカバーの本を閉じ、立ち上がる。ほぼ空になっていたソーダのプラカップを店内のダストボックスに放り込んでいる間に、漆原がテーブルの上の本を引っ繰り返していた。
「見んなよ」
 文句をいったが、遅かった。漆原は両手で本を目の前に掲げ、視線をずらしておれを見た。
「学校の図書室で借りたんだよ。おまえがおもしろいっていったから」
「本の借り方知ってたんだ」
「いい加減怒るぞ」
 漆原の手から本を奪い返す。漆原はまだ笑っていた。あからさまに馬鹿にされているというのに、まったく腹が立たない。嘲笑には敏感なはずなのに、不思議だった。
「行くか」
「うん」
 ファストフード店を出て歩きはじめる。道路を挟んだ反対側に、漆原がバイトをしている書店がある。塾が終わった後、書店が見えるこの店で時間を潰しながら漆原を待つ。バイトを終えた漆原と合流し、次のバイトに向かう道のりをふたりで歩くのが日課になっていた。
 もうひとつのバイト先である弁当屋までは徒歩15分程度だ。手をつなぐわけでもキスをするわけでもなく、ただ他愛ない話をしながら歩くだけの15分だったが、毎日つづけているうちに、おれにとって1日のなかでもっとも大切な時間になっていた。
「ドラマ、視聴率いいみたいでよかったな」
「見てるの?」
「いや、実はまだちゃんとは見てない」
 正直にいうと、漆原は安堵したように短く「そっか」とだけいった。落胆するかと思っていた。放送は佳境に差し掛かるところだったが、漆原からドラマの話をすることはなかった。
「漆原は見てねえの?」
「え?」
「原作者だろ」
「ああ……事前に映像もらって見てるよ」
「気に入らねえの? 出来、いまいち?」
「そういうわけでは……」
 漆原の口調はいつになく歯切れが悪い。
「ドラマそのものはすごくていねいにつくってもらえて満足してるし、ありがたいんだけど……宣伝のやりかたっていうか……」
 ダブル主演のイケメン俳優ふたりが宣伝用に作成したSNSアカウントでは疑似カップルとして仲睦まじいやりとりが日々展開されていた。おれにはおとなのやりくちはよく知らないが、ああいうものはきっと本人でなく専門スタッフが代行しているのだろう。
「べつにいいんじゃねえの。よろこんでるひとがいるんだし、本人たちも事務所もちゃんと納得してのことなんだろうから、だれも損しないんだろ」
「わかってるけど……」
 原作者とはいえ、マーケティングにまで口を挟む権限は与えられていないのだろう。まして漆原はまだ高校生だ。
「なんか嫌なんだ。実際の性的マイノリティを愚弄しているみたいで」
 作家なだけあって、複雑な言葉をつかう。俯いて歩く表情は曇っていた。
「ただかっこいいとか萌えとかそういうもののために手軽に消費するのはなんかちがうっていうか」
「真面目だな」
 視聴率がギャラに影響することがあるのかは知らないが、ドラマが話題になるのは望ましいことのはずだった。しかし、漆原のことだから、簡単には割り切れないのだろう。
「漆原がてきとーな気持ちで書いてるんじゃないってことはおれがわかってるよ」
「うん……ありがとう」
 スマホの通知音が鳴った。おれのスマホだ。片手で操作するおれを漆原が見る。
「塾から。来週テストやるってさ」
 全員に送られている一斉連絡だ。返信の必要はない。確認だけして、スマホをポケットに捻じこんだ。
「塾、慣れてきた?」
 夜が更けて暗くなった商店街を歩きながら、漆原が尋ねてくる。
「多少な」
 部活を卒業した後に通い出した塾では、夏休みを境に、受験に向けたスパートをかけはじめていた。
 当初は受験に意欲が湧かず、身の丈にあった地元の国立大を受けるつもりだったが、両親と担当教員の薦めもあり、ランクを上げた都内の私立大に方針転換していた。現状は合格ラインぎりぎりといったところで、週末の補講を追加するなどよりハードになっていたが、充実していた。
「漆原は就職するんだろ?」
「うん」
 家庭の事情もあり、漆原は大学受験しないことをすでに学校にも伝えていた。
 漆原の母が病死したのは漆原が中学3年のときだったという。難病を煩い、長い闘病の末に息を引き取ったそうだ。保険適用外の治療や薬のため、親戚や知人に金を借りており、返済のため、父親は遠洋漁業の乗組員として働いている。1年のほとんどを海上で過ごすため、漆原が弟たちの面倒を見ていた。
 漆原は中学を卒業してすぐに働くつもりだったが、父親に反対され、しかたなく高校に進学したそうだ。
 漆原のクラスで聞いたところによると、授業中に寝ていることは多いものの、成績は悪くないとのことだった。ほぼ毎日深夜まで働いているのにもかかわらず、欠席や遅刻もほとんどない。真面目なうえに地頭がいいのだろう。
「就職先、決まってんの?」
「まだ」
「小説はつづけるんだろ」
「月刊誌の連載も決まったし、できればつづけたいと思ってるけど」
「ちょっと待て。雑誌に小説が載るのか?」
 思わず足を止めた。先に行きかけた漆原が振り向く。
「すげえじゃん。なんでいわねえんだよ」
「聞かれなかったから」
 悪気があって隠していたわけではないのはあきらかだった。漆原は自分のことをほとんど話さない。両親のことや進路のこともしつこく聞いたから打ち明けたのだ。そうでなければおれは漆原のことをなにも知らないままだ。
「おまえ、ほんとなんも教えてくんねえよな」
 再び歩きながら、冗談交じりに抗議する。
「そういうわけじゃないけど……」
「おれのことはなんでも知ってるのにずるくねえか」
「風祭は聞かれてないこともしゃべるから」
 情けないが、そのとおりだ。漆原は告白の成功や学校での愚痴をSNSや配信でぺらぺらしゃべるタイプではない。
「それに、なんでも知ってるわけでもないし」
「知らないことあんのかよ」
「どうかな」
「おれなんも隠してないけど」
「うん、わかってる」
 漆原が思わせぶりに首を傾げる。不服だったが、軽口を叩けるほど距離が近くなったと喜ぶべきなのだろう。
 商店街のアーケードをくぐり、大通りに出る。バイト先の弁当屋はもうすぐだ。無意識に歩幅が狭まる。
 漆原がデニムのポケットからスマホを取り出すのを横目に見る。
「ていうかおまえ、いい加減連絡先教えろよ」
「だめ」
「なんで」
「教えたら連絡するじゃん」
「するに決まってんだろ。連絡しなかったらただの『先』じゃねえか」
「たしかに」
 漆原が笑う。なにげないやりとりがいとおしい。
「教えてもいいけど、ぼくそんな携帯見ないから、返信遅いよ。バイト中は見られないし」
「わかってる」
 漆原が差し出すスマホを受け取り、気が変わる前に素早く自分の連絡先を登録する。LINEスタンプを送信し、自分のスマホが受信できていることを確認すると、返す前にカメラを起動した。
「漆原、こっちきて」
 漆原の腕を引き、舗道の端へ誘導する。居酒屋の看板の灯の下に場所を移すと、肩を抱いて顔を寄せた。
「なに」
「写真撮ろうぜ」
 戸惑っている漆原を促して、スマホの画面を指し示す。内蔵カメラには頬を寄せ合うおれたちの姿が映っていた。
「恥ずかしいよ」
「こんくらいふつうだろ。ほら、笑えって」
 何枚か連続で撮影したが、どの写真の漆原もぎこちない笑顔で、あからさまに表情が強張っている。
「写真撮ったことねえの、おまえ」
 現役高校生とは思えない緊張ぶりに思わず笑ってしまう。
「苦手なんだよ」
 漆原の抗議を無視して、撮影した写真を自分のLINEアカウントに送信する。
「風祭ってたまに強引だよね」
 ようやく返ってきたスマホをポケットにしまいこみ、漆原がいう。呆れてはいるようだが、言葉に怒気は感じられなかった。
「強引にしないとおまえ全然話聞いてくんないじゃん」
「そん……」
 スマホのアラーム音。今度は漆原のものだった。何度か聞いたことのある音色。弁当屋のバイトがはじまることを報せる合図だ。同時に、短いデートの終わりを告げている。
「行かないと」
「うん」
 まだそれほど遅い時間ではない。舗道には通行人の姿も多かった。もし他人の視線を顧みる必要がない状況であれば、おれは間違いなく漆原の手を握りしめていただろう。そのあとなにをいうか、なにをするかまでは考えられていない。
「漆原」
 弁当屋のほうへ足を踏み出しかける漆原に声をかけた。
「なに?」
「いや……」
 どう伝えればいいのか。けっきょく、単純に、正直に話した。
「おれ、おまえといっしょだと、楽っていうか、楽しい」
 子どもじみた言葉になってしまったが、漆原は笑わなかった。おれをじっと見つめて、いった。
「ぼくも好き、風祭といるの」
「……そっか」
 胸の奥で生まれたあたたかい感情が全身に広がっていく。はじめての感覚だった。
 バイトへ向かう漆原の背中を見送り、振り返って手を振る漆原に手を挙げてみせて、弁当屋のドアが閉まってもしばらくの間、おれはその場に突っ立っていた。