ぼくらの恋には込み入った事情が。

「漆原」
 名前を呼ばれただけなのに、まるでショットガンの弾丸を背中に食らったかのように、漆原は大きく体を震わせた。
「か、風祭……くん……」
「あのさあ、こないだの……」
 手にしたバッグの中身を探ろうと一瞬目を伏せ、再び前を向いたときには、漆原の姿はすでに遠くなっていた。
「おい……待てよ、漆原!」
 全速力で走っていく漆原を追いかける。漆原は信じられないほど足が遅かった。不意を衝かれたのにもかかわらず、あっという間に追いついた。
「待てってば!」
 制服の腕をつかむと、観念したのかようやく足を止めた。体を折り曲げ、膝に手を張って、喘ぐように酸素を吸う。ふだん運動していないのか、かなり呼吸がくるしそうだ。おれのほうは部活で毎日ランニングをしている。これくらいの距離で息を乱すことはない。
「なんで逃げんだよ」
「だって……」
 漆原は烈しく咳き込みながら答えた。
「恥ずかしい……」
「なんだよ、恥ずかしいって」
 思わず笑うと、つよい視線に睨まれた。
「自分が書いた小説を読まれたら恥ずかしいに決まってる」
「何万人って読まれてんのに今さら」
「知らないひとに読まれるのと同級生に読まれるのは全然ちがうよ」
 おれの手を振りほどき、その場にへたりこむ。抱えた膝の間に頭を挟み、深いため息を吐く。ようやくすこし落ち着いたようで、汗で額に纏わりつく前髪を手で雑に撫で払った。
「もうやだ。死にたい……」
「そんな大袈裟なことじゃないだろ」
 呆れ半分に首を窄める。周囲にひとがいないことを確認する。放課後の学校内は部活をはじめる生徒や職員室に移動する教員の姿も多かった。すぐ裏の体育館からはバスケット部がボールをバウンドさせる音と部員たちの声が聞こえてきた。
「おもしろかったよ、おまえの小説」
 声を顰めていった。
「それいおうと思ってさ。べつに批判しにきたわけじゃない」
「嘘だ」
「嘘じゃねえよ」
「嘘。絶対嘘」
「なんでそう思うんだよ」
「おもしろいわけないもん。気持ち悪いに決まってるもん」
 こっちがせっかく気を遣ってこそこそしているのに、漆原は叫び出しそうなほどだった。
「べつに気持ち悪いとかはねえよ」
「嘘だ。勝手にキャラクターのモデルにされて気持ち悪くないわけない」
 消え入りそうなほど全身を縮めて、漆原が声を震わせる。
「いや……それはたしかにびっくりしたけどさ、でもほんとにおもしろかったよ。最後のとことかけっこう感動した」
「……最後ってどこ」
「ほら、最後んとこでさ、暴走族に拉致られた風間を雨宮が助けに行くとこ。感動の再会ってやつだよな」
 昨日の夜に読んだ小説のラストシーンを思い出しながら説明する。漆原がこわごわというように顔を上げた。
「ほんとに読んだんだ……」
「だから読んだっていってんじゃん」
 あまりのしつこさに苦笑いする。
「名前からして、風間ってのがおれかなって思ったんだけど、あってる?」
「あってる……」
 漆原の声は細く、弱々しかった。羞恥心でひとを殺せるなら、おれは犯罪者になってしまうだろう。
「ほんとに気持ち悪くないの……」
「気持ち悪くないって。なんでそんな気にすんだよ」
「だって、めちゃくちゃ乙女展開だし……ていうかBLだし」
「まあ、そこは若干まだ戸惑ってるけど……」
 ぎこちない沈黙。すこし離れたグラウンドで集合の号令が響いている。野球部監督の声だ。
「やべ。行かないと」
 まだ制服のままで着替えてもいないおれは焦って体の向きを変えた。首だけ残して、漆原に声をかける。
「部活終わったあと、ほかのも読むから」
「もういいってば!」
 漆原が顔を真っ赤にしているのを見て、おれは笑った。掌を閃かせ、いった。
「またな、シオン」
「……馬鹿!」
 背後で漆原がどんな顔をしているのか想像しながら、おれは笑いを噛みころしてグラウンドを目指し走っていった。

「ちょっと待ってください、風間部長」
 エレベータに乗り込む上司を追いかけ、花森は社内の廊下を走った。扉が閉まる寸前に体を割り入れると、風間は驚いたように身を引いた。
「なんだ、どうした、花森」
「すみません、あの……」
 全速力で走ったために息が切れ、言葉が不自然に途切れた。
「だいじょうぶか」
「はい……」
 風間の大きな掌にやさしく背中を撫でられ、花森は顔を赤らめた。
「あの、部長……」
「ん?」
「次長から聞いたんですけど。沖縄出張のこと」
「ああ、あれか」
 1階のボタンを圧しながら、風間はにやりと笑った。
「不満か? 行きたくない?」
 文字盤に体を向けたまま、風間が悪戯っぽく微笑む。
「まさか。お供できるなんてすごく光栄です。でも新人のぼくなんかが……変な誤解が生まれないか心配で」
「心配いらない。仕事なんだからだれも疑わないよ」
 ストレートな言葉に、花森は顔を真っ赤にして俯いた。
「噂になっても、おれは構わないけど」
 伸びてきた手を避けて身を縮こまらせる。
「ちょっと……会社じゃだめって約束したじゃないですか」
「わかったよ。就業時間まで我慢する」
 拗ねた表情をつくって、風間は手を引っ込めた。エレベータの壁に半身を預け、部下で恋人の男を熱い眼差しで見つめた。
「じゃ、仕事終わったら家に行くから」
「はい」
「沖縄で水族館デートしような」
「はい……」
 これ以上赤くなれないというほどに頬を染め上げ、花森は腰の前で両手を擦り合わせた。そわそわと落ち着きのない花森をいとおしげに眺め、風間は壁を離れた。エレベータが1階に到着するところだった。
「じゃあ、おれは依頼主との打ち合わせがあるから」
「わかりました」
 受付の前で別れる。反対方向に進みかけたところで、風間が花森を呼び止めた。
「花森」
「はい?」
 振り返った花森に、風間はいつもの悪戯っぽい笑顔でいった。
「今日はNO残業デーだからな」
 花森は再び真っ赤になって、社員たちが行き交うエントランスに呆然と佇んだ。

「リーマンものもあんのかよ……」
 呟いた拍子に、指の間からスマホが滑り落ちた。自室のベッドで仰向けになってスマホを掲げる姿勢になっていたため、落下したスマホが顔面に直撃して、思わず声が出た。
「うるさいよ、顕! 早く寝なさい!」
「わかってるよ!」
 ドアの外で怒鳴る母に一言だけ返事をして、のそのそと起き上がる。
「くそ、いてえ……」
 スマホの角が激突した鼻を軽く指先で押さえ、顔をしかめる。自分の部屋にひとりでいるのではだれに当たることもできない。情けない姿で、ベッドの上にあぐらをかく。
 イケメンが台無しだなどと考え、鼻の付け根を撫でながら自嘲の笑みを浮かべる。
 自分のことはわかっている。美少年でもなければ長身でも筋肉質でもない、どこにでもいるふつうの男子高校生だ。学校の成績は中の下程度だし、所属する野球部では一度もレギュラーに選ばれたことがなく3年間ベンチをあたためつづけている。正義の味方の風間くんのように勇敢でもないし、風間部長のようなエリートでもない。小説のなかで描かれる主人公とは似ても似つかない平凡な男だ。
 卑下しているわけではない。客観的に見て、特別なところは見つけられなかった。恋愛小説の登場人物のモデルとして関心を向けられる理由がまったくわからない。
 鼻を啜りながら部屋を出る。階段を下りると、リビングのソファに寝転がって本を読んでいた姉の日沙乃が首を捻った。
「おーす、顕」
「姉ちゃん、帰ってたのか」
 都内のテレビ局で記者として働いている姉の時間は不規則で、埼玉のはずれにある実家にはほとんど寄りつかない。忙しい時期には何日も局に缶詰になることもあるし、海外出張も頻繁にある。この時間に自宅で顔をあわせるのは珍しい。
「この漫画、あんたの?」
 冷蔵庫からコーラの缶を取ろうと伸ばした手を止めた。慌てて振り向くと、日沙乃が漫画の表紙をおれに向けていた。ふたりの美少年が並んで立っているイラストに丸みのある書体でタイトルが記されている。
「なに勝手に読んでんだよ!」
 足を縺れさせながら掛け寄り、日沙乃の手から漫画を奪い返す。
「置きっ放しにしてるほうが悪いんじゃん」
 年齢の離れた姉は、ソファに寝そべったまま、焦る弟を見上げて笑った。
「あんたもそういうの読むんだ。ちょっと意外」
「読まねえよ。これはちょっと……諸事情で」
「諸事情?」
 つかい慣れていない言葉だとすぐにばれただろう。おれはいたたまれなさに表情を歪めた。
「彼女に借りたとか?」
「いねえよ、彼女とか」
「そうなの? この前までいたじゃん。だれだっけ、あの大人っぽい子」
「もう別れた」
「マジか。ごめん、知らなかった」
 ため息を飲み込む。昔からこうだ。無邪気に、無遠慮に、確実におれの地雷を片っ端から踏んで歩く。
「どこ行くの」
 漫画を手にリビングを出るおれに、姉は首を伸ばして話しかけてくる。
「もう寝る」
「明日から取材で1週間ニューヨークだから、向こうで一澄に会ってくる。朝早く出るから、お父さんにいっといて」
「わかった」
 自室にもどり、ドアを閉めて深く息を吐く。手のなかの漫画を見つめる。鮮やかなピンク色の帯が巻かれた表紙でイケメンが微笑んでいる。頭脳明晰、スポーツ万能、眉目秀麗、まさに非の打ち所のない完璧な男が眩しい笑顔でおれを見返してきた。

「こんなとこに呼び出してなんの用?」
 振り向いた謙太郎の顔を見た瞬間、なけなしの勇気が水に沈んだわたあめのように萎んでいく音が聞こえるようだった。
「ごめんね。実はその……」
 訝しげな視線を受け止められず、下を向く。夕暮れのキャンパスにはほかにだれもいなかったが、運動部の威勢のいい声が遠くに聞こえていた。
「やっぱいい。なんでもない」
「なんだよ。気になるじゃん。いえよ」
「いい。やめとく。せっかくきてもらったのにごめん」
 謙太郎の脇を抜けて教室を出ようとしたが、すれ違う前に腕をつかまれた。聞き手の左手にバッグを提げていたため、右手で理久の手を取り、振り向かせる。
「理久」
 低い声で名前を呼ばれ、体が硬直する。
「最近変だぞ、おまえ。どうしたんだよ」
「べつに……」
「なんか悩みでもあんの」
「ないよ。そんな悩みなんか……」
「おれにもいえないことなのか?」
 謙太郎は昔から強引な性格で、そのつよい視線にとらえられると、理久にはなにもいえなくなってしまう。
「もし……」
 言葉が喉の奥で絡んでうまく出てこない。黒縁眼鏡の奥でせわしなく眼球を動かしながら、理久は呟いた。
「もし引かれたら嫌だから」
「なんでだよ。引くわけないだろ」
「謙太郎に嫌われたら……」
「嫌いになんかならない」
 つよい口調だった。腕をつかむ手に力がこもる。
 しばしの沈黙の後、理久は決意を固め、瞼を閉じた。固く目を瞑ったまま、いった。
「ぼく……ぼくはもしかしたら……ていうかたぶん、男子が好きかもしれなくて」
 声が震え、語尾が掠れた。謙太郎の反応を見る勇気はなかった。
「そっか……」
 謙太郎が小さく呟く。その呟きの意味を読み取るのが怖くて、理久は両手で顔を覆った。
「引いた?」
「引いてねえよ」
 心外というように首を窄める。
「そうなのかなとは思ってた」
「そっか……」
 おなじように呟いて、理久は視線を上げた。幼い頃から見つめ続けてきた幼馴染みの笑顔が目の前にあった。
「そんくらいでおれが態度変えると思ってたのかよ」
 謙太郎の言葉に、理久は再び視線を落とした。謙太郎の顔から笑顔が消える。
「え、もしかして……」
 理久は顎が鎖骨に埋まりそうなほど深く俯いた。
「おれ?」
 謙太郎の声が頭上を揺蕩う。
「おれのこと好きなの?」
「ごめん……」
 かろうじてその一言だけ発したが、謙太郎には伝わったようで、驚いた顔で立ち竦んでいる。
「いや……」
 再び教室を沈黙が支配する。いたたまれなさに耐えられず、理久は今度こそ立ち去ろうと謙太郎に背を向けた。
「じゃ、そういうことだから」
「待てよ、理久」
 突然腕を引かれ、体勢を崩した理久を謙太郎が咄嗟に支える。互いの顔が触れあいそうなほど近づき、視線が絡んだ。慌てて距離を取ろうとしたが、謙太郎は理久の体を離そうとせず、むしろ背中に回した腕を腰に巻き、さらに密着した。
「謙太郎……」
 突然抱きしめられ、理久は混乱していた。行き場のない手をぶらりと垂れ下げ、謙太郎の肩ごしに教室の壁を見つめていた。
「理久」
 理久の細い体をきつく抱きながら、謙太郎は低い声でいった。
「……どうしよう、理久」
 焦点が合わないほどの距離で見つめ合う。昔から知っているはずの、しかしはじめて見る謙太郎の表情に、理久の胸はどうしようもなく高鳴っていた。謙太郎が囁く。
「おれ、理久がかわいい」
 
「こんなとこに呼び出してごめん」
 日が沈んで薄暗くなった図書室に入ると、小柄な男が待っていた。読んでいた本を閉じて席を立つ。
「いや、べつにいいけど……」
 部活が終わったばかりで汗を吸ったユニフォームの袖をつかい、鼻を啜る。なぜこんなところに呼び出されたのかわからず、緊張し、警戒していた。目の前の男はかなり小柄で、ひとりのようだったから、喧嘩を売られるというわけではないようだが、用件がまるで想像できないのは不気味だった。
「えっと……」
「あ、ごめん。ぼくのことわからないよね」
 おれの戸惑いを察したように、相手は椅子を避けるようにおれの前に移動した。
「4組の漆原」
「ああ……よろしく」
 なにが「よろしく」なのか自分でもわからない。はじめての経験におれは完全に困惑していた。
「おなじクラスになったことあったっけ」
「ううん、ない」
 一度でも言葉を交わしたことがあれば思い出せるはずだ。しかし、名前を聞いてもまったくピンとこない。部活でも特別授業でも見たおぼえがない。なぜ相手がおれのことを知っているのかさえわからなかった。
 とりあえず、物騒なことにはならないようだ。不安を抱いていただけに、安堵していた。いちおう運動部に籍を置いてはいるものの、不良グループや諍いには縁がなく、腕っぷしにも自信がない。
 因縁をつけられるのでなければ、部活の勧誘だろうか。しかし、3年の夏でもう部活動は終盤に差し掛かっている。もし女子であれば真っ先に告白を想像するところだが、当然それもちがうだろう。
「で、おれになんか用?」
「あ、ちょっと待って」
 警戒心を隠しきれていなかっただろう。漆原は慌てて席にもどり、大きな手提げバッグをまさぐった。
 宗教かネットワークビジネスの勧誘だろうか。署名の協力でも求められるのかもしれないと思ったが、バッグから出てきたのは一冊の漫画だった。
「この漫画、知ってる?」
 差し出された漫画をひとまず受け取った。『ぼくらの恋には込み入った事情があって。』とやたら長いタイトルにも『URU』という対照的にやたら簡素な原作者名にも表紙の絵柄にもおぼえがなかった。ぱらぱらと捲ってみたが、内容にもなにも思い当たらない。考えるまでもなかった。表紙をひと目見ただけで、少女漫画だとわかる。それも、おそらくは男同士の恋愛がテーマになったものだ。
 そういうものが存在することは知っていたが、実際に目にするのははじめてだった。
「長えタイトル」
「漫画化されるときにタイトルが変更になって……」
「詳しいな」
「それ書いたのぼくなんだ」
 ページを捲るおれをじっと見て、漆原がおずおずという。
「え、そうなの。原作ってこと?」
 URUというペンネームは漆原の名から取ったのだろうか。漆原は恥ずかしそうに頷いた。
「趣味で書いてた小説をコンテストに応募してみたら、賞をもらえて。副賞で漫画化されたんだ」
「へえ。すげえじゃん」
 おなじ学校に作家がいたとは。すくなからず驚かされたが、次の言葉にさらに驚かされることになった。
「そのキャラのモデルがきみなんだ」
 ページから目を上げ、見知らぬ同級生を見つめた。
「なに?」
「風祭をイメージして書いたキャラクターで……」
「え? ちょっと……」
 まったく想像だにしていなかった展開。パニックを起こしていないのが不思議なほどだった。
 もう一度表紙を見て、中身にも目をはしらせる。帯の説明文からすると、背が高いイケメン主人公の名は「風間」というらしい。
「これおれ?」
「そう」
 漆原が小さく頷く。そうとう恥ずかしいのか、耳まで赤くなっている。
「なんでおれ?」
 疑問はやまほどあったが、真っ先に出てきたのがこれだった。
「おれら、しゃべったことないよね?」
 唖然としているおれに、漆原は消え入りそうな声でいった。
「なんとなく……小説書いてみようと思ったけど、見本が必要っていうか、完全オリジナルだと、いまいち人物に現実味がなくて」
 答えになっていない気がしたが、おれも混乱していてうまく言葉が出てこない。沈黙を怒りととらえたのか、漆原の顔色が薄くなっていく。
「ごめん、勝手に……」
 青白い顔を伏せ、落ち着きなく爪を弄りながらいう。
「気持ち悪いよね」
「いや、べつに……」
 怒るべきなのかもしれないが、驚きのほうが大きく、正常な判断はできそうになかった。
「ほかの奴も書いてんの」
 ページを捲りながら尋ねる。
「ほかの?」
 質問の意図をはかりかねたようで、漆原が首を傾ける。
「おなじクラスの奴とか……」
「ああ……や、全部風祭だけ」
「全部?」
 漆原の言葉に眉を顰める。
「これ以外にもあんの」
 漆原は躊躇しながらも頷いた。
「ほかにも書いてるってこと?」
「1年のときに書きはじめたから、だいたい10作くらい……」
 驚きすぎて本格的に言葉が出ない。
「全部漫画になってんの?」
「漫画化されたのはこの一冊だけ。あとはネットで公開してて……」
 知らないうちに自分がモデルになった小説が不特定多数の人間に読まれているという事実。衝撃が大きすぎる。
「本当にごめん」
「いや、怒ってはいないんだけど……」
 小柄な体をさらに縮めて謝る漆原を見下ろし、いった。
「なんで今おれにいうの? おれこういう系の漫画読むことないし、名前もちょっと変えてるから、いわなきゃたぶん一生気づかなかったよ」
 当然の質問のように思えたが、漆原はぎこちなく口籠もった。爪の先で指の付け根を擦っているのは癖らしい。
「実は、この漫画が今度ドラマ化されることになって」
「ドラマ?」
 これ以上驚くことはないという予想がことごとく覆される。
「すげえな。人気なんだ」
「そうでも……」
 どんな顔をしていいのかわからないといった様子で漆原が視線を泳がせる。
「今までは一部の界隈にしか知られてなかったけど、テレビで流れたら、風祭に知られちゃうかもしれないと思って。今さら名前や設定を変更もできないし……」
 なるほど。本人にばれて問題になるよりも事前に打ち明けたほうがまだいくらかましということか。
「つまり、おれの許可がほしいってこと?」
「もし嫌ならドラマの話は断るけど……」
 漆原は今にも卒倒しそうなほど白い顔をしている。爪で弄っている指の皮膚が赤く腫れはじめている。
「いや、べつにそこまでは」
 咄嗟に答えた。
「ドラマ化されるくらい人気の漫画だったら、楽しみにしてるファンもいるんだろ? テレビ局のひととか、いろんなひとが絡んでるんだろうし」
 紙の上で颯爽とポーズを取るイケメンの絵を眺めながら、いった。
「第一、このイケメンキャラのモデルがおれなんてだれも気づかないし、いっても信じないよ」
 顔の周辺に花を纏ったキメ顔のページを指し示す。
「ほんとにおれ?」
 おなじポーズを取ってみせると、漆原が小さく噴き出す。ずっと緊張で強張った顔をしていたから、笑った顔を見たのははじめてだった。おれとおなじ3年とのことだが、笑顔はあどけなく、中学生といわれても通りそうだ。
「なんでおれなんだよ」
 もう一度、最初の質問を繰り返した。
「こういう漫画の主人公っぽい奴はおれ以外にもっといるだろ。サッカー部の櫻井とか、生徒会長の橋本とか」
「ああいうのは全然ちがう」
 これまで歯切れが悪かったのが嘘のような即答だった。
「ぼくも、毎回おなじ特徴よりは、ちがうモチーフもあったほうがいいと思ったりしたけど、風祭以外には興味が湧かないっていうか、書こうとしても書けなくて……」
「ふーん……」
「あ、でも変な意味じゃないから」
 漆原が我に返ったようにいう。
「変な意味って?」
「だから……ぼくが風祭に対してどうこうとかそういう気持ちはないっていう……」
「ああ」
 その可能性は考えていなかった。同性を恋愛対象にする人間の存在は理解していても、身近に感じることはなかった。いわれてみれば、疑いを持たれてもしかたない状況ではある。
「漆原って、そっちなの?」
「え……」
「こういう……」
 漫画の紙面を示すと、漆原が慌ててまた視線を逸らした。
「わかんない」
「わかんない?」
「ちゃんとひとを好きになったこと、まだなくて……」
 そういうものなのだろうか。生まれてから17年間、男として生活して女を好きになるのが当然だと思い込み、疑うことはなかった。
「ドラマの件はOKってこと?」
 なかば無理矢理に、漆原が話題をもどす。話を切り上げ、帰りたがっているのはあきらかだった。
「原作としてお金もすこしもらえるから……」
「金はべつにいいよ」
 漫画の表紙を眺めながらいう。
「これ、借りていい?」
「え?」
 手のなかの漫画を漆原に見せ、いった。
「いや、だってどんなふうに書かれてんのか実際読んでみないとわかんないし」
「え、でも」
「読んだら返すから」
 漆原にとってもおれの反応は想定外だったらしく、目を丸くして口を開閉させている。
「じゃ、おれ行くわ」
 呆気に取られてその場に立ち尽くしている作家を置いて、おれは漫画を持ったまま図書室を出た。