ぼくらの恋には込み入った事情が。

 古い木造アパートの階段が靴底の下で軋むような音を立てる。逸る気持ちをどうにか抑えながら、おれは階段を上がり、漆原の部屋のドアを叩いた。インタホンは故障中で音が出ないと聞いている。
 何度叩いても反応はない。諦めるつもりはなかった。しつこく叩き続けていると、室内で身動きする気配がし、ようやくドアがひらいた。
 漆原が不機嫌そのものといった表情で立っている。眠っていたのか、白のラグランスリーブにトレパンという格好で、髪が乱れ、頬に布団の跡がついている。わずかに汗の匂いがしたが、不快には感じなかった。
「……なに?」
 裸足のまま玄関に立ち、瞼を擦りながらおれを見上げる。声には苛立ちが混じっていた。帰ってほしいと思っている。
「なにじゃねえよ」
 迷惑そうな顔で立ち塞がる漆原を圧し退けて室内に入る。
「ちょっと……風祭」
 背後で漆原のため息が聞こえる。狭い部屋の奥に布団が敷いてあった。枕元に水筒とタオル。
「寝てたのか?」
 答える代わりに、漆原はおれを追い越して布団にもどった。譲たちは学校だろう。小学校と中学校も今日から新学期がはじまっているはずだ。
「体調悪いのか」
 怠そうに体を移動させて布団に潜り込む漆原を見下ろし、おれはすこし口調をやわらげた。漆原は頓着する素振りもみせず、おれに背を向け、壁に向かって横になった。
「風邪気味なだけ」
 短くいったが、首の裏は紅潮し、汗もかいている。かなり悪そうに見える。
「いきなり家にこないでっていったのに」
 布団を被った背中を丸め、咳き込みながら苦情を申し立てる。
「学校休んでるってクラスの奴に聞いたから」
 体調不良らしいとも聞いていたが、どうやら真実のようだ。汗で湿った髪がラグランスリーブの襟に貼りついている。
「……昨日、なんでこなかったんだよ」
 布団の前にあぐらをかいて座り、丸い背中を見つめていった。プールで約束してから数時間後、約束の時間に公園へ行ったが、漆原はこなかった。日付が変わるまで待ったが、けっきょく姿を見せなかった。
 雨が降るなか、東屋にひとり座って考え込んでいた。思わせぶりな態度を取っておきながら受け容れてくれない漆原に不満も抱いていた。
「ずっと待ってたんだぞ」
 一度興奮の絶頂を味わっていただけに、落胆は大きかった。連絡しようにも連絡先を知らない。家に押しかけようとも思ったが、拒絶が怖くて諦めた。しかし、翌日の学校で漆原が休んでいると知って、いてもたってもいられなくなった。学校をさぼったことであとから親に小言をいわれるだろうが、構わなかった。
「行ったよ。そっちがこなかったんだろ」
 漆原の返事に、戸惑った。全体を見渡せる狭い公園だ。きていたなら気づかないはずがない。
「嘘だろ。どこにいたんだよ」
「ブランコのとこ」
「ブランコ?」
 違和感に眉を寄せる。
「ブランコなんてなかっただろ」
 そこまでいって、ようやく気づいた。おれが待っていたのは約束した東口公園ではなく反対側の西口公園だった。自分で指定しておきながら、勘違いしていたのだ。
「……悪い。間違えてた」
「もういい」
 小さな背中を揺らして、漆原が重い息を吐く。頻繁に咳き込み、呼吸がつらそうだ。漆原も雨のなかおれを待っていたのだろう。日中には慣れないレジャープールで溺れかけた。運動不足の体には負担が大きかったはずだ。
 またやってしまった。最悪だ。おれはいちいち詰めが甘い。どこまで間抜けを晒せば気が済むのか。
「本当にごめん」
「だからもういいって」
 沈黙。組んだ膝の上に指を叩きながら、おれはいった。
「LINE、教えてくれよ」
「……なんで」
「なんでって……昨日みたいなときに連絡取れたほうがいいだろ」
「昨日みたいなとき?」
 漆原の背中が答える。
「昨日みたいなときはもうないでしょ」
 沈んだ声。全身の血が下がる感覚。心臓が軋む音が聞こえる。
「もうキスしないってこと?」
「そう」
「なんで」
「したくないから」
 にべもない答え。漆原の背中は完全におれを拒んでいた。
「昨日はしたいつったじゃん」
「したいとはいってない。してもいいっていっただけ」
「今はよくねえの」
「よくない」
 漆原は体調不良だし、諦めて帰るべきだった。しかし、脚に見えない蔦が巻きついて床に拘束されたかのように動けなかった。
「……怒んなよ」
「怒ってない」
「おれが悪かったって、謝ってんじゃん」
「怒ってないってば」
 漆原の声は掠れている。壁を向いた顔がどんな表情をしているのか、おれには想像さえできない。
 狭いアパートの一室で、おれたちはしばらくの間互いに無言で動かなかった。
 漆原が布団のなかで体を折り曲げ、烈しく咳き込む。
「だいじょうぶか」
 脚を解き、身を乗り出すが、おれの気配を感じたのか、漆原は布団を引き上げた。咳はまだつづいている。
「水飲むか」
「いい」
 こちらを向かないまま答える。
 昨日のプールではおれに笑いかけてくれた。体に触れさせてくれて、キスしてもいいといってくれた。
 どうすればいい。どうすれば、また笑ってくれる。どうすれば……
「ほんとに怒ってないから、もう帰って」
「いやでも……」
「風邪うつしちゃうとよくないし……」
「うつしていいよ。だっておれのせいじゃん」
「風祭のせいじゃないから」
 漆原の口調にもう怒気はなかった。なんの感情もなかった。静かにいった。
「ぼくが悪かったんだよ」
「なんでだよ。漆原はなんも悪くないだろ。おれが勘違いして……」
「そうじゃない」
 布団に手をついて漆原がゆっくり起き上がる。壁の一点を見つめ、呟いた。
「ぼくが馬鹿だったせい」
 遮光カーテンのせいで部屋は薄暗く、漆原の横顔は朧だった。
「ほんと勝手にいろいろ……馬鹿だ」
 口をひらきかけ、閉じた。漆原の眼が潤んでいた。気のせいかもしれないと思った。熱と咳のせいかもしれない。狼狽えているおれの目の前で、漆原の眦から涙が零れた。
「漆原……」
「もうこないでほしい」
 布団をかけた膝を腕で抱え、そのなかに顔を埋めるように伏せて、漆原はいった。
「風祭にはもう会いたくない」
 痩せた小さな肩が震えている。手を伸ばしかけ、空中で拳を握った。おれの勝手な妄想や勘違いで、また傷つけてしまうのが怖かった。
「……ぼくがいけなかったんだ」
 鼻を啜りながら、漆原が呟く。
「あんな小説なんか読ませたりして……」
「そんなことねえよ」
 反射的に否定した。漆原の小説はおれの自尊心を高めてくれたし、特別な存在だと思わせてくれた。聞いたときには驚いたが、いまでは欠くことのできない拠りどころとなっていた。こうなってしまったのは想定外だったが、すくなくともおれに後悔はないと伝えたかった。しかし、どういえばいいのかわからない。もどかしさに拳を握った。
「前みたいにもどりたい」
 小さな、しかし、つよさを感じさせる声で、漆原はいった。
「前にもどって、風祭とは他人として……」
「嫌だ」
 漆原の言葉を遮った。工場で並んで弁当におかずを詰めたことや渋谷の街を歩いたこと、漆原がつくった朝食のおにぎりを食べたことが一瞬のうちに脳内を駆け巡り、ほかのことは考えられなくなった。
「おれはすすみたい」
 漆原がゆっくり顔を上げる。この数カ月をなかったことにしたい漆原と進展を求めるおれが見つめ合った。
「もっかいチャンスくれ」
 漆原の濡れた瞳をまっすぐ見て、おれは嘆願した。
「漆原にキスしたい」
 漆原の表情が歪む。しつこいと思っているのかもしれなかったが、退く気はなかった。
「な、頼むよ、漆原」
「もうだめだって……」
「なんで」
「なんでって……」
「嫌いだから?」
 漆原の瞳が揺れるのをおれは見た。
「漆原、おれのこと嫌い?」
 追い詰めるように繰り返すと、漆原はぎこちなく横を向いて目を伏せた。
「……嫌いじゃない」
「じゃ好き?」
 気づくと膝が布団の端に到達していた。距離が近づくと、漆原の汗の匂いがつよくなった。興奮を掻き立てられる匂いだ。また脚の間に熱を感じたが、振り払った。漆原はおれを嫌いじゃないといってくれている。つまらない欲望で嫌われたくない。
「な、漆原……」
「今はだめ」
 布団の上で膝をずらし、おれから身を遠ざける。
「お風呂入ってないし、歯も磨いてない」
 質問の答えになっていない。はぐらかされそうだと危惧しながらも、おれは漆原に導かれて顔を傾けた。
「だめだってば……」
 漆原が手を伸ばし、熱を持った指がおれの腕に触れる。痺れるような緩い痛み。触れられた部分から全身に広がる。
「汚いから……」
「汚くない」
 即座に否定した。手を握ると、漆原が顔を上げた。逃げようとする手首をきつくつかむ。
「漆原、かわいい」
 言葉に出すと、実感がこみ上げてきた。ずっと前から、漆原をかわいいと思っていた。クラスの女子にも、憧れのマネージャーにも感じたことのない感情だった。
 もっと早く気づくべきだった。おれは漆原が好きだ。はじめのうち、小説のモデルにするほど関心を持たれていることがくすぐったく、兄姉をはじめ周囲に対してつよい劣等感を持っていただけに、自分がだれかの特別な存在である事実がおれにもまた特別だった。好意を持たれているという思い込みがあったからこそ、漆原の前では自己憐憫に苛まれることなく、自然体でいられた。気楽な関係が、いつの間にか、焦がれる思いに変わっていた。勘違いだと悟っても、止められるものではなかった。
「漆原……」
「ほっぺに」
 言葉が重なった。漆原はおれにつかまれた手を小さく握って、いった。
「ほっぺにだったらいいけど……」
「ほっぺ……」
 思わず復唱していた。漆原の首から顔にかけて真っ赤に染まる。
「だめならいい」
「だめじゃない。ほっぺでいいからしたい」
 慌てていって、漆原の紅潮した顔を見つめる。日焼けしていない頬はわずかに汗ばんで、漆原が唾液を飲み込む動きに合わせて小さく膨らんだり萎んだりしていた。
「ほっぺか……」
 緩みかけた顔の筋肉に力を込める。あれほど扇情的な小説を書いている漆原が頬へのキスだけでこれほどまでに緊張して恥ずかしがっている。かなりのギャップだ。
「……じゃ、するぞ」
「はい」
 漆原が布団の上で正座する。つられておれも姿勢を正した。
 頬にキスなど、いまどき幼稚園児でもしている。外国なら挨拶代わりだというのに、高校3年にもなって、膝を付きあわせなにをしているのか。しかし、笑う気にはなれない。漆原の顔に釘付けだった。
 漆原がそっと目を閉じる。顎をわずかに持ち上げ、膝の上で律儀に指を揃えている。完全に無防備な体勢だ。その気になれば指定された場所以外のどこにでも触れられる。揺れなかったかといえば否定できない。しかし、ここまで信頼を見せられたら裏切れない。これ以上失望されるのは避けたかった。
 差し出された顎に指先を触れさせた。驚かせないようゆっくりと首もとに滑らせる。
 漆原の肌は風邪のせいか熱を溜めていて、すこし汗ばんでおれの指の表面を吸い寄せた。
 膝を立てて身を屈めた。ラグランスリーブの肩に手を置いて顔を近づけた。
 唇が頬に触れた瞬間、手のなかの肩が小さく震えた。頬は首以上に熱く、一瞬、臆するほどだった。
 唇が離れるとき、接着した部分からかすかな音がした。唇をはずしても、漆原はまだ目を瞑ったままだった。呼吸を止めていたのか、目を閉じたまま大きく息を吐く。
 視線が合うと、ぎこちなく目を伏せる。いとおしさがこみ上げて、両腕でつよく抱きしめた。漆原の体は強張ってはいたが、明確な拒絶はなかった。
「……やっぱ口でしたくなんねえ?」
 興奮を抑えるために深く息を吐きながらいうと、漆原が呆れたようにいった。
「なんないよ」
「なんでだよ。なるだろ」
「なんないって」
「えええ……」
 漆原の肩に額を擦りつけて不貞腐れると、漆原が笑った。おれの背中に掌を擦らせて、いった。
「したくなったらいうから」
「マジ?」
「今じゃないよ」
 慌てて牽制し、おれの胸に手をあてて距離を取る。いつもながら意図をはかるのは難しいが、「したくなったらいう」ということはつまりこれからも会えると判断して構わないだろう。大きく進展したとはいえないまでも、後退はせずに済んだようだ。
「漆原……」
 頬に手を伸ばしかけたとき、スマホの電子音が鳴った。定期的に知らせるよう設定してあるアラーム音で、塾に向かう時間であることを報せている。
「……塾?」
 おれのことならなんでも知っている漆原がベッドの上で座りなおす。
「今日はさぼる」
「だめだよ、行かないと。そろそろ譲たちも帰ってくるし」
 本心はもうすこし漆原といたかったが、せっかくここまで態度が軟化したのだ。我儘は控えたほうがいいだろう。おれは不承不承布団から離れ、立ち上がった。
 玄関に向かうと、漆原も起き上がってついてきた。
「寝てろよ」
「だいじょうぶ」
 玄関のドアを開けてもなお後ろ髪引かれる思いで、振り返った。
「チューしたくなったらいつでもいえよ」
「わかったってば」
 ラグランスリーブの袖で口元を押さえて、漆原が笑う。ああ、やっぱかわいいよな。おれは思う。
「じゃ、行ってくるわ」
 憂鬱と不満を隠しきれていなかったのだろう。漆原はまた笑った。笑顔のなかにわずかな躊躇を感じて、おれはドアノブをつかんだまま眉を寄せた。
「なに?」
「ううん、なんでも」
「じゃあ……またな」
「うん……」
 体の向きを変えようとしたところで、肩に触れられた。漆原は踵を浮かせて背伸びし、おれの頬に素早く唇をつけた。
「行ってらっしゃい」
 唖然としているおれの目の前でドアが閉まった。キスしてもらえた頬に掌をあてて、おれはアラームが再度鳴り続けるまでの数分間、その場に立ち尽くしていた。