「ただいま」
学校から帰ると、玄関に黒のサンダルが転がっていた。母のものではない。靴を履いたまま、ひっそりと宙を見上げた。
「おかえり」
キャミソールにショートパンツといった格好の姉がリビングでソファに足を投げ出しノートパソコンを広げていた。海外出張を終え、数日の休暇を実家でのんびり過ごしているらしい。昨日帰ってきて、母の手料理を堪能していた。
「塾行ってんじゃなかったの」
ソファからはみ出た爪先をぶらぶらさせながら、眼鏡を持ち上げ、おれを見る。
「まだはじまってねえよ」
「意外にゆっくりだね。そんなもんか」
姉は学習塾や予備校に通ったことがない。他人の力を借りずとも、常にトップの成績を維持していた。地頭もあるが、要領がいいのだろう。兄もおなじだった。勉強に苦労している姿を見たことがない。
おれにしても、とくに問題児というわけでもなければ、落ちこぼれの枠に入るほどでもない。しかし、優秀すぎる姉と兄の下で育てば、卑屈にもなろうというものだ。ふたりに悪意がないことはわかっていても、ひとつ屋根の下で過ごすのは気詰まりだった。
アメリカの大学に通っている兄も、長期休講を利用して9月には一時帰国するのだそうだ。久しぶりに家族が集合するのを両親は楽しみにしていたが、おれには素直に喜べなかった。
「顕、あんた、ラブコミの単行本持ってたよね」
「なんて?」
キッチンで冷蔵庫のなかを覗きこんでいると、日沙乃が声をかけてきた。
「ラブコミだよ。漫画、持ってたじゃん」
日沙乃が読んだ漫画というとひとつしか思い当たらない。
「あれはもう返した」
「そうなの? じゃいいや。自分で買う」
「最初から自分で買えよ」
コーラの缶を取り出し、リビングにもどる。
「うちの局でドラマ放送してんだけど、すごいバズっててさ。ここ数年連ドラの視聴率っていまいち伸びないじゃない。試しに見てみたらハマっちゃって」
学生時代からテレビドラマにはほとんど興味を示さなかった姉が熱中しているというのだから、そうとうおもしろいのだろう。
漆原が書いた小説を原作とした連続ドラマはすでに放送がはじまっていたが、おれは見ていなかった。羞恥心からではない。おれとは対照的に恵まれたスタイルと整った顔を持つイケメン俳優を見れば、おれのなかで育っている「風間謙太郎」のイメージが変わってしまいそうで怖かった。「風間謙太郎」はおれの自尊心を支える核のような存在にいつの間にかなっていた。ドラマを見ることで奪われたくなかった。
あれから漆原とは顔を合わせていない。もともとクラスもべつだし接点がなかった。あえて会いに行かなければすれ違うこともない。
ドラマはダブル主演の俳優ふたりが役名を用いてそれぞれ新たにSNSを立ち上げ、互いに恩来上でコミュニケーションを取るなど、ネット時代にうまく合致した広報戦略で話題を呼んでいた。売り出し中のイケメン俳優たちの人気も相まって、1話目から順調に視聴率を伸ばし、シーズンとしては過去10年で最高の数値を誇っていた。今はちょうど折り返し地点だが、クライマックスにかけてさらに調子を上げていくだろう。
ネットニュースの記事によると、男性同士の恋愛というテーマにもかかわらず、緻密な脚本とていねいな演出で、幅広い層に支持されているらしい。原作者のURUは匿名ということになっていたが、ドラマのヒットを喜び、視聴者に感謝する短いコメントが記されていた。世の女性たちを夢中にしている恋愛ドラマの原作者が地方に住む男子高校生だとは、だれも想像していないだろう。
「ラブコミって呼ばれてんの?」
「タイトル長いじゃない。『ぼくらの恋には込み入った事情が。』略して、ラブコミ」
「全然略してねえじゃん」
「マーケティング戦略ってもんがわかってないね」
相手をするのは面倒だった。日沙乃の脇を通り過ぎて2階の自室に向かおうとしたが、手元のパソコンのディスプレイが目に入ったとたん。コーラの缶を落としそうになった。
「なに見てんだよ!」
「え、なに?」
姉の手からノートパソコンを奪い取る。ディスプレイにはURUが小説を公開しているサイトのトップページが映し出されていた。
「なんなの、おっきい声出して」
日沙乃は面食らっていたが、おれのほうがよほど驚いていた。心臓が跳ね上がり、すぐには言葉が出てこない。
「原作者が運営してる小説サイトだよ。興味あったから覗いてんの。悪い?」
動揺するおれの前に立って、ゴールドのネイルアートが施された手を突き出す。
「返して、パソコン」
返さない理由がない。姉がいうとおり、読むなという権利はないし、読んでほしくない理由を説明もできない。不承不承パソコンを渡した。
「なに焦ってんの」
「べつに焦ってない。ちょっとびっくりしただけで……」
「なんであんたがびっくりすんのよ」
呆れた顔でノートパソコンを受け取ると、日沙乃はさぐるような目をおれに向けてきた。
「顕もこのサイト見てんの?」
「は? 見るわけねえじゃん。馬鹿かよ」
ぎくりとして思わず乱暴な口調になってしまう。日沙乃をにらんだが、報道記者として海外の紛争地帯での取材をつづけている姉は、年齢の離れた弟にすごまれたところで、眉ひとつ動かさない。
「なに、その顔。あんた、まさか同性愛差別主義者じゃないでしょうね?」
「ちげえわ」
「偏見持ってたら多様性社会で生きてけないよ」
「だから持ってねえって」
偏見どころか、男の同級生にキスまでしたのだ。しかし、そんなことを姉にいえるはずもない。
「まだ全部読めてないけど、原作小説もけっこうおもしろくてハマってんのよ。読んでみれば?」
「読まねえし」
本当は毎晩欠かさずスマホのバッテリーが切れるまで読み耽っているのだが。おれの狼狽には頓着することなく、日沙乃は勝手に話しつづける。
「ただ、キャラクターの幅があんまりないのがちょっとね。ストーリーがいいだけに、おなじような人物しか出てこないのはもったいないかな」
名門大学の文学部を卒業しただけに、日沙乃の評論は辛辣だが的確だった。実際に、おなじようなキャラの使い回しは避けるよう担当編集者からアドバイスを受けていると、漆原本人が話していた。
「モデルがいるんじゃねえの。名前もおなじだしな」
そのモデルが自分だとはおくびにも出さずにいう。おれが知っていて姉の知らないことはすくない。羞恥とはべつに、若干の優越感もあった。
「両方でしょ。名前はちがうけど、受側の子にもモデルがいるんじゃない?」
日沙乃の分析に、どきっとした。いわれてみれば、男子高校生も新人社員も捜査官も、キャラクターの名前がちがうだけで、性格や振る舞いには共通点が多かった。同姓同名の風間謙太郎に気を取られて、気づかなかった。
相手のほうにもモデルがいるとしたらそれはだれか。すべての小説のキャラクターを思い浮かべた。どの人物にもおなじ顔が貼りついていた。慌てて目を瞑り、無理矢理想像を打ち消した。
「気のせいだろ。よく読んだらやっぱちょっとちがうし」
「サイト見てないんじゃなかった?」
「……うるせえよ」
誤魔化すようにいって、コーラを飲みながら2階への階段を上がる。日沙乃は再びパソコンのディスプレイに目を向けた。
「隠さなくても、男の子が読んだってべつにいいと思うけど」
おれのほうは見ずに、声だけを届かせて、いった。
「でもあんた、裏ページは18になってから見なさいよ」
階段を踏みしめた不安定な体勢のまま、おれは動きを止めた。一段、二段とゆっくり後退し、リビングの姉を見た。
「裏ページ?」
学校から帰ると、玄関に黒のサンダルが転がっていた。母のものではない。靴を履いたまま、ひっそりと宙を見上げた。
「おかえり」
キャミソールにショートパンツといった格好の姉がリビングでソファに足を投げ出しノートパソコンを広げていた。海外出張を終え、数日の休暇を実家でのんびり過ごしているらしい。昨日帰ってきて、母の手料理を堪能していた。
「塾行ってんじゃなかったの」
ソファからはみ出た爪先をぶらぶらさせながら、眼鏡を持ち上げ、おれを見る。
「まだはじまってねえよ」
「意外にゆっくりだね。そんなもんか」
姉は学習塾や予備校に通ったことがない。他人の力を借りずとも、常にトップの成績を維持していた。地頭もあるが、要領がいいのだろう。兄もおなじだった。勉強に苦労している姿を見たことがない。
おれにしても、とくに問題児というわけでもなければ、落ちこぼれの枠に入るほどでもない。しかし、優秀すぎる姉と兄の下で育てば、卑屈にもなろうというものだ。ふたりに悪意がないことはわかっていても、ひとつ屋根の下で過ごすのは気詰まりだった。
アメリカの大学に通っている兄も、長期休講を利用して9月には一時帰国するのだそうだ。久しぶりに家族が集合するのを両親は楽しみにしていたが、おれには素直に喜べなかった。
「顕、あんた、ラブコミの単行本持ってたよね」
「なんて?」
キッチンで冷蔵庫のなかを覗きこんでいると、日沙乃が声をかけてきた。
「ラブコミだよ。漫画、持ってたじゃん」
日沙乃が読んだ漫画というとひとつしか思い当たらない。
「あれはもう返した」
「そうなの? じゃいいや。自分で買う」
「最初から自分で買えよ」
コーラの缶を取り出し、リビングにもどる。
「うちの局でドラマ放送してんだけど、すごいバズっててさ。ここ数年連ドラの視聴率っていまいち伸びないじゃない。試しに見てみたらハマっちゃって」
学生時代からテレビドラマにはほとんど興味を示さなかった姉が熱中しているというのだから、そうとうおもしろいのだろう。
漆原が書いた小説を原作とした連続ドラマはすでに放送がはじまっていたが、おれは見ていなかった。羞恥心からではない。おれとは対照的に恵まれたスタイルと整った顔を持つイケメン俳優を見れば、おれのなかで育っている「風間謙太郎」のイメージが変わってしまいそうで怖かった。「風間謙太郎」はおれの自尊心を支える核のような存在にいつの間にかなっていた。ドラマを見ることで奪われたくなかった。
あれから漆原とは顔を合わせていない。もともとクラスもべつだし接点がなかった。あえて会いに行かなければすれ違うこともない。
ドラマはダブル主演の俳優ふたりが役名を用いてそれぞれ新たにSNSを立ち上げ、互いに恩来上でコミュニケーションを取るなど、ネット時代にうまく合致した広報戦略で話題を呼んでいた。売り出し中のイケメン俳優たちの人気も相まって、1話目から順調に視聴率を伸ばし、シーズンとしては過去10年で最高の数値を誇っていた。今はちょうど折り返し地点だが、クライマックスにかけてさらに調子を上げていくだろう。
ネットニュースの記事によると、男性同士の恋愛というテーマにもかかわらず、緻密な脚本とていねいな演出で、幅広い層に支持されているらしい。原作者のURUは匿名ということになっていたが、ドラマのヒットを喜び、視聴者に感謝する短いコメントが記されていた。世の女性たちを夢中にしている恋愛ドラマの原作者が地方に住む男子高校生だとは、だれも想像していないだろう。
「ラブコミって呼ばれてんの?」
「タイトル長いじゃない。『ぼくらの恋には込み入った事情が。』略して、ラブコミ」
「全然略してねえじゃん」
「マーケティング戦略ってもんがわかってないね」
相手をするのは面倒だった。日沙乃の脇を通り過ぎて2階の自室に向かおうとしたが、手元のパソコンのディスプレイが目に入ったとたん。コーラの缶を落としそうになった。
「なに見てんだよ!」
「え、なに?」
姉の手からノートパソコンを奪い取る。ディスプレイにはURUが小説を公開しているサイトのトップページが映し出されていた。
「なんなの、おっきい声出して」
日沙乃は面食らっていたが、おれのほうがよほど驚いていた。心臓が跳ね上がり、すぐには言葉が出てこない。
「原作者が運営してる小説サイトだよ。興味あったから覗いてんの。悪い?」
動揺するおれの前に立って、ゴールドのネイルアートが施された手を突き出す。
「返して、パソコン」
返さない理由がない。姉がいうとおり、読むなという権利はないし、読んでほしくない理由を説明もできない。不承不承パソコンを渡した。
「なに焦ってんの」
「べつに焦ってない。ちょっとびっくりしただけで……」
「なんであんたがびっくりすんのよ」
呆れた顔でノートパソコンを受け取ると、日沙乃はさぐるような目をおれに向けてきた。
「顕もこのサイト見てんの?」
「は? 見るわけねえじゃん。馬鹿かよ」
ぎくりとして思わず乱暴な口調になってしまう。日沙乃をにらんだが、報道記者として海外の紛争地帯での取材をつづけている姉は、年齢の離れた弟にすごまれたところで、眉ひとつ動かさない。
「なに、その顔。あんた、まさか同性愛差別主義者じゃないでしょうね?」
「ちげえわ」
「偏見持ってたら多様性社会で生きてけないよ」
「だから持ってねえって」
偏見どころか、男の同級生にキスまでしたのだ。しかし、そんなことを姉にいえるはずもない。
「まだ全部読めてないけど、原作小説もけっこうおもしろくてハマってんのよ。読んでみれば?」
「読まねえし」
本当は毎晩欠かさずスマホのバッテリーが切れるまで読み耽っているのだが。おれの狼狽には頓着することなく、日沙乃は勝手に話しつづける。
「ただ、キャラクターの幅があんまりないのがちょっとね。ストーリーがいいだけに、おなじような人物しか出てこないのはもったいないかな」
名門大学の文学部を卒業しただけに、日沙乃の評論は辛辣だが的確だった。実際に、おなじようなキャラの使い回しは避けるよう担当編集者からアドバイスを受けていると、漆原本人が話していた。
「モデルがいるんじゃねえの。名前もおなじだしな」
そのモデルが自分だとはおくびにも出さずにいう。おれが知っていて姉の知らないことはすくない。羞恥とはべつに、若干の優越感もあった。
「両方でしょ。名前はちがうけど、受側の子にもモデルがいるんじゃない?」
日沙乃の分析に、どきっとした。いわれてみれば、男子高校生も新人社員も捜査官も、キャラクターの名前がちがうだけで、性格や振る舞いには共通点が多かった。同姓同名の風間謙太郎に気を取られて、気づかなかった。
相手のほうにもモデルがいるとしたらそれはだれか。すべての小説のキャラクターを思い浮かべた。どの人物にもおなじ顔が貼りついていた。慌てて目を瞑り、無理矢理想像を打ち消した。
「気のせいだろ。よく読んだらやっぱちょっとちがうし」
「サイト見てないんじゃなかった?」
「……うるせえよ」
誤魔化すようにいって、コーラを飲みながら2階への階段を上がる。日沙乃は再びパソコンのディスプレイに目を向けた。
「隠さなくても、男の子が読んだってべつにいいと思うけど」
おれのほうは見ずに、声だけを届かせて、いった。
「でもあんた、裏ページは18になってから見なさいよ」
階段を踏みしめた不安定な体勢のまま、おれは動きを止めた。一段、二段とゆっくり後退し、リビングの姉を見た。
「裏ページ?」


