ぼくらの恋には込み入った事情が。

 急いで後を追ったが、漆原の姿は見えなくなっていた。
 定期的に波を放出する広いプールの脇にひとだかりができているのを見つけ、駆け寄った。遠巻きに見守る客たちの視線の先に漆原がいた。ひとりではなかった。知らない男に抱きかかえられている。
「おい……なにしてんだよ!」
 180センチは越えていそうな長身で、ボディビルダーのような巨体だった。胸筋が盛り上がり、腹筋がくっきり割れている。ぐったりしている漆原を小脇に抱えるように支え、立たせている。
「漆原!」
 男の手から漆原の体を捥ぎ取る。漆原の意識はしっかりしていて、足がふらついてはいるが、動けるようだった。
「プールで足を滑らせてすこし水を飲んだだけだよ。心配ない」
 筋肉男は通りすがりの親切な男だったようだ。漆原をプールから出してくれたらしい。
「友達? なにか手伝う……」
「どうも!」
 吐き捨てるようにいって、朦朧としている漆原の腕を肩に回させ、半身を預かって、プールサイドを離れた。問題がなさそうだと知った野次馬の輪が解けていく。
「離せよ。ひとりで歩けるから……」
 漆原はおれの手を振り払い、ふらつく足取りでデッキチェアに座った。大きく息を吐いて体を横にする。
「だいじょうぶか。医務室に……」
「いい。ちょっと転んだだけなのに大袈裟……」
 額の上に手首をのせ、目を細めて太陽を見上げる。
「さっきのひとにお礼いわなきゃ……」
「いらないだろ、そんなの」
 つい口調が荒くなってしまう。
「なんで風祭が怒ってんの」
 呆れたようにいって、漆原は顔をしかめた。たしかに、そのとおりだ。こうなったのも、もとを辿ればおれのせいで、謝るべきなのに、頭に血が上って、漆原の顔をまっすぐ見ることができない。
「会いたいのか?」
「え?」
「さっきの奴に会いたいんだろ」
「は?」
 わけがわからないといった顔で漆原がおれを見る。
「なにいって……」
「おまえ、ああいうのが好きなの? ヒーローみたいだったもんな。おれよりよっぽど……」
 なにがいいたいのか、自分でもわからなかった。自制すべきなのに、止められなかった。
「べつに好きじゃない」
「嘘つけよ。腹筋ステキーとか思ってたんじゃねえの」
「なんだよ、ステキーって」
 無意識に爪先でアスファルトを叩いていた。なぜこんな気持ちになるのか、わからなかった。
「べたべたくっついてたじゃん」
「くっついてない」
「くっついてた」
「そんなことするわけないよ」
「おれにはしただろ」
 漆原がわずかに頭を持ち上げ、べつの生物を見るかのような目でおれを見た。
「風祭にもしてない」
「あんなふうにされたら……」
「だからなにもしてないって」
 漆原の眼差しは怒りというよりも戸惑いのほうが濃かった。
「風祭、なんか変……」
 怖がられているのがわかり、胸が痛んだ。自分でもおかしいことに気づいていた。ずっと前から。
「……漆原のせいだろ」
「ぼく?」
 漆原はおれから身を守ろうとするかのようにデッキチェアの上で膝を抱えていた。ハーフパンツから伸びた脚をぴったりとくっつけ、爪先を擦り合わせている。
「ぼくがなに……」
「おれが泳いでるとき寝てるし、降りろっていってもいうこと聞かねえし、抱きついてくるし……」
 支離滅裂だった。漆原がますます表情を強張らせる。
「知らない奴にさわらせてんなよ……」
 舌打ちする。頭を抱える。視界から漆原の顔が消え、デッキチェアの上の爪先だけが見えていた。
「……風祭に関係ないじゃん」
 もっともだった。漆原のいうことはいつも正しい。冷静で、理に適っている。
「風祭は……」
 漆原の足の指が小刻みに動き、緊張を伝えてくる。声も緊張していたが、怒気は感じられなかった。
「……風祭は、ああいうことよくあるの?」
「ああいうって……」
「ほかのひとでもああなるの?」
「知るかよ……」
「男でも?」
「そんなわけないだろ」
 矛盾には気づいていた。おれは顔を伏せたまま、黙っていた。
「……ぼくだけ?」
 否定すべきだったが、実際に体が反応しているだけに弁解しようがない。
「風祭は……」
 これほどの近距離でなければ聞こえないほど小さな声で、漆原がいう。
「風祭は、ぼくにさわると興奮するの?」
「……ちがう」
 両手で顔を覆って、おれはいった。
「さわらなくても興奮する。おまえのこと見たり……想像するだけでも」
 笑われるか、気味悪がられるか。どちらでもなかった。漆原はすこし間を措いて、静かにいった。
「……いつから?」
 予測の外にある質問だった。迷ってから、答えた。
「キスしたあと……」
 本当はそれだけではなかったが、隠されたページをひらいて漆原の奥を覗いていることは伏せておいたほうがいいと直感的に思った。
「またしたい?」
 顔を上げた。漆原がおれを見ていた。膝を立て、合わせた膝頭の上に掌を置いて、おれを見つめていた。
「またぼくにキスしたい?」
「……したい」
 気づいたら答えていた。身を乗り出し、漆原の座るデッキチェアに膝を乗せた。漆原が臀をずらして距離を取ったが、逃げ出すことはなかった。
「え、していいの? だって、おまえ、あんな嫌がって怒ってたじゃん」
「……いきなりなのが嫌だっただけだから」
 漆原は拗ねたように唇を窄めている。おれから目を離し、俯いている。プールの水で濡れた睫毛が揺れている。
「キスは嫌じゃないってこと?」
「ああいう感じのは嫌……」
「じゃ、ちがうのならいい?」
 漆原は黙っている。焦れて、いった。
「おまえがいったんだぞ」
 漆原がおれの視線から隠すように唇を噛みしめる。
「嫌だったんだと……」
「……風祭がぼくのこと避けるから」
「はあ? なにいってんだ、おまえが……」
 あとは言葉にならなかった。おれはまた勘違いをしていたようだ。漆原はおれを拒絶したわけではない。不機嫌であったことはたしかだが、おれを軽蔑していたわけではなかった。
 デッキチェアに手をついて顔を近づけると、漆原は素早く身を捩って避けた。
「していいんじゃねえのかよ」
「今ここでなわけないじゃん……」
 漆原は顔を背けていたが、首から肩まで赤く染まっている。
「だったら……」
 言葉を切る。譲の声がした。振り向くと、弟たちが駆けてくるところだった。
 自分の体で壁をつくり、だれにも見られないようにして、漆原の手を握った。漆原が驚いておれを見る。
「今日、夜、駅のとこの公園こられる? 東口公園」
 弟たちの声が近づいてくる。おれを見つめる漆原の眼球が左右に揺れる。
「8時頃なら……」
「わかった」
 短くいって、手を離した。振り向くと、浮き輪を抱えた譲とペットボトルのジュースを持った護が立っていた。おれが立ち上がってその場を離れるのを見て、首を傾げる。
「あれ、風祭くん、どこ行くの?」
「そろそろ帰るわ」
 残念そうな顔の護に頷いてみせる。
「あとでな、漆原」
 漆原が無言で頷く。まだすこし顔が赤い。背中に漆原の視線を意識しながら、おれは今夜着ていく服のことを考えていた。