ぼくらの恋には込み入った事情が。

「マジで最低」
 アパートの部屋で弟たちとゲームをしているおれを見て、開口一番そういった。表情は不快を通り越して軽蔑を示していた。
「不法侵入」
「ちがうって。ちゃんとノックして入れてもらったし」
 おれが持参した携帯ゲームとタブレットの動画に夢中の弟たちを一瞥し、いつものバイト用バッグとリュックを床に置く。
「兄ちゃんもゲームやろうよ」
「あとでね。兄ちゃんたちちょっと話しなきゃだから」
 小学生の末弟の誘いを断り、おれを睨む。顎をしゃくって部屋の外を示す。黙って従った。
「こういうの困る」
 心底迷惑そうな顔でため息をつく。
「こんな時間まで夜更かしさせて。それにゲームなんて……欲しがっても買ってあげられない」
「ごめん」
 漆原は部屋に鍵をかけなおし、廊下を歩いて行く。後について階段を下りた。
 アパートの脇、街灯の下で漆原が歩みを止めた。まだ怒りが収まらないといった様子で体の向きを変える。腕を組み、肘のあたりを爪で引っ掻きながら、視線を彷徨わせている。
「本当にごめん。家にまできて。どっちがストーカーだって話だよな」
 漆原は無反応だった。おれから顔を背けて唇を噛んでいる。そうとう怒っている。おれはそっと唾を飲み込んだ。
「その……こないだのこと、謝りたくて」
 折れそうな気持ちを奮い立たせて、用意してきた言葉をどうにか口に出した。
「悪かったよ。おまえ、はじめてだったのに……いや、はじめてじゃなくても、だめだよな、ああいうのは」
 漆原は答えない。だが、聞いているのは確かだ。諦めずにつづけた。
「あのときは、なんていうか……テンションがおかしくなってて、それでつい……」
 漆原は無言で無表情だったが、静かにおれの話を聞いていた。腕を組んで目を逸らしているのは拒絶の象徴だろうが、それでも耳は傾けてくれていた。
「おれ……漆原がおれのこと好きでいてくれてんじゃないかって勘違いして」
 漆原の表情は動かない。冷めた声でいった。
「自分のこと好きなひとになら、勝手にああいうことしていいわけ?」
 侮蔑混じりの声がおれの心臓をじくじくと刺す。いいわけのひとつも出てこないのが情けなかった。
「風祭はなんでおれにキスしたの?」
 優柔不断で臆病なおれとちがい、漆原は常に率直だ。はぐらしかしたりごまかしたりしない。
「風祭は女の子が好きなんでしょ」
「あたりまえだろ」
 咄嗟に声を高めてしまう。
「おれは男が好きなんじゃなくて、おまえが……」
 言葉を切る。沈黙が漂った。
「ぼくがなに?」
「おまえが……」
 つづくべき言葉が出てこない。喉の奥で言葉が粘つき、歯の裏に貼りつく。
「おまえが書いた小説に影響されて……」
「ぼくのせい?」
「ちがう。そうじゃない。そういうことじゃなくて……」
 自分の弱さを振り切るように、おれは漆原に向かって頭を下げた。
「本当にごめん」
 上半身を折り曲げ、しばらくそのままの姿勢でいたが、やがて、頭の上で漆原のため息が聞こえた。
「もういい」
 頭を上げると、さっきとおなじ腕を組んだ姿勢の漆原が眉間に皺を刻み込んでいた。
「怒ってないってことか?」
「怒ってるけど、でももういい」
 漆原は頑なにおれと目を合わせない。ゆっくりと目を閉じ、いった。
「来週、ドラマの制作発表があるんだって」
 もう一度、唾液を飲み込んだ。小さく頷いた。掠れた声でいった。
「最後の話、読んだ」
 小説のなかの10人のおれはそれぞれ職業も性格もちがうが、唯一共通しているのは、たったひとりの相手を誠実に真剣に愛していた。イケメンで優秀で愛にあふれた理想的な人物。おれとは似ても似つかない。にもかかわらず、漆原が書いた小説を読んでいるうちに、おれはまるで自分が魅力的な男であるかのような錯覚を起こしていた。
 漆原の想像が生み出した創作であることは理解していたはずなのに、物語の世界と現実がいつの間にか交錯し、フィクションとリアルの境界線が曖昧になっていた。
 漆原はあくまでも身近な参考にあまり接点のない同級生のおれに着目しただけだ。それなのにおれは、漆原の創作を自分に都合良く解釈し、自分が漆原の特別な存在だと勝手に思い込んだ。
 ゆるされるはずがない。それでも、ひとつだけ伝えておきたいことがあった。
「おれ、好きだ、おまえの小説」
 薄明かりの下で、漆原が瞬きをする。本心だった。ただのモチーフのひとつに過ぎなかったとしても、漆原の紡ぐ物語はおれの自尊心を高め、安心と自信をくれた。
「ドラマ、楽しみにしてる」
「……ありがと」
 視線を合わせないまま、漆原が呟く。心臓が軋んだ。
「あと、これ」
 デニムのポケットから映画館の会員証を抜き、差し出す。漆原は横目にちらっと見てから、手を伸ばして受け取った。警戒がつよく、指先が触れあうこともなかった。
「つづり」
 その一言に、漆原はわずかに頬の筋肉を動かした。眼球が揺れておれを見る。
「綴っていうのな、おまえの名前」
 会員証に直筆で書かれた氏名とふりがな。漆原綴。ここ数日の間、何度も眺めていた。漆原の書いた文字がまるで漆原本人であるかのように。漆原綴。
「今まで知らなかったわ」
 会員証を手のなかで弄びながら、漆原が唇を結ぶ。おれは漆原を知らない。知ろうとしたときには遅かった。
「じゃ……おれ、帰る」
 踵を返そうとしたとき、漆原が呟く声がかすかに聞こえた。
「画数が……」
「え?」
 気のせいかと思った。しかし、漆原はおれを見ないまま、もう一度いった。
「画数が多くて……」
 なんの話をしているのか、一瞬わからなかった。戸惑い、どう返すべきか躊躇っているおれを漆原が見つめた。表情はまだ硬かったが、腕を解き、映画館の会員証を両手で摘まんでせわしなく弄っている。
「風祭も……」
 奥二重の目に見つめられ、我に返った。
「あ、画数? 画数な、名前の」
 壊れた人形のように何度も大きく頷いて、いった。
「画数多いと面倒くさいよな。テストのときとか、最初に名前書くだけで無駄に時間取られるしな。中学のとき、おなじクラスに田中一って奴いて、すっげえ羨ましかったもん」
 唾が飛ぶほど一気に捲し立てる。しゃべり終わってすぐに後悔した。また空気の読めない発言をしてしまった。羞恥に顔が熱くなる。
 漆原はすこしの間黙っていたが、やがて会員証を口元にあて、小さく微笑んだ。
「たなかはじめ?」
 街灯の明かりに照らされて、漆原が肩を震わせて笑う。
 漆原が笑った。おれに笑いかけてくれた。
 おれはその場に立ち尽くしたまま、ひたすら漆原を見ていた。漆原の笑顔から目を離すことができなくなっていた。